【閑話】ふたりだけの帰り道
微かな振動が体へと伝わり、シェイラの意識を優しく呼び起こす。
瞼を開いた彼女は、自分がラウルの車のなかにいて、彼が運転するとなりで微睡んでいたことに気づいた。
「すみません! 私、いま少し眠っちゃって……」
だが、ラウルはシェイラにちらりと視線を投げかけると、やさしく微笑んだ。
「そのまま眠っていてよかったのに。急に俺の家族に囲まれて、疲れただろ。今日は来てくれてありがとうな」
気遣うような柔らかな笑みを向けられ、シェイラはどきりと胸が高鳴る。
慌てて窓の外に視線をそらしたシェイラは、ここが中央庭園の近くであることを知った。庭園からシェイラの家はすぐだ。歩きですらそうなのだから、車はなおさらだろう。
そう思ったとき、胸のあたりにチクリと痛みが走った。
シェイラは己の胸に手を当て、首を傾げる。今の痛みはいったい何だろう。おまけにこの、空にどんより広がる雲のような、もやもやとした心地は。
「どうかしたか」
胸に手を当てたまま沈黙したシェイラを不思議に思ったのか、ラウルに声を掛けられる。シェイラはそれに首を振ってから、「そういえば」と話題を変えた。
「ラウルさんは、お母様に似たんですね。目も口元もそっくりでした」
「そうか? まあ、どちらかと言えば母に似ていると言われることが多いが」
「そうですよ! ていうか、お母様もですけど、お兄様お二人も、皆さん本当にきれいな顔立ちをしていますよね」
「ん?」
ハンドルを握りながらシェイラの話に耳を傾けていたラウルが、ぴくりと眉を動かす。それに気づかないまま、シェイラは一生懸命力説する。
「ジェイクさんはきれいだけど男らしいというか、格好良くて。ブランさんは線が細くて、よりお母様似で。あんな人が旦那さまだったら、毎日、気が気じゃないだろうなあ」
「へえ」
明らかに気のない返事をするラウルに、シェイラはおやと思い、彼に視線を戻す。その横顔は、どこかつまらなそうだ。
何か彼の気の障るようなことを言っただろうか。そう考えて、すぐにシェイラはぴんときた。
「もしかして妬いてます?」
「妬いてない」
「やっぱり妬いてますよね」
「違う」
「でも、その顔……」
「だから違うって」
ブレーキを踏んだラウルが、こちらに向き直ってシェイラをにらむ。だが、何か抗議をしかけたところで、彼はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「なんだ、この手は」
ややあって少々不服そうにラウルが呟く。だが、それが純粋な「不満」の表れかといえば、決してそんなことはない。そのことをちゃんと見抜いていたシェイラは、ラウルの頭を撫でる手を止めはしなかった。
普段の彼女であれば、ラウル相手にここまで大胆になれなかっただろう。けれども、今夜は彼の家族との顔合わせが無事に終わった安堵感や程よい疲れがあって、いくらか気分が高揚していた。
だからこそシェイラは、そのままにっこりと笑みを深めた。
「ラウルさんって、かわいいですよね」
「……は!?」
まさか自分が「かわいい」と言われるとは思わなかったのだろう。ラウルは目を見開き、端正な顔に似合わない頓狂な声を上げる。
それでもシェイラは追及の手を緩めはしない。ふふんと鼻を鳴らし、得意げに彼女はラウルの顔を覗き込む。
「だって魅惑の鬼隊長なんて呼ばれているのに――自分のほうがよっぽどモテてモテて大変なくせに。すぐ不安になるし、すぐ嫉妬するし、すぐ拗ねるし」
「それは……」
「そんなに私のこと、大好きなんですか?」
いたずらっぽく、シェイラは小首をかしげてみせた。
――もちろん、彼女は冗談のつもりだった。伸ばしてた手を彼にとらわれ、その手のひらにやさしく口づけられるまでは。
突然のことに硬直するシェイラの視線の先で、ラウルがゆっくりと唇を離す。軽くウェーブする前髪がはらりと揺れ、ついと向けられた紅い視線には切なく甘い光が宿っていた。
「そうだよ」
甘えるようにシェイラの手に頬を寄せ、ラウルが唇を尖らせる。
「これが惚れた側の弱みだ。……悪いか」
低くささやいて、ラウルがぐっと体を乗り出す。
唇を奪われる。そう思って、シェイラはとっさにぎゅっと目を閉じる。けれども、彼はシェイラの唇に軽く触れるだけで驚くほどあっさりと離れた。
意外に思ってシェイラが目を開くと、彼は親指で外を指し示した。
「家、着いてるぞ」
「え!?」
慌てて窓の外を確かめれば、確かにクラーク家の屋敷の前だ。シェイラが気づいていなかっただけで、とっくのとうに着いてしまっていたらしい。
戸惑うシェイラをよそにラウルはエンジンを切り、扉に手をかける。
「遅くなっちまったな。家族もいい加減、お前を心配して……」
ラウルの声はそこで途切れた。後ろからシェイラが、彼に抱き着いたためだ。
「シェイラ、ッ」
「もうすこし」
チクチクと主張する胸の痛みを押さえ込もうとするように、シェイラはラウルにしがみつく力を強めた。
「もうすこしだけ、このままでもいいですか」
胸の痛みの正体が、ようやくシェイラにもわかった。これは「寂しい」だ。彼と離れ別々の家に戻ろうとするのが、シェイラは堪らなく寂しいのだ。
(……ラウルさんのベッド、あたたかかったな)
昨晩から今朝にかけてのことを思い出し、シェイラはきゅっと唇をかみしめる。
昨晩についてはおそらくラウルはほとんど覚えていないだろうし、今朝のことだってどうせ寝ぼけて正気じゃなかったに違いない。
けれどもシェイラは鮮明に覚えている。手を引かれ彼の胸に倒れこむときの、心臓が壊れてしまいそうなほどの胸の高鳴りも。包み込むように抱きしめられたときの、シーツのこすれる音も。規則的に響く寝息につられ、盗み見たときに見えた、きれいで無垢な寝顔も。
こんなにも人をどきどきさせて翻弄させたくせに、今日はあっさりと家に帰そうとする。自分でも理不尽な怒りだと思うが、そのことがほんの少し恨めしい。
そんな風にシェイラが抱き着いていると、背中を彼女に向けたまま、ふいにラウルが深くため息を吐いた。
「ラウルさん?」
「……ったく」
ラウルが何やら小さく毒づく。かと思えば、次の瞬間ラウルはくるりと姿勢を変えた。シェイラが気づいたときには形勢はすっかり逆転し、椅子の背に押し付けられるようにしてシェイラは彼に閉じ込められていた。
「ひとがせっかく、紳士的に振舞おうって努力してるのに。お前ってやつは」
前髪をかき上げ、シェイラを見下ろす。その瞳に宿る光は先ほどと打って変わって欲に満ち、背筋が震えるほどに煽情的だ。
その色気にシェイラが軽く眩暈を起こしたそのとき。ラウルが手を伸ばし、あろうことか、シェイラが着るワンピースの首元のボタンを素早く二つ外した。
「え、や、待って……っ!」
シェイラは仰天し、続いて焦った。そして必死に身をよじった。
けれども女の身であるシェイラが、男の、それも憲兵隊として鍛え上げたラウルの力にかなうわけもない。彼はたやすくシェイラの動きを封じると、鎖骨まで暴かれたシェイラの首元に顔をうずめた。
息をのむシェイラに、最初に届いたのは包み込むようなあたたかな感触。すぐにそれはチリリとした痛みに代わり、びくりとシェイラの体を跳ねさせる
怯えるシェイラをなだめるように、大きな掌がゆっくりと彼女の背をさする。それが三往復目まできたとき、ようやくラウルは唇を離した。
この時、ラウルが口付けていた箇所には、彼が咲かせた紅い華がくっきりと浮かび上がっていた。
「ラウルさん……? いったい何を」
「おしおき」
ちろりと赤い舌をのぞかせ、蠱惑的にラウルがほほ笑む。それでシェイラも、彼が自分の首筋に刻んだ印について気づいた。
途端にシェイラは、顔を真っ赤に茹で上がらせた。そんな初心な反応を楽しむようにラウルは目を細めると、自身が印した赤い痕を愛おしげに指でなぞった。
「これで俺を思い出せるだろ。――ひとりのベッドの中でも、な」
それでもう、限界だった。
シェイラは声にならない悲鳴をあげると、ラウルを突き飛ばし、転げるように車の外に飛び出しす。続いて勢いよく振り向くと、余裕をにじませて頬杖を突くラウルをぴしりと指さした。
「ら、ら、ら、ラウルさんのバカ! 変態!! エロおやじ!!!」
「エロ……おやじは、ひどくないか」
「知りません! エロおやじったら、エロおやじです!」
そういい捨て、シェイラは肩をいからせてクラーク家の屋敷に一直線に向かう。
なんて油断も隙も無いことか。意外な弱点があろうが、存外かわいい一面があろうが、やっぱりラウルはシェイラより一枚も二枚も三枚だって上手だ。
その証拠に、彼にとってはほんの戯れにすぎないことで、こんなにも心を乱されてしまう。
ほんとうに。ほんとうに。ほんとうに……!
「あの」
扉に手をかけたところでぴたりと足を止めて、シェイラは肩越しにわずかに彼へと顔を向ける。そのままシェイラが館内に消えると思っていたのだろう。車のなかから意外そうな顔をするラウルに、シェイラは仕方なくこれだけは告げた。
「送ってくれて、ありがとうございました。おやすみなさい」
ラウルは驚いたように目を見張り――続いて愛おしげに、「愛」という感情がそのまま表情に溶け込んだかのような、そんな蕩けるような笑みを浮かべた。
「……ああ、おやすみ。いい夢を」
――ぱたりと閉ざした戸に寄りかかり、シェイラは一息をつく。その背中越しに、彼女は車が走り去る音を聞いた。
まだシェイラの全身は熱く、胸はトクトクと高鳴っている。
惚れた弱みだなんて、彼は言っていた。それは間違ってはいないのだろうけれど、一方で間違っているとも思う。だってラウルがそうなら、きっと自分のこれだって同じだ。
彼に何をされても、どんな顔を向けられても、うれしいと思ってしまうだなんて。
そのことをほんのちょっぴり悔しく思いつつ、シェイラは首筋の痕が見つからないよう急いでボタンを留め、改めて家族の待つ部屋へと向かったのだった。