12-2
それは、よく晴れた日の午後のことだ。
「んー、おいしい!」
ぱくりとタルトを口に運び、シェイラはそのように顔をほころばせた。
ここは町のはずれにある可愛らしい小さなカフェのテラス席。彼女の前には、店の一押しだという蜜がたっぷりかかった季節のタルト。甘美なお菓子に、ぴったりの紅茶。これぞ上質な午後の時間の過ごし方と言えるだろう。
「クリス姉さんが前に話してくれたときから、一回来てみたかったの。姉さんが言う通り、ほっこり甘くて幸せな味がする。んー、来られてよかったー!」
頬に手を当て、幸せをあらわにするシェイラ。
けれども向かいに座る人物は、彼女のように『幸せいっぱい』とはいかないらしい。彼はごくりと紅茶をのどに流し込むと、わざと視線を通りにそらしたままぼそりと呟いた。
「だったら、オズボーン様を誘えばよかったのに」
向かいの人物――シェイラの兄キースの言葉に、シェイラは一瞬だけぴたりと動きを止める。けれども次の瞬間、シェイラは何事もなかったように通りの向かい側を指さした。
「見て見て。来年の春から、王立劇場で新しい劇をやるみたい!」
「シェイラ」
「今度はヴァンパイアものかー。あ、またダブルヒロインみたい! アイリーンさんは決定として、エイミーは役を射止められたかな」
「シェイラ」
「ヴァンパイアはきっとグウェンさんだよね。わー、すっごく合っているなあ!」
「シェイラ」
語気も強く、ずいとキースが身を乗り出す。ついに聞こえない振りを出来なくなったシェイラが首を前に向けると、穴が開くほどにじいと、キースがシェイラを睨んでいた。
「それで? あいつと何があった??」
ところで今更に説明のいらないことかもしれないが、シェイラを深く愛するクラーク家のなかでも、キース・クラークという人物はかなりの妹バカである。さかのぼればそれはシェイラが生まれたときにはじまり、以来、キースは兄としてシェイラを可愛がってきた。
小さいころ、シェイラが『勘』のことでからかわれたりすると、キースはすぐに飛んできて、目を吊り上げて怒った。あんまり怒るものだから、からかわれた本人であるシェイラが逆にキースをなだめるほどだった。
『勘』のせいで人付き合いは苦手になってしまったシェイラだが、そうした家族に囲まれて育ったからか寂しさや惨めさを感じることはほとんどなかった。
そんなキースが、様子のおかしい妹を黙って見守るはずはないわけで。
「あいつが別の女とデートしてた!?!?!?」
兄の追及を免れなかったシェイラがついに口を割ると、キースの頓狂な声がカフェのテラス席に響いた。
何事かとほかの客が振り返るなか、キースは恥じるように小さく縮こまりつつ、それでも目つきは鋭くシェイラを睨んでいた。
「いつ!? どこで!? どんなふうに!?」
「に、兄さん!! まだデートって決まったわけじゃないから!」
「そりゃな!? だってお前、もしデートだとしたら浮気ってやつじゃ……」
しまったという顔をして、キースが両手で口を塞ぐ。だが時すでに遅し、シェイラは負のオーラをどんより漂わせ俯いていた。
(浮気……、やっぱりそう、なのかな)
フォークの先で一口分のタルトを遊ばせながら、シェイラは項垂れる。そんな妹の様子に、さっきまで怒っていたキースがオロオロと宥めるように手を伸ばした。
「いや、さ。お前の言うように、まだ何かあるって決まったわけじゃないからさ。ていうか、本当にオズボーン様だったのか? よく似ている別の誰かってわけじゃ……」
「ラウルさんを誰かと間違えるなんてありえないわ。制服だって着てたし」
「そ、そうか」
ピシャリと言い切ったシェイラに、キースは困ったように目を泳がせる。だが彼は、すぐに大事なことに気がついて身を乗り出した。
「だったら、あいつを避けている場合じゃないだろ! こんな大事なこと、さっさと問い詰めて吐かせなきゃ!」
「嫌。会いたくない」
「会いたくない、じゃないだろ! お前たち結婚するんだろ? もし本当に何かあるんなら、このまま放っといていい問題じゃ」
「嫌ったら、嫌なの!」
両手にぎゅっと力を込め、シェイラは逃げるように身を縮める。視線を伏せたまま、シェイラは唇を尖らせた。
「……今ラウルさんに会ったら、私、すごく嫌なことを言っちゃうもの」
きれいなひとだった。ラウルの深い藍色の髪と対になるような、長くつややかな漆黒の髪。彼を見上げる強い目には見る者を惹きつけるような魅力があり、笑みを浮かべた赤い唇には自信が満ちていた。
これまで社交界を避けてきたシェイラとは違う、堂々とした佇まい。パズルのピースがぴたりとはまるようなふたりの姿はお似合いとしか言いようがない。
けれどもその姿は、シェイラのなかにどうしようもなく渦巻く、暗く澱んだ感情を生み出した。それはこれまで彼女が経験したことがないほどにドロリと重く、底なし沼のように沈み行く心地がした。
だからシェイラは、驚くエディを置いて家に逃げ帰った。
以来彼女は、ラウルを避け続けている。
やれやれとため息をついて、キースは椅子の背にもたれる。すっかり冷めた紅茶を口に含んでから、彼は「で?」とシェイラに問いてかけた。
「お前はどう思ってんの。あいつがお前を裏切って、ほかの女に手を出していると本当に思うわけ?」
シェイラは黙り込んだ。ややあって、彼女は一度、首を横に振った。
「だよな。僕もそう思う」
静かな兄の声に、シェイラははっとして顔を上げた。
けれども、冷静に物事を見極めていた様子から一転、キースはカップをガチャリと手荒にソーサに戻し、怒りに笑みを引き攣らせてパンと両手を打ち合わせた。
「だ・か・ら! 話は簡単だ。僕があいつをとっちめて、こてんぱにやっつけてやる!」
「待って、待って!? なんでそうなるの!?」
仰天して、シェイラは叫んだ。今の話の流れなら、あとはちゃんと冷静にラウルに向き合って真実を確かめるよう、シェイラを諭すのが普通のはずだ。
だが混乱するシェイラとは対照に、キースは当たり前だと言わんばかりに鼻を鳴らすと、不愉快そうに顔をゆがめた。
「あいつが白だろうが関係あるか。お前をこんなに不安にさせたんだ。その落とし前は、きっちりつけてもらう」
その言葉に、シェイラは小さく息をのんだ。
〝おい! 僕の妹をバカにしたら承知しないぞ!!〟
シェイラの耳に、幼い日の、彼女をかばう兄の声が蘇る。むすりと眉根を寄せるキースの姿が、顔を真っ赤にしていじめっ子たちに怒る姿と重なってみえた。
(ほんとに、もう……)
なんだか可笑しくなって、シェイラは噴き出した。キースは変わらない。小さいときから大人になったいまでも、ずっと過保護で、心配性で優しい大切なシェイラの兄だ。
怪訝そうに首をかしげるキースに、シェイラは笑いながら首を振った。
「それじゃ、もっと大事になっちゃうじゃない。わかったわよ。ラウルさんと話すわ。ちゃんと確かめたら、それでいいでしょ?」
「そんなこと言って、いざオズボーン様を前にしたら、また逃げ出すんじゃ……」
「大丈夫よ。私はあの人の恋人で、この先もずっとパートナーになるんだもの」
何か言おうとしていたらしいキースが言葉を飲み込む。感謝と、ほんの少しの寂しさを胸に抱きながら、シェイラは兄をまっすぐに見つめてほほ笑んだ。
「ありがとう、兄さん。私、頑張るから」
「……ッ」
キースが小さく息をのみ、目をそらした。その刹那、彼は寂しげとも嬉しげともいえる憂いを帯びた笑みを浮かべた気がしたが、次の瞬間、キースはいつもの調子で「いいか!」と腕を組んだ。
「何があろうと、お前は僕の妹に変わりはないからな。もし本当にあいつがしでかしているようだったら、すぐに僕を呼べよ。めったんめったんの、ぎったんぎったんにして、あいつをクラーク家から締め出してやる!」
「はいはい」
くすくすと笑って、シェイラはフォークに刺したままになっていたタルトの欠片を口に運んだ。
それは、さっきまでよりずっと甘く、美味しく感じた。
すっかり午後のお茶を楽しんだふたりは、店を出て大通りを目指していた。町のはずれであるためか、あたりは静かで人影もない。
うんと伸びをして体をほぐしながら、キースは隣のシェイラに問いかけた。
「どうする? このまま家に戻ってもいいけど、何か買いたいものがあるなら付き合うぞ」
「特にないわ。今日もラウルさんがうちに寄るかもしれないし。兄さんだって、そのお土産、早く家に帰ってクリス姉さんに渡したいんじゃない?」
「まあ、そうだな、うん」
照れくさそうに顔をしかめると、キースは店で買い求めた焼き菓子とおまけのミニブーケを後ろ手に隠した。
兄夫婦は仲がいい。特に、兄がクリスティーヌを大事にしている様はシェイラが見ていても羨ましく感じるほどだ。
「クリス姉さん、きっと喜ぶわ。その黄色のブーケも姉さんのイメージにぴったりだもの。兄さんはほんとに、クリス姉さんが大好きよね」
「ああ、もう。僕のことはいいから。帰るなら車を拾うぞ」
ぷいと顔をそむけると、キースはずんずんと大通りへと足を向けた。ここから家までは歩いて帰るには少し遠すぎる。とはいえ乗合の車を捕まえるにしても、小径を抜けて大通りに出る必要があるのだ。
その時だった。
ざっと地をける音と共に、大柄の男がシェイラとキースの間に割って入る。道をふさがれたシェイラが戸惑っていると、異変に気付いたキースが男の肩をぐいとつかんだ。
「誰だ。妹に何か用か?」
「シェイラ・クラークさんですね」
キースには目もくれず、シェイラをじっと見下して男が問う。シェイラが答えるべきかと迷っていると、男は黒い外套をめくってみせる。見れば、男は腰に帯刀していた。
「憲兵隊の者です。オズボーン隊長より、あなたをお連れするよう仰せつかって参りました。失礼ですが、私についてきていただけますか」
「ラウルさんが、私を?」
困惑しつつ、シェイラは考えた。部下をよこしたということは、また何かゴースト絡みの事件が起きたのだろうか。
そんなシェイラの胸中を見透かしたように、男はシェイラの肩に手を置き促した。
「詳しくは道中ご説明します。時間がありません。急ぎ、向かいましょう」
「待て!!」
その場を立ち去りかけた男とシェイラの背中を、キースが鋭く制す。兄は大股で近寄ると、険しい顔で男を睨みあげた。
「本当にオズボーン様の部下なのか? 憲兵隊なら、どうして制服を着ていない?」
「捜査の都合上です。これ以上はお答えできません」
「は、そうか。なら質問を変える。シェイラがここにいると、どうしてわかった?」
「……隊長より、本日、シェイラさんがあちらの店に行かれる予定だと伺いましたので」
「そいつはおかしいな」
そういって、キースはにやりと不敵に笑った。
「シェイラをあの店に誘ったのは僕のほうだ。しかも今朝、な」
男と兄、二人の間に緊張した空気が流れる。次の瞬間、キースは男にがむしゃらに飛びつき、羽交い絞めにした。そのまま彼は、必死の形相で叫んだ。
「シェイラ、逃げろ!! 誰か!! 憲兵隊を呼んでくれ、怪しい男、ガッ!?」
背後から響いた鈍い音に、走り出していたシェイラはつい足を止めて後ろを振り返った。そこで彼女は、声もなく地に倒れこむ兄と、その兄の上に紙の束のようなものを投げ捨てる男の姿とを見た。
「兄さん!!!!」
「おっと。安心しな。殺しちゃいない」
男は先ほどまでの丁寧な言葉遣いを解いて、走り寄ろうとしたシェイラを抱き留める。尚も手を伸ばそうとしるシェイラを押さえ込むと、男は「静かにしな」とシェイラに耳打ちした。
「大人しく従うなら、悪いようにはしない。それとも、兄貴から血が流れる様を見たいか?」
「……っ!!」
どくりと心臓が嫌な音を立て、シェイラは揺れる瞳で兄を見る。――男の言うように、兄は気を失っているだけのようだ。このままひとり残されても、大事に至るようなことはないだろう。
「……わかったわ。従うから、兄を傷つけるのはやめてちょうだい」
「いい子だ」
男がにやりと笑う気配があった。温かみの欠片もない、冷え冷えとした笑みだった。
「そしたら、そのままこっちへ来てもらおうか……」
男にぐいと手を引かれ、シェイラは路地裏に引きずり込まれる。そのまま狭い道をまっすぐに行くと、出口をふさぐようにして車が横付けに止められていた。
「乗れ」
運転席に座る男の鋭い視線にシェイラがひるんでいると、後ろから男に背中を小突かれる。後ろを盗み見れば、男は外套に隠れて剣の柄に手をかけている。シェイラが何か騒ぎ立てれば、迷わずそれを抜くに違いない。
どうしよう。どうしよう。
どくどくと大きくなる心臓の音に、シェイラはぎゅっと目を瞑った。
(ラウルさん……!)
その時、カツンとヒールが地を叩く音が男の背後から響いた。シェイラ、そして男まで、同時にぎょっとした様子で振り返る。すると、いつの間にかそこには、すらりと佇むひとりの女がいた。
「っ!? いつからそこに!?」
思わずと言った様子で、男が呟く。当然だ。シェイラたちが歩いてきた裏路地は狭く長く、しかも男は常に周囲を警戒しながら歩いてきた。だというのに、いつの間に彼女は、こんな至近距離に近づいたのだろう。
けれどもシェイラは、それどころではなかった。その女に見覚えがあったからだ。
(この人、この間ラウルさんと街を歩いていた……)
先日と異なり、レースで縁取られたツバの広い帽子をかぶっているが、間違いない。長く艶やかな黒髪も、はっきりとした顔立ちや強いまなざしも、この間見かけたときのままだ。
そのようにシェイラが女を見ていると、ふいに彼女と視線が交わった。すると女は赤い唇に緩やかに弧を描き、艶美にほほ笑んだ。
しかし次の瞬間、彼女は両手を口元に持っていくと「きゃああ!」と盛大に悲鳴を上げた。
「大変よ、人さらいだわ!! 誰か、だれかー!」
「なっ!? お前、早く車に乗れ!!」
車が止められるだけあって、路地を抜けた先の道はそこそこ人通りがあったのだろう。女の悲鳴に、ひとびとがざわつく気配があった。
それを焦ってか、男がシェイラを突き飛ばし有無を言わさず車に乗せる。
「乱暴はおよしなさい!! ひどいわ!! 誰か、憲兵隊を呼んで!!」
「くそっ! お前も乗れ!!」
これ以上、往来する人々の注目を集めたくなかったのだろう。男は、尚も騒ぎ立てる女をも強引に車に放り込み、ふたりを押し込むようにして自身も車に乗った。
途端、運転席の男が派手にアクセルを踏み、車を急発進させる。
訝しげな表情を浮かべる人々の姿が、急速に後ろへと遠ざかっていく。舗装の悪い道のためガタガタと車中が激しく揺れるなか、運転席の男が後ろの席に何かを放った。
「こいつでふたりを眠らせとけ」
「ああ」
投げられた白い布をぱしりとつかむと、男が女の口元に押し当てる。彼女が大人しくなったのを確かめてから、続いて男はシェイラの口元も同様に塞いだ。
甘い香りだ。そう思ったのを最後に、シェイラの意識はどろりと溶け、深い混濁のなかへと沈んでいったのだった。