10-2
「おい、しっかりしろ! ……駄目ですね。どの者も、ぐっすり寝てしまっています」
壁にぐったりともたれる隊員の様子を確かめていたユアンが、首を振って立ち上がる。周りには他にも床に倒れた憲兵隊が何人もいて、皆が皆、目を覚ます気配はない。
シェイラ達がいるのは、憲兵隊詰所の入口を入ってすぐのホールだ。あたりには霧のようなものが立ち込め、肌にあたる空気はひんやりと冷たい。おまけに灯りという灯りがすべて消えており、視界もすこぶる悪いときた。
夜に遊ぶ妖精たちのようにふわふわと舞う青白い蝶たちを目で追いながら、シェイラは無意識に腕をさすった。
「たぶんこれもカトリーヌさんのせいです。この霧みたいなもので、みんなを眠らせているんです」
「だとしたら、我々も長く留まるべきじゃない。少なくとも、シェイラさんは外で待っていていただいたほうが……」
「大丈夫です。わかるんです。カトリーヌさんは、私が来るのを待っています。それに私たちも眠らせるつもりなら、建物に入った瞬間にそうしていたはずですよ」
シェイラは暗く闇に沈む階段上へと視線を投げた。
感じる。この階段の先のどこかにいるカトリーヌが、シェイラが姿を現すのを今か今かと待ちわびている。漂う気配は不穏そのもので、怨念と喜色、相反するふたつの感情が複雑に入り乱れている。
しかし、カトリーヌはなぜ、あえて憲兵隊詰所を襲ったのだろう。憲兵隊の捜索の手を逃れるためだとしたら、こんなふうに本拠地を襲ったりしなくても、ゴーストの力を借りて闇夜に紛れて遠くへ逃げてしまったほうが、よほど効率がいいはずだ。
(考えられる理由は、やっぱり……)
胸の奥をざわつかせる嫌な予感に、シェイラは唇を噛んだ。
カトリーヌは前回、シェイラの体を奪おうとして失敗した。兄嫁の言う「愛の力」が理由かどうかはわからないが、とにかく、カトリーヌにはシェイラに害を加えることはできないらしい。
そうなったとき彼女がシェイラの代わりに、シェイラが大切に思う者――ラウルを標的に据えるというのは、決してありえなくはないだろう。
ユアンの情報によれば、ラウルはこの建物の中にいるはずだ。姿を見せないということは、他の隊員と同じく眠っているのか。
あるいは。
「行きましょう、ユアンさん! カトリーヌさんの狙いはラウルさんです。ラウルさんのところに、私を案内してください!」
そう言って、シェイラはユアンをまっすぐに見つめた。
ユアンはまだシェイラを連れて行くべきか悩んでいるらしかったが、その迷いのない瞳に覚悟を固めたのか、小さく頷き剣の柄を握った。
「わかりました。決して私から離れないでください」
「はい!」
灯りはすべて消えているものの、カトリーヌの仕業と思われる白い霧がぼんやりと光っているため、注意して進めば足を取られることはない。だからふたりは難なく階段を登り、ゴーストの気配が濃く漂う2階の廊下を足早に急いだ。
エリーゼ姫の放つ強烈な気配に近づけば近づくほど、霧はますます深くなっていく。だんだんと視界が見えづらくなってきた頃、とある部屋へと差し掛かる。そこでシェイラは、前を歩くユアンの袖をとっさに掴んだ。
「ユアンさん、この中に」
「なるほど」
シェイラの視線の先の扉を確かめて、ユアンは美しい顔をしかめた。
「あなたの勘は正しかった。ここは我々の部隊の隊長室、つまりラウルの部屋ですよ」
半分ほど開いた扉から室内を窺うことができるが、残念ながら、シェイラたちのいる位置から見える範囲にはカトリーヌやラウルの姿はない。
中から物音ひとつしないことを確かめたユアンは、シェイラを片手で下がらせると、自身は足音を殺して扉へと近づいていく。彼は剣を構えたままぴたりと扉横の壁に身を寄せると、落ち着いた様子でそっと扉を押した。
「これは……」
銀縁眼鏡の奥で目を見開き、ユアンが息を呑む。それでシェイラも室内を覗けば、折り重なるようにして倒れるふたりの人間の姿が目に飛び込んできた。
「ラウルさん!」
「待って」
思わず駆けだそうとしたシェイラを、ユアンが手を挙げて制す。彼は切れ長の目を細め、身じろぎひとつしないラウルと、その上にうつ伏せに倒れる銀髪の女――おそらくカトリーヌであろう――を睨んだ。
「……シェイラさん、ゴーストの気配はどうですか?」
「あります。あります、が」
困惑をにじませ、シェイラは室内を見渡した。さすがは王国中にその名を轟かすゴーストというべきか。エリーゼ姫の気配は、これまでシェイラが出会ったどんなゴーストよりも濃く、部屋の中に漂っている。
問題はあまりに強すぎて、力の発生源を明確に捉えられないことだ。おかげで彼女がいまもカトリーヌの中にいるのかどうかがわからない。
そんなシェイラの様子に、ユアンは逡巡するようにラウル、そしてカトリーヌを見た。
そのときラウルの指がぴくりと動く。続いてくぐもったうめき声と共に、ラウルが辛そうに体を起こした。
「ラウル……! 無事ですか?」
「……ああ、なんとかな」
頭を振ったラウルに、ユアンが肩の力を抜く。とりあえず彼は剣を下ろし、シェイラに動かないよう手で指示を出してから上官のもとへと近づいていった。
「何があったんですか? なぜ、カトリーヌ・シオンがここに?」
「気づいたら部屋の中にいたんだ。それから意識が遠くなって……どうしてカトリーヌ・シオンまでが倒れている?」
「私に聞かないでくださいよ」
ユアンが溜息をつくと「そりゃそうか」とラウルは髪をかきあげた。
「何にせよ、これはチャンスだ。女は縛り、どこか閉じ込めておけ。目が覚めたら色々話を聞くとしよう」
「はっ」
答えたユアンが、カトリーヌの様子を確かめようと屈む。それを眺めてから、ふとラウルの赤い双眼がシェイラへと向けられた。
「シェイラは無事か? ここに来るまで、危険な目に遭わなかったか?」
「は、はい。私は、これといって特に……」
「よかった。連中が来たのがこっちで、幸いしたな」
ほっと笑みを漏らして、ラウルが立ち上がる。そばに落ちていた剣を拾うと、まっすぐにシェイラへと歩いてきた。
「もう大丈夫だ。こいつが捕まったいま、危険なことはなにもない。おいで。お前は別の部屋で休んだ方が……」
ラウルがおやと目をみはり、足を止めた。シェイラが一歩、後ずさったからだ。
カトリーヌを縛ろうと縄を扱っていたユアンも、異変に気付いて顔を上げる。それぞれが互いを伺うなか、シェイラは両手をぎゅっと胸の前で握りしめた。
「本当にもう大丈夫だって、ラウルさんはそう思いますか?」
「なんだ、怯えているのか」
シェイラの問いに、ラウルは表情を緩める。彼は何やら思案にくれるように顎に手を添えると、意識を失ったままユアンに押さえつけられたカトリーヌを見下ろした。
「まあ、万事解決とは言えないだろうな。この間みたいに、また妙な攻撃を仕掛けてくるかもしれない。だが体を縛って閉じ込めてしまえばこちらのものだし、万が一暴れても、俺とユアンのふたりがいれば対処の仕様も……」
「それだけですか?」
「それだけ?」
ラウルの頰がぴくりと動きシェイラへと視線を戻す。怪訝そうな顔も、憲兵隊の制服を纏い佇むすらりとした体も、すべてがラウルそのものだ。
けれど。
「この部屋に満ちるゴーストの気配は、はっきり言って異常です。空気が重くて、呼吸をするのも苦しくて。ゴーストに慣れた私でも、さっきから足が震えて止まらないんです。――だけど、」
違う。違うと言って欲しい。切にそう願いながら、シェイラはぎこちなく微笑んだ。
「――ラウルさんは『勘』がないから、わからないですよね?」
白い霧の満ちた室内に、息が詰まるような沈黙が落ちる。
前に進むことも後ろに引くことも許さず、シェイラはまっすぐにラウルを見つめる。胸の鼓動がどくん、どくんと主張し、指先が緊張で冷え込んでいく。
ややあって、ラウルは苦笑を浮かべて己の首を撫でた。
「そう、だな。俺には生憎と――っ」
彼が何かを言い終えるより前に、ユアンが動いた。ユアンは一気に剣を引き抜くと、放たれた矢のような素早さで地を蹴りラウルへと肉薄した。
だが、ラウルの姿をした何者かは間一髪で鋭い一撃を避けた。次のひと振りを避けて距離を取った彼の代わりにユアンはシェイラの前に立つと、改めて銀色に輝く剣先を『ラウル』へと向けた。
「ありがとうございます。私としたことが、こんな小細工にすっかり騙されてしまうとは」
「いえ、『勘』持ち同士じゃないと、絶対にわからなかったでしょうから。それより、」
シェイラは言葉を切り、ユアンの肩越しに『ラウル』に目を向ける。正体を隠すことを諦めたためか、その体の周りには青白い蝶たちが舞い踊っていた。
「ラウルさんの体を返してください……カトリーヌさん!」
その言葉にラウル・オズボーン――いや、カトリーヌ・シオンの唇がゆっくりと吊り上がったのだった。