11-2
「シェイラさんに見ていただきたいものがあるの」
そのようにミシェル夫人が言い出したのは、全員がデザートまで食べ終わってひと息ついたときだった。
紅茶に口をつけていたシェイラは、カップをソーサに戻しながら首を傾げた。
「私に、ですか?」
「ええ。我が家でね、随分前から謎になっているものがあってね。シェイラさんだったら、何かわかるんじゃないかと思って」
「まさか母上。あれを持ってきたんじゃないでしょうね」
「もちろんよ。あなたが全然教えてくれないのだもの」
すぐに見当がついたらしいラウルが嫌そうに眉をしかめるが、対する夫人は朗らかなまま。すると今の言葉が合図となったのか、扉の近くで控えていた執事がするりと部屋を出て、すぐに小包を抱えて戻っていた。
シェイラはそのとき、小包の周りに青く光る小さな蝶たちの姿を見とめた。
「それは……」
言いかけたシェイラの声を、がたりと椅子の揺れる音が遮る。隣を見れば、動揺を隠せていないラウルの青ざめた横顔があった。
「あの、大丈夫ですか?」
「……ああ、問題ない」
「そうは見えないぞ。そうだ、少し席を外しておいたらどうだ?」
「そうはいくか! ……本当に気にしないでくれ、シェイラ。な?」
長兄には強く返してから、シェイラには全くもって大丈夫そうには見えない弱々しい笑顔を見せ、ラウルはそう繰り返す。説得力は皆無であったが、彼はなんとしてもこの場を動くつもりはないらしい。
シェイラは仕方なく、執事が手に持つ小箱へと視線を戻した。
シェイラが見つめるその先で、執事がぱかりと箱を開く。中にはベルベッドの布で覆われた柔らかなクッションが敷かれており、その中央で、見るからに立派な宝石がはめられた指輪がきらりと輝いていた。
「それは私の宝物。オズボーン家に嫁いでくるとき、おばあ様からいただいたのよ」
目を奪われるシェイラの耳に、夫人の声が柔らかく響く。釘付けになった彼女の視線の先では、見間違えようもなく青白い蝶が指輪の宝石にとまって羽を休めている。
「どう? 何か感じる?」
ミシェル夫人が好奇心に身を乗り出す。そのキラキラ輝く瞳は面白がっているようには見えても、恐怖や嫌悪の色は見られない。ややあって、シェイラは慎重に頷いた。
「はい。この指輪から、ゴーストの気配を感じます」
「やっぱり! ラウルが指輪を嫌がるのには、ちゃんと訳があったのね!」
長年の謎がわかってすっきりしたとでも言わんばかりに、ミシェル夫人が晴れやかに微笑む。その言葉にひっかかりを覚えてラウルを見上げると、なるべく指輪を視界に入れないように気をつけながら、ラウルが観念したように息を吐いた。
「……そのなかに何かがいる。それはずっと前からわかっていたんだ。だが、もとはといえばそれは王家の持ち物だったものだ。子供心にも、下手なことは言ってはならないと思って、打ち明けられなかったんだ」
「小さい頃、この子ったら血相を変えて『その指輪から離れてください!』なんて言うくせに、理由は教えてくれなくて。それでも、あんまりこの子が怯えた顔をするものだから、この箱に入れてしまってきたの」
けれど、私にとってこれは大切なものだから。
そう言って、ミシェル夫人は遠い昔を懐かしむように目を細めた。
「王家を離れても、健やかで幸せな日々を送れますように。そう、おばあ様が私にくださったものが、悪いものだとはどうしても思えなくて」
「けど、これでその指輪にはゴーストが憑いているのが確定してしまったわけです」
母親の様子を気遣いつつ、恐々とした様子でジェイクが指輪を横目で見る。そのあとを引き継いで、ブランも様子を窺うように指輪を覗き込んだ。
「すみません、シェイラさん。こんなことをご相談するべきじゃないのかもしれませんが。こうした場合、私たちはどうすればいいのでしょう? 供養?やお祓い?と言えばいいのでしょうか。ゴーストを、どう処理すべきかと……」
「そう、ですね……」
考え込み、シェイラは指輪を見つめた。オズボーン家のひとびとの反応は当然だ。持ち物に得体のしれないゴーストが憑いているなどとわかったら、それを手放すか、手放せないものならばゴーストを追い出す方法を考えるだろう。
だが、シェイラにはわかる。このゴーストはエリーゼ姫のような悪いタイプのものではないばかりか、王立劇場の怪人のように力を持っているわけでもない。極めて無害で、しかも弱小と言えるほど弱いゴーストだ。
だからゴースト祓いであれば簡単に消せてしまうだろうし、極論を言えば放っておいたところでどうってこともない。そのうち自然に消える可能性すらある。
ただし、唯一わからないことがあるとするならば。
「ラウルさんが指輪にゴーストが憑いていると気づいたのはいつですか?」
シェイラが問いかけると、ラウルはほんの少しだけシェイラのほうに顔を向けて思案した。
「そうだな……。気づいた、という意味でいうなら、物心ついたころには知っていた気がする。最初からそういうものだったから、初めは特に気にも留めていなかった」
「そうだったの? 例のゴースト騒ぎのあとぐらいからラウルが指輪を怖がるようになったから、私はその頃に知ったのかと思っていたわ」
「それは! ……シュタット城の一件があってから、ゴーストの認識が変わったんです。それまで連中がなにか悪さをするとは思っていなかったので、指輪についているゴーストのことを家族の誰にも話さなかったんですよ」
決まり悪そうにラウルが答える。おそらく、危険となりうるゴーストがいるという認識をもっと早く持っていたらと、心のどこかで悔やんでいるのだろう。
けれども、これでわかった。おそらくゴーストが憑いたのは少なくともいまから20年は前。というよりも、ミシェル夫人が彼女のおばあ様からもらったときにはすでにゴーストが憑いていたと考えることが出来る。
こんなに弱い力しか持たないのに、これほど長い間、オズボーン家――ミシェル夫人のそばにとどまり続けたゴースト。そこに何の意味もないとは、シェイラには思えない。
「指輪に触れてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
シェイラの申し出に、夫人がにこやかに返す。すると、すかさず執事が胸元から一揃いの白手袋を取り出し、シェイラに渡した。
手袋をはめ、改めてシェイラは指輪に手を伸ばす。だが、触れようとしたそのとき、シェイラの手が後ろから伸ばされた別の手に摑まれた。
振り返ると、いつの間にかまっすぐにこちらに顔を向け、真剣にシェイラを見つめるラウルの紅い瞳と視線が交わった。
まだ蒼ざめたままの顔だが、そこに滲む決意は固い。彼は摑んだ手の指を絡めると、決して離さないと言わんばかりに握りしめた。
「俺も一緒に確かめる」
「え? でもラウルさんは気分があまりよくないから……」
「いいから」
シェイラが戸惑っていると、ラウルが短く嘆息した。それから彼は、「いいか」とシェイラの顔を改めて覗き込んだ。
「お前が触れるというなら、俺も一緒にそれに触れる。――ひとりで、危ない橋を渡ろうとするな」
シェイラの手を握るラウルの手が強くなる。その温かさにシェイラの胸は大きく跳ね、ついで顔に熱が集まるのを感じた。
まったく、この状況はなんだろう。
周囲には恋人の家族がたくさんいて、そんななか恋人にしっかと手を握られて、彼の優しさが嬉しくも恥ずかしくて、けれども振り払うこともできなくて。
「あらあら。ラウルったら、本当にシェイラさんが好きなのね」
ミシェル夫人の楽しそうな声が、羞恥心を無自覚に煽る。顔を真っ赤にしたシェイラは、堪らずラウルから逃げようとした。
「ひ、ひとりで大丈夫です! その、これは、とっても弱いゴーストなので!」
「そう思わせているだけかもしれないだろ。なにかあれば、速攻でお前をソレから引き離す。そのために、俺も一緒に触れるべきだ」
「ですから! これは明らかにですね、そんな高度なゴーストってわけじゃあ」
「まあまあ、シェイラさん。こうなったら、ラウルは引きませんよ。諦めたほうが賢いってもんですよ」
どうあってもラウルに解放してもらえず慌てるシェイラに、ジェイクがくつくつと笑みを漏らす。彼女が涙目になってそちらを見れば、長兄は愉快そうに笑いながら、先を促すように手を差し出した。
「というわけで……お願いできますか? どうぞ?」