11-3
まずはシェイラが手を伸ばし、豪華な宝石のついた指輪を掌にのせる。それを包み込むようにして、ラウルが手を重ねる。
照れ隠しのために、シェイラの表情は少々渋い。対してラウルは平然とした顔でシェイラの手を握っている。
「……やっぱり、おかしくないですか?」
駄目元で、シェイラは最後の抵抗を試みる。けれども、ラウルからの返答は絶望的なものだった。
「なにが?」
「……いえ、なんでもないです」
シェイラは諦め、なるべくオズボーン家のひとびとを視界に入れないように注力した。そうでもしなければ、ニマニマと楽しそうに見守る複数の目に耐えきれず、その場で食卓に伏してしまいそうだからだ。
そうしてふたりは、同時に目を閉じた。
――最初に感じたのは、全身を包み込むような温かさと、そこはかとない懐かしさだった。いつまでもこの場所にいたい。そう思わせるような、安心感。けれども、それらを生み出しているゴーストの姿は、まだ見えない。
〝シェイラ〟
呼びかけられたほうを確かめると、そこにはラウルがいた。彼とシェイラの手は固く繋がれており、何もない空間の中にふたりで漂っている。
繋いでいるのとは反対側の手を掲げ、ラウルがより奥を指さす。そちらに目をやると、ふわふわと青白い蝶が手招きするように浮かんでいる。
シェイラは頷いて、ラウルの手を引いてより深くへと潜った。
近づいていくと、どうやら相手のほうが戸惑っているのが伝わってきた。シェイラ達に興味がないわけではないらしい。しかし近づいては離れ、離れすぎては戻りを繰り返し、つかず離れずの一定の距離を保ち続けている。
けれども、あるところまでいったときに、ふいに相手が立ち止まる気配があった。
つられて、シェイラとラウルもその場で足を止める。すると恐る恐る――まるでこちらが驚いてしまわないよう気遣うような、そんな慎重な足取りで、相手は少しずつ近づいてきた。
そして、ついにその姿が露わとなる。最初に小さな足が見え、続いて金色に輝く毛並みが現れ、優しくまあるい瞳が暗闇のなかに現れる。赤い舌を出し、窺うようにしっぽを振る『彼女』。目を丸くしてそれを眺めていたラウルは、ややあって息を呑んだ。
〝お前、まさか……〟
「フェイリス、なのか?」
その呟きは、現実世界にいるラウルの口から漏れた。途端、がたりと椅子が揺れる音が響いて、シェイラたちは思わず目を開いた。すると両手で口元を覆い、目を大きく見開いたミシェル夫人の姿が、そこにはあった。
――夫人によると、フェイリスというのは彼女の祖母が飼っていた犬の名だという。ミシェル夫人も王城にいたころはたいそう可愛がっていたが、彼女が社交デビューを飾るすこし前に、老衰で寿命をまっとうしたらしい。
食事が終わったあとでシェイラも見せてもらったのだが、オズボーン家の居間には祖母と幼いミシェル夫人ら孫たちが描かれた肖像画があり、彼らと寄り添うようにしてフェイリスの姿も描かれている。たしかにそれは、先ほど控えめに姿を見せた、上品な犬と同じ姿形をしていた。
「どうか、この指輪はこのまま、大事にそばに置いてあげてください」
指輪を箱に戻し、それを夫人に手渡しながら、シェイラはそっと微笑んだ。
「ゴーストに会ったとき、伝わってきました。『家族のそばにいたい』。それが、この子の望みです。大丈夫です。満足したら、この子は自分であちらの世界に行ける。それまでお義母様やご家族を見守ってくれる、そういう優しいゴーストです」
「ええ、ええ」
箱を受け取りながら、ミシェル夫人が何度も頷く。夫がそっと肩に手を添え、ほかの家族たちもやさしく彼女を見守るなか、ミシェル夫人は愛おしむように箱を抱きしめた。
こうしてシェイラとオズボーン家との初めての顔合わせは、穏やかな雰囲気のまま静かに終わりを告げた。彼の両親、とくに母のほうはすっかりシェイラを気に入った様子で、また近いうちにお茶でも一緒にしようと何度も約束を取り付けてから、やっとシェイラが家に戻るのを許したほどであった。
その夜、ラウルがシェイラをクラーク家の屋敷に送り届けてから家に戻ると、ほかに誰もいなくなった居間で長兄のジェイクと出くわした。今晩は屋敷に泊まることにした彼は、どうやらひとり寝る前の一杯を楽しもうとしていたらしい。
「よかったな、ラウル。お前の嫁さん、これで完全に我が家に馴染めたな」
兄の誘いに応じてラウルが席に着くと、ロックグラスにウィスキーを注ぎながらジェイクがそんなことを言って笑う。グラスを受け取り、軽く打ち合わせてから、ラウルはからころと氷を揺らしながら答えた。
「はじめから心配しちゃいなかったさ。会おうって打診があった時点で、あのひとたちのチェックには合格していたも同然だからな。――どうせ兄貴だろ? 父上と母上の指令で、シェイラや家族のこと調べていたのは」
「俺だけじゃない。俺とビアンカだ」
「姉上も絡んでいたのか」
純粋に驚いた――というより呆れた様子で、ラウルがまじまじと兄を見る。それに肩を竦めてから、ジェイクはウィスキーを軽く舐めた。
「悪く思うなよ。父上も母上も家の格にしがみつくようなひとではないが、それでも俺たちはオズボーン家だ。俺たちがすることは、少なからず王国に影響を与える。クラーク家の令嬢が本当に婚姻を結ぶに足りる相手か、慎重に調べもするさ」
「あのひとたちにシェイラとのことを報告したときから、そうなるとは思っていた。シェイラには敢えて言わなかったがな。……で? シェイラもクラーク家も、申し分のない相手だ。そう兄貴たちが報告したから、父上たちも王都まで足を伸ばしたんだろ」
「まあな。とくにラッド・クラーク氏。あのひとはいい! ミラー商会と手を切ったのは正解だった。あのひとの商会は実に真面目で実直、彼の人柄がにじみ出る商売をしているよ。だから安定しているし、一方で極端に大きくなれないのもそこだろう。とにかく、あれは敵を作らないタイプだ。うちとクラーク家が婚姻で関係を結んだって、変に妬まれもしない。ほんと、願ってもないタイプの相手だよ」
「そりゃよかった」
軽く答えて、ラウルはグラスを傾ける。
ラウル自身、王立劇場でのことでシェイラに協力を取り付けに行く際、シェイラのことだけではなくクラーク家や商会についても簡単に情報を集めた。それに、彼女の家族とは何度か顔を合わせている。だからこそ、ラウルはまったく心配はしていなかった。
とはいえ、とラウルは考える。シェイラの側から考えれば、裏でこそこそと調べられるのは決して気分のいいことではなかったはずだし、そうやって調べているオズボーン家こそ何様だという話だ。正直に打ち明けるべきかラウルも悩んだが、却ってシェイラを心配させてしまうかもしれないと思い、告げずにきてしまった。
つくづく家柄というしがらみは面倒だと、ラウルはグラスを揺らす。そして、この面倒くささは今日で終わりというわけではない。
思い上がりでもなんでもなく、ラウルの結婚相手は否が応でも注目を浴びてしまうだろう。それが、霊感令嬢として知られるシェイラなら尚更だ。
ラウル自身は気にしない。他人からの評判など取るに足らないと割り切っているから、そもそも他人の目など気にしないのだ。
けれどもシェイラは違う。彼女はごく普通の娘だ。それなりにひとの目を気にするし、それが故にしばらく社交界を嫌って避けてきた節がある。
だからこそ、これから先、ラウルが気づかない間にシェイラがひとり胸を痛めるようなことが全くないとは言い切れない。
だが、それでも。
「俺が、あいつを選んだ。それに、彼女も応えてくれた。だから」
溶けた氷が、ウィスキーの表面をゆらゆらと揺らす。それを眺めるラウルの手には、自然と力がこもる。と、ちょうどラウルがウィスキーをあおろうとしたそのとき、ジェイクがラウルの目の前に己のグラスを突き出した。
「そうそう。その意気だ」
怪訝そうに瞬きするラウルに、ジェイクはにっと歯を見せて笑う。
「どんな相手だろうが、多かれ少なかれ苦労はある。100%守ってやることは不可能だ。だからこそ、お前が傍にいてやれ。誰よりも近い、彼女の味方としてな」
「……言われなくてもわかってるよ」
内心を見透かされていたのが照れくさく、ラウルはそっぽを向いてグラスを合わせ、ぐいとウィスキーを飲んだ。いつもはふざけた兄だが、こういうところはしっかりと『兄貴』をしてくる。それが悔しくも、心地よく感じる。
そんなラウルの複雑な心境を知ってか知らずか、からころと氷を揺らしながら呑気に息を吐いた。
「けどお前の場合、守るってのが、もっと切実な問題で必要になってくるかもなあ。その歳で鬼神隊の隊長やってんだ。妙な連中に目を付けられてないといいけど」
「それで言ったら、兄上たちだってそうだろ」
「そうだよ? だから俺は城のなかに住んでいる。ブランたちは、まあ、お前が用心棒替わりなんだろう。とにかく、よからぬことを考えるような連中にとっちゃ、女子供なんてのはいい脅し道具になる。……もちろん、例外もいるけどな」
「ああ、姉上のことか」
グラスを揺らす手を止めて、ラウルはジェイクに目を向けた。
「そういえば、あの人はどうしたんだ? こういうとき、何が何でも参加するのが姉上だと思っていたが」
「どうしても都合がつかなかったらしい。ちょうどお前がシェイラ嬢を迎えに行っているときに一度顔を見せたんだけど、かなり残念がっていたよ。ああ、そうそう。お前宛にこれを預かったぞ」
「姉上から?」
嫌そうに眉根を寄せて、ラウルはジェイクから封書を受け取った。姉の性格から鑑みるに、この手紙に書いてあることはどうせろくな内容じゃない。
まるで危険物を取り扱うような慎重さで、ラウルは封書を開いて手紙をつまみ上げる。それに目を通したラウルは、ただ一言だけ次のように呟いた。
「――え?」
このようにして、オズボーン家の夜は静かに更けていったのであった。