12-3
〝シェイラ。お前を愛している〟
砂糖菓子のように甘くささやき、ラウルがシェイラの腰を引き寄せる。色気たっぷりにシェイラを見つめる彼の姿はきらきらと輝いてみえて、自然とシェイラの頬にも熱が集まる。
〝ラウルさん、私も……〟
〝シェイラ……〟
ラウルの赤い瞳と、シェイラの緑の瞳。熱を帯びた視線が絡み合い、自然とふたりの距離が近くなる。魅惑的に目を細めるラウルにシェイラはどきどきと胸を高鳴らせ、そっと静かに瞼を閉じる。
けれども次の瞬間、ラウルは彼女からすっと離れた。
〝ラウルさん?〟
〝それと、彼女のことも愛している〟
〝はい?〟
呆けるシェイラの視線の先で、ラウルが別の女を引き寄せる。つややかな黒髪に、赤い唇のあの女だ。
煽情的な笑みを浮かべて、女がラウルのたくましい胸にしなだれかかる。そんな彼女の肩に手をまわして、ラウルは無邪気に笑った。
〝これから三人で暮らすんだ。お前もこいつと、仲良くしてやってくれ〟
いたずらっぽく、女が笑いを漏らす。まるで自分こそがラウルにふさわしいとシェイラに見せつけるかのように。
〝な、な、な、な……〟
わなわなと震え、シェイラはラウルと女とを交互に見やる。それから彼女は、思いっきり息を吸い込んだ。
「なんなんですか、そのひと!!!!」
自らの大声に、シェイラは驚いて飛び起きた。
途端、埃っぽくじめじめとした空気に満ちた、廃墟としか思えない古めかしい室内の光景が目に飛び込んできた。
しかし夢は夢でひどい内容だったが、目が覚めて「これ」というのはいかがなものだろう。幸い、床ではなくベッドの上に転がされていたため、体は痛くない。けれども両手は後ろで縛られており、不自由極まりない状況だ。
どうして自分はこんな場所に、こんな姿で――。
そのように疑問をいただいたとき、背後で声が響いた。
「お目覚めね、シェイラちゃん。いい夢、ではなかったみたいね」
唐突な呼びかけにシェイラは肩を跳ねさせ、恐る恐る声のしたほうを振り返る。するとそこには、例の女――先日はラウルと街を歩き、先ほどは夢のなかにまで登場した黒髪の女が、部屋の反対側に置かれたベッドのうえに腰かけていた。
美しく微笑む女に、シェイラは思わずいまの状況を忘れ、彼女に問いかけた。
「あなたは誰? 私を知っているんですか?」
「それより、気分はどう? 意識を失う前のことは覚えている?」
シェイラを遮り、女は逆に質問を返した。その真剣な顔に、シェイラは瞬きをして記憶をたどり――兄と店を出てからの一連の出来事を思い出して、顔を青ざめさせた。
「そうだわ。私、誰かに攫われて……!」
「よかった。記憶の混濁は起きていないみたいね」
焦るシェイラとは裏腹に、女はほっとしたように眉を下げる。けれどもすぐに彼女は表情を引き締めると、ちらりと扉をみやった。
「確認をしてみたけれど、その扉は開かないわ。外から施錠されているみたい。窓は開くけど、ここは3階よ。よほど自信がない限り、あそこから出るのはおすすめできないわね」
その代わり、部屋の外にも見張りはいないみたいだけどね、と女は付け足した。淡々と続ける女に焦燥の色はない。事実だけを確認しているといった調子だ。
それでシェイラも落ち着きを取り戻したけれども、ぞわぞわと胸の内に巣食う不安そのものを取り除くことまではできない。
そもそも、だ。なぜ、彼らはシェイラを攫ったのだろう。
あの時、男はシェイラの名を正確に呼び、狙いを定めてきた。あそこで声をかけてきたのも、ずっと前、おそらくは店に入る前からシェイラたちのあとをつけて、タイミングを見計らっていたはずだ。
もちろんシェイラだって中流とはいえ貴族の娘だ。金目のもの狙いの輩にとっては、ひとしく狙うに値する獲物だろう。だが、シェイラ・クラークという個人にここまでピントを絞って狙ったのだ。何か明確な目的があってのこととしか思えない。
とはいえ、シェイラにはその理由が皆目浮かばなかった。金が欲しければもっと大きな家を狙うだろうし、父の人柄を考えれば商会のトラブルという線も薄い。
「どうしてあのひとたちは、私なんかを狙って……」
表情を曇らせて、シェイラは呟く。
もちろん誰かの答えを期待した呟きではなかった。けれども意外なことに、それに答える声があった。
「あなたがラウル・オズボーンの弱点になるから、とは考えられないかしら」
「え?」
虚を突かれたシェイラは、まじまじと女を見つめる。
そんなシェイラを見返して、女は真剣に――まるでシェイラを試そうとするように、慎重に言葉をつづけた。
「そんな理由でと笑うかしら。でもね、シェイラちゃん。あなたが結婚しようとしている男の手綱を握ることは、暗がりに生きる者たちにとってとても価値があることよ」
王都の闇を穿ち正義を貫く、第二部隊の鬼隊長。彼を基軸とする第二部隊が正しく機能しているからこそ、王都の平和は守られていると言える。
裏を返せば、よからぬことを企む者たちにとって、ラウル・オズボーンほど疎ましい存在はいない。
「ラウルは強いし、第二部隊の結束も固い。彼を排することは難しい。だからあなたに目を付けた。ラウル・オズボーンが決して見捨てることのできない、最愛の女。――それは、彼を牽制するまたとない切り札になるもの」
「……っ」
息をのみ視線を彷徨わせたシェイラに、女は一瞬同情するような目を向ける。けれども彼女は、あえて先を続けることにしたらしかった。
「ラウルと結婚すれば、あなたを狙う者は必ず出てくる。もしかしたら、今日よりもずっと、酷い目に合うかもしれない。それでもあなたは、ラウルの手を取る覚悟はある?」
どくりと心臓が波打ち、視界が揺れるのをシェイラは感じた。
まるで良くないゴーストに出くわしたときと似ている。とらえどころのない不安が胸のうちを満たし、ひたひたと忍び寄るように恐怖が足元から這い上がる。
ラウルと結ばれることで、彼の追う者たちの標的になる可能性がある。そんなことは、これまで考えたこともなかった。
怖くないと言えば嘘になる。けれども。
「覚悟はあります。どんなことがあっても、ラウルさんは絶対に助け出してくれると信じているから」
曇りのない瞳をまっすぐに女に向けて、シェイラはそのように言い切った。
これまでの彼を見ていればわかる。ラウルは決して人質を見捨てない。諦めることもない。知略と戦略と武力。己の持ちうるすべてのカードを切り、あらゆる手を尽くして弱き者を守る。そういう男だ。
「ラウルさんは絶対に悪いひとに屈しません。そして、そのために誰かを犠牲にすることもありません。――それは私だから、じゃなくて。そういう、本物の正義の味方なんです」
それで、ときには無理をしてしまうのだと。苦笑まじりに、シェイラは付け足した。
〝……俺に、お前を傷つけさせないでくれ〟
カトリーヌ・シオンの思念に体の自由を奪われた夜の、彼の声が耳を打つ。
あの夜ラウルは、己のなかにシュタット城のゴーストを閉じ込めたままユアンに自分を斬らせようとした。それは恋人であるシェイラを守るためであり、同時に、王都に迫る危険を排除するという憲兵隊としての矜持のためでもあった。
――いや。そのときだけじゃない。
王立劇場の地下を一緒に歩いたときだってそうだ。ひょんなことから、ゴーストの気配に内心ひどく動揺していたことをさらけ出してしまったけれども、シェイラの前をいく背中の頼もしさだけは最後まで譲りはしなかった。
協力者のひとりに過ぎなかったあの頃から、誰よりも大切に想いあう間柄となった今日まで。彼はずっと変わらず、『誰か』を守るため奔走してきた。
おそらく、いまこの瞬間にも。
「ラウルさんが頑張っているのに、私だけメソメソしているわけにはいきません。……私はラウルさんみたいに、強くありません。だけど、せめて心だけは、ラウルさんと一緒に戦っていたいんです」
何かに――厚い扉の奥、さらにその奥で策略を巡らせる誰かに挑むように、シェイラは強く微笑んだ。その瞳には、めらめらと燃える決意が宿っていた。
すると、ふいに女が笑いを漏らした。先ほどまでのピンと張りつめた気配はどこかに消え、かわりに柔らかい空気をまとった彼女にシェイラが見惚れていると、彼女は何かをぽつりとつぶやいた。
「……なーんだ。心配して損しちゃった」
「え?」
「いいの。独り言」
よく聞こえずシェイラは問い返したが、女は軽く首を振った。そして、ふいにひどく優しげな――これまでよりもずっと、親しげな笑みを浮かべた。
「ラウルがシェイラちゃんを気に入った理由がわかったわ。あなたは守られているだけのお姫様じゃない。ラウルにとってあなたは、理解者でありパートナーなのね」
「それってどういう……」
「でも、ひとつだけ訂正。ラウルはたしかに誰であろうと全力で助けようとするだろうけど、あなたはやっぱり特別。シェイラちゃんを救うためなら、あの子はちょーっとばかし、頭に血が上っちゃうんじゃないかしら?」
そういってぱちりとウィンクを決めた女の姿は可憐で、思わずシェイラをどきりとさせ――同時に、心の底でむくむくと燻っていた別の感情を思い出させた。
「あ、あの!」
「ん?」
「あなたとラウルさんって、どんな関係なんですか!?」
「んんん???」
今度は、女が驚いて瞬きをする番だった。けれどもシェイラは、目を丸くする女の様子すら目に入らず、ごにょごにょとためらいながら続ける。
「私のことも知っているみたいだし、ラウルさんのことも『ラウル』とか『あの子』とか、詳しいみたいだし……それに、その」
「あの、シェイラちゃん?」
不穏な流れに、女が恐る恐る口をはさむ。しかし、そんなささやかな抵抗もむなしく、シェイラは顔を真っ赤にして、思い切って口を開いた。
「私、見ちゃったんです! この間、あなたがラウルさんと腕を組んで、仲良さそうに町中を歩いているのを!」
「えええ!?」
仰天した女が、目を白黒させる。そんな彼女に、シェイラはぐいと体を乗り出した。
――綺麗な人だ。いまも、その印象は変わらない。身に付いた気品や自信、おそらくはこれまで歩んできた道のりだって、側から見れば彼女のほうがよほどラウルにふさわしい。
それでも。
「あなたがラウルさんとどういう関係か知りませんが……っ、わたし、あの人を想う気持ちだけは負けません! ラウルさんのこと、私が誰よりも幸せにしてみせます!!」
「っ!?」
女はきょとんと瞬きをし、次の瞬間盛大に吹き出した。首をかしげるシェイラに、女は息も絶え絶えに笑った。
「誰よりも幸せにって、そんなあなた、なんちゅう男前な……っ」
「お、おかしいですか?!」
「おかしくないわよ。おかしくないけど、鬼神隊の鬼隊長つかまえといて、そんなイケメンな宣言……っ」
よほどツボに入ったのか、女は涙さえ滲ませて笑い続ける。シェイラが憮然としていると、しばらくして女は「あーおもしろい」とようやく息をついた。
「私とラウルが恋仲かって? バカねえ。そんなこと心配してたの?」
「だ、だって! さっきだって名前を聞いても話をかえたし!」
「それより大事な話がたくさんあったからよ! まさかそんな勘違いしてるなんて思わなかったし」
あっけらかんと言い切る女に、シェイラはむすりと口をつぐむ。そんな彼女を、女はにまにまといたずらっぽく眺めた。
「あのね、シェイラちゃん。たしかに、街中で腕を組んで歩いてたのは私よ? けどね、私とラウルはただの……」
笑顔で言いかけた女だったが、ふいに言葉を飲み込んだ。表情を一変させた彼女は、警戒するように首を巡らせた。
「なにかしら。急に寒気が」
顔をしかめる女の向かいで、シェイラもまた、異変に気が付いていた。なぜならシェイラの目の前を、青白い蝶がひらひらと舞ったからだ。
ゴーストはすぐに現れた。ゴーストは品のよさそうな老女で、にこにこと笑みを浮かべてすーっとシェイラと女の間を横切っていく。途中、シェイラが見ていることに気が付いたのか、にこりと会釈をしてから壁を通り抜けていった。
ところが、それで終わらなかった。
老女のあとを追いかけるように、次々に別のゴーストが現れる。恰幅のいい男、身なりのいい女、神経質そうな老人……。次から次へと、ゴーストたちがシェイラたちの間を通り過ぎ、同じように壁を通り抜けていく。
ころころと丸い女がぽんと壁に飛び込んでいったのを最後に、奇妙なゴースト行列は終わりを告げた。
「もしかして、何かいたの?」
シェイラの様子から察したのだろう。女は控えめに問いかける。凛と、野に咲く薔薇のような強さをうかがわせる彼女だが、さすがにゴーストは苦手なようだ。
「はい。でも、悪いゴーストではなかったですし、そこの壁を通っていなくなってしまったので心配はいらないですよ」
女に説明をしてやりながら、シェイラは首をかしげる。
悪霊ならまだしも、あれだけ無害そうなゴーストが、こうも集まって同時に見られることも珍しい。見た感じ家族というわけでもなかったし、銘々が勝手気ままにぷかぷか浮かんで通り過ぎていくだけなのだから尚更だ。
そのとき、シェイラはふと、シュタット城のゴーストのことを調べて家にある書物を読み漁っていた際に見つけた、とある記述のことを思い出される。
ゴースト街道。
いくつかの要因が重なることによって生まれる、ゴーストにとって居心地のいい空間。そこではひとびとが街道を行きかうように、あちこちから引き寄せられたゴーストがふわふわと漂っているという。
改めて注意してみれば、先ほどのようにはっきりはしてはいないものの、薄っすらとゴーストの気配が漂っている。
この部屋のなかだけではない。おそらくは、この建物全体に。
と、シェイラが周囲の気配をうかがっていると、再び小さな蝶が視界の端を飛んだ。つられてそちらを見ると、今にも消えてしまいそうにチリチリを青い光を飛ばして、蝶々は窓へと飛んでいく。
窓を蝶が通り抜ける刹那、ガラスにふわふわとした長いしっぽのようなものが映りこんだ。
どこかで見たことがある毛並みだ。なぜか、シェイラはそのような感想を抱いた。けれども次の瞬間、扉の鍵が外側から開けられる音が響き、シェイラはすぐにそのことを忘れてしまった。
シェイラと女が見つめる先で、扉がゆっくりと開く。
そこに現れたのは、やはりというか、シェイラたちを車に押し込んだ大柄の男だった。
男は感情のない瞳にふたりを順繰りに映してから、シェイラを見据えてこう言った。
「ついてこい、シェイラ・クラーク。お前だけだ」