10-3
「よくお気づきになりましたね。私が、本物のオズボーン様ではないと」
両腕を組んで、『カトリーヌ』が挑発的な笑みを浮かべる。顔の造りも声もラウルのままだというのに、浮かべた表情の冷たさや女性らしい仕草のすべてが、彼の中に潜む別の人間の存在を決定づけていた。
「ラウルさんがこの状況のなかで、もう大丈夫だなんて言うわけがないわ」
少しも怯むことなく『カトリーヌ』をまっすぐに睨み、シェイラはそう断言した。
さっきも言った通り、この部屋には今までシェイラが体験したほどがないほどの強烈なゴーストの気配が満ちている。『勘』がない人間ですら薄気味悪さを覚えるほどであるが、『勘』持ちが感じる圧はその比でない。
シェイラですら、長くこの部屋に留まることを躊躇するのだ。ましてやシェイラと同じく『勘』持ちであり、ゴーストを苦手とするラウルならば。
(……絶対に、顔を青くして動けなくなってしまうはず!)
本物のラウルが聞いたら口をへの字にして黙り込んでしまいそうな根拠であるが、まったくもって否定できないところが悲しい。とにかく、こうしたわけでシェイラはカトリーヌがラウルの体に乗り移っていることに気づいたのである。
『カトリーヌ』は憂いを帯びた表情で「残念ですわ」と嘆息した。
「いい考えだと思いましたのに。愛するひとに裏切られる苦しみと絶望を、あなたにも味わっていただきたかったのに」
「ラウルさんの体を返しなさい! あなたが恨んでいるのは私でしょ? ラウルさんは関係ないわ!」
「黙って! あなたこそ私からレイノルドを奪ったくせに!」
シェイラをきっと睨み、『カトリーヌ』が叫ぶ。白い霧がいっそうの濃さを増し、『カトリーヌ』の体がゆらりと揺らぐ。警戒を強めたユアンが剣を握りなおした。
「信じていたのに」
『カトリーヌ』が片手で顔を覆い、震えた声が指の隙間から零れた。
「いますぐに愛してくれなくてもいい。私を選んでくれるなら、あの人の愛が私に向く日を待っていられる。そう、思っていたのに……っ」
「……私たちの会話、聞いていたんでしょ? たしかにレイノルドに婚約を復活させたいと言われたけど、私は断ったわ。あなたから彼を奪うつもりなんて、私には少しも」
「それが一番、腹立たしいのだわ!!」
顔から手を離し、『カトリーヌ』は憎悪を込めてシェイラを見つめる。片方の目から一筋の涙が頬を伝って落ちた。
「レイノルドにも愛され。オズボーン様にも愛され。あなたは涼しい顔をして両方を手に入れているのに。どうして私ばかりがこんなにも苦しまなければなりませんの。どうして私ばかりがこんなにもみじめな思いをしなくてはなりませんの」
「なんて身勝手な……」
「なんと言われようと結構ですわ」
思わず零れたらしいユアンの言葉を、『カトリーヌ』は軽く一蹴する。青白い蝶たちがふわふわと舞い飛ぶなか、『彼女』はラウルの剣を引き抜く。
「シェイラ・クラーク……あなたさえいなければ、私の心はこんなにもどす黒く、醜く染まることはありませんでした。その報いを、あなたにも受けていただきます!」
剣を構え、『カトリーヌ』が前へ飛び出す。借りているラウルの体に染み付いているためだろう。剣技など一度も習ったことがないだろうに、『カトリーヌ』の繰り出す剣は重く、まさに鬼神のごとく苛烈だ。
だが、シェイラを庇い、迎え撃つユアンに焦りはない。薄い眼鏡のガラスの奥で目を光らせた彼は、無慈悲なほどの正確さで『カトリーヌ』の剣をあしらうと、続く一撃で剣を打ち合わせた。
両者一歩も引かない拮抗状態のなか、剣を挟んでユアンと『カトリーヌ』が睨み合う。燃え上がる紅い瞳を受け止め、ユアンは不敵な笑みを浮かべた。
「無駄ですよ。あなたではラウルの本気は引き出せない。……私がこれまでどれほどの回数、この男と剣を合わせてきたと思っているんです、か!」
金属音が鳴り響き、白刃が弧を描く。ユアンだ。
体制を崩した『カトリーヌ』の懐に、ユアンが飛び込む。容赦のない剣が『彼女』を襲おうとした、そのときだった。
「……たすけてくれ、ユアン」
掠れた声にユアンが目を見開く。わずか一瞬だったが、その躊躇がよくなかった。
動きを鈍らせたユアンの足を『カトリーヌ』が払う。堪らずユアンが地に足をついた横で、赤い双眼がシェイラに照準を合わせた。
剣を手に駆け出した『カトリーヌ』を――ラウルを前に、シェイラは地に根が生えたようにその場から動けずにいる。
これはラウルであって、ラウルじゃない。そのことは、ちゃんとわかっている。けれども出来ないのだ。
"遅くなって悪かった。……怖い、思いをさせたな"
カトリーヌに囚われそうになっていたシェイラを救い出し、ラウルはそう声をかけてくれた。過去のトラウマに苦しみながら、必死に、全力で駆けてきてくれた彼に、どうして背を向けることなど出来るだろう。
獲物を捉えた『カトリーヌ』の顔が喜色に染まる。瞳孔の開いた瞳にシェイラを映し、『彼女』は剣を振り上げた。
「シェイラさん!!!!」
ユアンの悲痛な叫びが響く。よろめいたシェイラの背が、反対側の扉に当たる。
これ以上は逃げられない。これ以上は、間に合わない。研ぎ澄まされた刃が風を切り、シェイラはぎゅっと目を固く閉ざした――。
体が揺れるほどの衝撃とともに、何かが激しく割れる派手な音が耳元で響いた。
「――……っぶねぇ」
頭の上から落ちてきた低い声に、シェイラは弾かれたように顔をあげた。
そこには、ラウルがいた。狂気の光も、仄暗い憎しみの色もない、鋭くも温かい、シェイラの大好きな赤い瞳で彼女を見下ろすいつものラウルの姿がそこにあった。
「ラウルさん……っ!」
「ああ、俺だ」
ツンと鼻の奥が痛み、シェイラは声を詰まらせる。己のなかで暴れるゴーストを無理に抑え込んでいるためか、ラウルは憔悴の色を浮かべていたが、それでも涙ぐむシェイラに愛おしげに目を細める。
『カトリーヌ』により振り下ろされた剣は、シェイラの背後にある木製の扉に深々と突き刺さっている。耳元で響いた音は、そのためのものだったらしい。剣が辿った軌跡に沿って亀裂がはいっていることから、改めて一撃の強烈さが伺えた。
突き刺さった剣の傍に手を突き、シェイラを間近に見下ろしたまま、ラウルは背後で呆然と立つ相棒に苦言を投げかけた。
「……ふざけるなよ、ユアン。俺があの状況で、お前に命乞いなんざするわけないだろ。あんなクサイ三文芝居に乱されてんじゃねえ。お前らしくもない」
「そ、それは……そもそもあなたがゴーストなんかに体を乗っ取られなんかしなければ!」
「あまり耳が痛いことを言うな。これでも必死で、奴を抑えてるんだから」
冗談めかした口調ではあるが、その言葉に嘘はないらしい。苦しげにしかめられた眉間が、彼の中で熾烈な主導権争いが繰り広げられていることを如実に語っている。
何かを押し込めるように息を吐いてから「いいか、シェイラ。よく聞けよ」とラウルは無理やり笑みを浮かべた。
「俺がこいつを抑えているうちに逃げろ。あとは俺とユアンがなんとかする」
「けど……。っ、そうだ。エリーゼ姫のブローチは? エリーゼ姫のゴーストは、あのブローチに宿っています。あれを遠ざければカトリーヌさんはゴーストの力を借りれなくなるし、ラウルさんだって助かるはずです!」
「ダメなんだ」
首を振って、ラウルは己の胸――ちょうど心臓があるあたりを摑んだ。戸惑うシェイラに、ラウルは苦笑を浮かべる。
「ブローチは、この身体の中だ。……信じられないかもしれないが、気を失う寸前、俺のなかに連中と一緒にブローチが溶けて入るのを感じた。連中が自分の意志で出てこない限り、俺たちには取り出しようがないんだ」
「そんな……。けど、だとしたらラウルさんはどうするつもりで……」
そのとき、シェイラの頭に恐ろしい考えが浮かんだ。ほぼ同時にユアンも同じ考えに至ったらしく、彼は驚愕に目を見開いたのち、悔しげに顔を逸らした。
「嘘ですよね?」
気づけば、シェイラはラウルに詰め寄っていた。
「自分を犠牲にふたりを封じ込めようだなんて……そんなこと、考えていませんよね!?」
「ごめんな、シェイラ」
肯定するでも否定するでもなく、ラウルはそう言ってシェイラの頬に触れた。ゴーストに蝕まれた手は冷たく凍えていたが、シェイラを案ずる触れ方はどこまでも温かい。
「俺は憲兵隊として、この街を守る義務がある。それ以上に、お前を守れるなら俺の命など安いものだ。……心残りがあるとすれば、こんなことになる前に、さっさとお前を抱いておけばよかったな」
「冗談なんか言っている場合ですか! 一緒に考えましょう? 何か方法があるはずです。ラウルさんの中からふたりを追い出す方法が……っ」
「早く行け!!」
その声はびりりとシェイラの鼓膜を震わせた。涙に滲んだ瞳にシェイラが見上げれば、先ほどよりもよほど余裕を欠いた表情で、ラウルが絞り出すような――まるで、泣き出す寸前のような声で呻いた。
「……俺に、お前を傷つけさせないでくれ」
シェイラのなかで何かが弾けた。
シェイラは無言でラウルの制服の襟に手を掛けると、勢いよく手前に引いた。驚いたラウルが姿勢を崩し、抗議をしようと口を開く。
けれども、何か言葉が飛び出すより早く、「傷つけたくないのは私も同じです!」とシェイラは叫んだ。
「ラウルさんが私を守ろうとしてくれるのは嬉しいし、街を救わなきゃならない立場なのもわかります。けど、ラウルさんが私を大事に思ってくれるのと同じくらい、私だってラウルさんのことが大事なんです」
呆けたように、ラウルが口を開いて固まっている。その紅い瞳を精一杯睨みつけて、シェイラは声を張り上げた。
「守りたいと思っているのが自分だけなんて、思わないで!」
そう宣言したシェイラは、背伸びをし、彼の唇に己のそれをぐいと押し付けた。
――力みすぎてしまったのかもしれない。初めてのキスは、柔らかいという感触とは程遠いものとなってしまった。それでも、このキスこそがシェイラの全身全霊であり、ラウルを想う彼女のすべてが込められていた。
永遠にも思えた一瞬ののち、シェイラはそっと唇を離す。
けれども、それで終わらなかった。
離れていくのを追いかけて、今度はラウルが噛みつくようにシェイラの唇を塞いだ。不慣れで不器用なシェイラの口付けとはまるで違う、激しく、より深くを求めるようなキス。触れられた場所がじんじんと熱を持ち、シェイラを息苦しくさせる。
突然のことに、シェイラは仰天した。逃げ出そうにも背中に当たる扉がそれを許してはくれない。恥ずかしいやら苦しいやら、シェイラは抗議を込めてビシバシとラウルの胸を叩いた。
しばらくして、ようやく口付けの嵐から解放されたシェイラは、ぐったりと扉にもたれかかる。そんな彼女を腕のなかに閉じ込めたまま、「あー……くそっ」とラウルが呻いた。
「本当に、本当に、本当に……」
見上げたシェイラの瞳と、ラウルの瞳が交わる。狂おしいほど愛おしげにシェイラを見つめる彼は、まるで少年のように無邪気に笑み崩れた。
「お前を愛している。大好きだ、シェイラ」
途端、胸のあたりを中心にラウルの身体が青白く輝いた。次の瞬間、彼の背中からカトリーヌ・シオンが飛び出し、空中で霧散した。
ぽとりと音がして、いつの間にか現れたブローチが足元に転がる。同時にラウルの全身から力が抜け、静かに瞼を閉じた。
もたれかかったラウルの身体を抱きとめ、シェイラは壁に寄り掛かりつつ慎重に腰を下ろす。シェイラは彼の頭を膝の上に載せると、心地よさそうに眠るラウルの前髪をそっと撫でた。
「なんで? どうしてよ!」
女の声に顔を上げれば、ユアンにより腕を縛られ放置されていたカトリーヌ・シオンが顔だけを起こし、シェイラたちを睨んでいる。銀髪は乱れ、間から覗く瞳は信じられないものを見るように驚愕に染まっている。
「そのひとも私と同じだったのに。不安で、つらくて、苦しくて。ドロドロと醜いものが、心の隙間からあふれ出て……それなのに、どうして!!」
「いい加減にして!」
シェイラの厳しい声音に、カトリーヌは息を呑む。ラウルを庇うように身を屈めつつ、シェイラはカトリーヌをまっすぐに見据えた。
「あなたが私にしているのはただの八つ当たりよ。本当はわかっているんでしょ?こんなことしている暇があったら、レイノルドと話して、ケリをつけなきゃいけないって。――これ以上私たちを、ラウルさんを巻き込むのは許さない!」
カトリーヌの顔が引きつり、怒りに瞳が燃え上がった。
――けれども、一拍おいて彼女は肩を落とし、疲れたように視線を落とした。
「……これが本当に、想い合うふたりの姿。随分と、見せつけてくれますのね」
「え?」
「なんだが私、怒っているのが馬鹿らしく、なって、きました、わ……」
だんだんとカトリーヌの声が小さくなり、しまいには途絶えた。ややあって、規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。
それで我にかえったのか、呆然と成り行きを見守っていたユアンが動き、シェイラたちの元へと駆け寄ってきた。
「シェイラさん! ラウルは……ラウルは、無事なんですか?」
シェイラは膝の上に視線を落とした。疲労のためか、もしくはゴーストとの熾烈な争いの直後であるためか、ラウルはぐっすりと眠っている。喜ばしいことに、彼の寝顔はどこまでも安らかだ。
そういえば、王立劇場の怪人事件が解決したあとも、ラウルは急に眠ってしまったのだった。あのときはびっくりして、彼を支えるだけで必死だったっけ。そんなことを思い返しながら、シェイラはかすかにくまの滲んだ目の縁をなぞった。
瞼がぴくりと動いて、ラウルが小さく「……ん」と声を漏らす。たったそれだけのことなのに、シェイラの胸にはじわりと熱が広がった。
いつから自分は、彼に恋をしていたのだろう。
いつから自分は、こんなにも彼を愛おしく思っていたのだろう。
とにかく今は、彼が無事でいてくれたことが嬉しい。その幸せをかみしめながら、シェイラは泣きそうに目を細め、微笑んだ。
「大丈夫……、もう大丈夫です。ほんとに、お疲れ様でした」