10-1
時は少し遡る。
憲兵隊詰所にある第二部隊の隊長室で、ラウルはひとり市街地の地図を睨んでいた。
隊長室といっても、現場主義の彼はほとんどこの部屋にいない。まともに使うのは書類仕事を片付けるときくらいだ。だから、頭を整理するために彼が隊長室にこもっていたのは珍しい事であるし、それだけ翌日に控えたカトリーヌ捜索作戦が重要な作戦であることを物語っているだろう。
だが、いい加減ラウルも疲れを感じていた。当然のことながら翌日の作戦については、既に細やかに段取りは組まれている。こうしてしかめ面で地図と睨めっこしたからといって、何かが変わるわけでもない。さっさと切り上げて、明日に備えて少しでも体を休めるべきなのだろう。
理屈では、そうわかっている。けれども、彼の胸中には言い様のない不安が蠢いていた。
不安が何に起因するものかはわからない。遠い日のトラウマが刺激されたのかもしれないし、疲労によるものかもしれない。もしくはユアンが言うように、シェイラのことで意地になっているだけかもわからない。
とはいえ隊を率いる者として、この漠然とした不快感を単なる『不安』として片付けていいものだろうか。
ラウルは頭が切れるという意味でも優秀であるが、同時に、生まれ持ったセンスというか、捜査をする者にふさわしい嗅覚が備わっている。これまでの事件も、幾度となく『嗅覚』によって事件解決への糸口を探り当ててきたのだ。
今度のカトリーヌ失踪のことだって、不安と言ってしまえばそれまでだが要は引っかかることがあるのだ。肝心な、何が彼の嗅覚に訴えかけているのかがわからないのが問題なのであって、もどかしい。
ふうと息を吐いて、ラウルは倒れるようにして椅子に座り込む。背もたれに身を預けて額に手を乗せれば、疲労に火照った額が多少なりとも冷やされ、心地よい。
ひと息ついたラウルは天井を眺め、改めて思案にくれた。
そもそもひとりの無力な少女相手に憲兵隊がここまで手こずるのが奇妙だ。ゴースト憑きとはいえ、貴族の家でぬくぬくと平和に育った10代の少女が、いつまでも憲兵隊の目を掻い潜って逃げ果せるわけがない。
自分たちは、重要な何かを見落としているのではないだろうか。もしくは、思い込みにより前提を間違えてしまっているのか――。
そのとき、だらりと下げた手の指先に、かさりと触れる乾いた感触があった。なんとなしにそちらを見れば、床に積み上げた書類の一番上にタイムリー社の新聞と、エディのもとに届いたという読者からの手紙が無造作に置かれている。
途端、彼の頭に数日前のことがまざまざと蘇った。
数日前、ラウルがシェイラの家に顔を出し、偶然にもエディと鉢合わせたあと。ラウルはすぐにシェイラの屋敷を離れてしまったのだが、そのあと、エディが憲兵隊詰所を訪ねてきたのだ。
生憎、ラウルは席を外していて会えなかったのだが、応対した部下にエディは手紙を数枚預けていった。なにか捜査のヒントになれば、とのことだった。
結論から言えば、それらの手紙はこれといって新たな情報を得られるものではなかった。むしろ、たったこれだけの情報から「エリーゼ姫のゴーストは月の光を避けて行動している」ということに気づいたシェイラの慧眼に驚くほかはない。
しかし、と、ラウルは手紙に手を伸ばし、開いた。
月が雲に隠れているとき、闇夜に静かに浮かび上がり。
月の光が地上を照らしたとたん、溶けるように姿を消してしまったひとりの少女。
半分は呆れ、半分は大したものだと思いながらラウルは苦笑をする。
これではカトリーヌは、ゴースト憑きの少女というより、本物のゴーストになってしまったかのようではないか。
――軽い冗談として頭をよぎったその考えは、一瞬遅れて強い衝撃を彼にもたらした。
ラウルはがばりと身を起こすと、机の隅に開いたまま放置していた捜査資料を手元に引き寄せた。それに目を通すまでもなくラウルの頭には大抵のことは入っているが、より鮮明な記憶を呼び起こしたかったのだ。
あった。王宮で仮面舞踏会が開かれた晩。カトリーヌが姿をくらませたあと、あの狭い部屋のなかで起きた出来事についてシェイラが語ったことの記録。ペンを走らせたのは他でもないラウル自身だ。
〝レイノルドと話をしていました。隊長のことを聞かれたりして、あとは、婚約破棄を取り消したいとも言われました〟
自らの文字を追いかけると同時に、シェイラの声が耳元で響く。あの日の夜を思い出しながら、ラウルは慎重に声に耳を傾ける。
〝当然、断りました。しばらく言い争いが続いて、気がついたら……〟
「カトリーヌ・シオンが、部屋の中にいた」
よみがえる声の続きを引き継いで、ラウルはひとり呟いた。
そのあとに起こった衝撃的な出来事ばかりに気を取られていたが、カトリーヌ・シオンはいつ、どうやってシェイラたちのいる部屋に入ったのだろうか。
シェイラに話を聞いていたときは特に疑問に思わなかったので、敢えて詳しく尋ねることもしなかった。常識的に考えて、部屋にひとつしかない扉を使ってカトリーヌが室内に入ったものだと思い込んでいたからだ。
しかし思い返せば、ラウルが部屋に駆け付けたとき、扉側に倒れていたのはシェイラだ。逆にカトリーヌ・シオンは少しでも闇に紛れようとするように部屋の最奥にいて、そこから白い影を伸ばしシェイラを拘束していた。
シェイラの証言によれば、ふたりがカトリーヌの存在に気づいてすぐ、彼女はふたりに攻撃をしかけてきたという。だとすると、この位置取りは変だ。
つまり、カトリーヌは扉から室内に入ったあと、ふたりにまったく気づかれることなく部屋の奥へと向かい、身を潜めていたことになる。さすがに無理があるし、ゴーストの力を借りて気配を消したなら尚更だ。レイノルドはともかく、『勘』の働くシェイラが気づかないわけない。
では、逆ならどうだろう。最初からカトリーヌが室内にいて、そこにシェイラとレイノルドが入っていったとするならば。
少し考えて、ラウルは首を振った。同じことだ。部屋は狭く身を隠せる場所もないし、エリーゼ姫に頼って小細工をしようものならシェイラが必ず察知する。
だとすると、いよいよもっておかしなことになる。証言や記憶を辿り、あり得ない可能性をすべて切り捨てた先にある答えはたったひとつしかない。
カトリーヌ・シオンは、あの夜、あのタイミングで、何もないところから忽然とシェイラたちのいる小部屋に姿を現したのだ。
部屋の隅の暗がりで何かが蠢く気配があって、ラウルはすばやくそちらに首を向けた。だが、そこには何もいない。どうやら過敏になって、己の影に反応してしまったらしい。気を取り直した彼は、再び捜査記録に視線を落とした。
たかだが16歳の貴族の娘。カトリーヌをそのように思っていたことこそ最大の見落としであり、前提のズレだったのだ。
ラウルたちはずっと、カトリーヌをゴーストに憑かれた娘――あくまで『人間』として扱ってきた。
しかし、もしも逆なら。積極的にエリーゼ姫の力を受け入れたカトリーヌが彼女と融和し、人間というよりはゴーストに近しい存在へと変化しているならば。
「……憲兵隊に、手に負える相手じゃない、のか?」
背筋を薄ら寒いものが通り過ぎる。知らずうちに、ラウルはごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込んでいた。
熱中していたのがよくなかったのだろう。知らずに力の入ってしまっていた手に押されて、捜査資料の位置が僅かにズレる。それにより、挟んでいた紙のいくつかがバラバラと地面に落ちた。
とっさにラウルは、床へと手を伸ばす。
そのとき、脈絡なく室内の灯りがすべて消えた。
(なにっ!?)
瞬時に彼は姿勢を低くし、机の影に身を隠した。手探りで手を伸ばせば、机に立て掛けて置いていた剣に指先が触れる。それを両手で握り臨戦態勢を整えてから、彼は改めて室内を窺った。
灯りに慣れた目では、突如として暗闇に沈んだ部屋の全容を把握することは難しい。しかし、異常な事態がこの部屋を――いや、おそらくは詰所そのものを襲っているのは明白だった。
空気が変わる。古い書物や、カーテン特有のカビ臭い匂い。石造りの古城特有の、湿り気を帯びた空気。それらは遠い記憶をこじ開け、彼の肌を粟立たせる。
昔、自分はここにいた。永遠に続くかと思えた地獄の中、迫る白い影から逃げ続けたのだ。
ひどい緊張に頭の芯が痺れ、目の前の景色がくらくらと揺れる。腹の奥からせり上がる吐き気に、彼はたまらず片手を地につく。
逃げたい。逃げたい。逃げたい。
本能的な叫びを、辛くも繋ぎとめた理性で必死に抑え込む。ここで背中を見せることなど、できるわけがない。あの時とは違って、自分は無力な子供ではない。そして今の自分は、命に代えても守りたいひとがいるのだ。
暑くもないのに、額から一筋の汗が滑り落ちる。それを拭いながら、どうにか彼が前に視線を戻したとき――。
白く、ぼおっと闇に浮かび上がる、カトリーヌの姿が目の前にあった。
「はっ……」
ラウルは乾いた笑いを漏らした。いや、笑ったつもりであったか、相手の目にもそう映ったかは怪しい。事実、彼を見つめるカトリーヌの瞳には憐れみにも似た色が浮かんでいた。
次の瞬間、ラウルは全身の筋肉が弛緩するのを感じた。気がつけば頰に冷たい床の感触があり、手足は無造作に投げ出されている。そうやって、彼はなすすべなく横たわっていた。
「何を、しにきた……?」
どうにか声を絞り出し、ラウルはカトリーヌを睨む。
彼女の足元から伸びた白い影たちが蔦のようにラウルの体にまといつく。そのためか、痺れはいつしか頭痛に変わり、痛みは今や最高潮に達している。仮面舞踏会の夜も同様の症状に襲われたが、ここまで酷くはなかった。ともすれば、意識を手放してしまいそうだ。
そんな彼をカトリーヌは静かに見下ろしている。もともと美しい娘であるが、いまの彼女の美貌にはこの世の者ならざる危うさがあり、ラウルを薄ら寒い心地にさせた。
「まぁ」
唐突に、カトリーヌは呟いた。そして、彼女は先ほどまでよりはっきりとした憐れみの色を――まるで、親しい友の不幸を慰めるような目をした。
「オズボーン様も私と同じですのね。愛しているのに。こんなにも深く、愛しているのに。私たちはお仲間ですわ。あの女のせいで傷つき、苦しんでいる。……そうでしょう?」
妖艶で、それでいて仄暗い笑み。穏やかな声音に静かに滲む憎悪の感情は、まぎれもなくシェイラへと向けられたものだ。
「シェイラに、手を、出すな……っ」
「どうして止めるのですか?」
カトリーヌの不自然に白い手が、ラウルの頬に触れる。それだけで、堪えようのない悪寒が彼の全身を駆け抜けた。唇を噛んで耐えるラウルに、カトリーヌはいっそ優しいと言える声音で語り掛ける。
「オズボーン様の心が見えましたわ。あふれ出るほどの愛と……満たされない痛みがありました。不安なのでしょう? 彼女が自分を選んではくれないかもしれない。彼女が、レイノルドを選ぶかもしれない、と」
思わず息を呑んで、ラウルはすぐに後悔した。これでは答えずとも肯定したのと同じだ。現に、カトリーヌの唇は三日月型に吊り上がった。
「私も同じなのです」
いつの間にかラウルの上にのしかかるようにして彼を見下ろしながら、カトリーヌは悲し気に微笑む。
ラウルの体に残る力はなく、抵抗はおろか指一本動かすことも出来ない。時折視界も霞み、夢と現の境にいるかのようだ。
「私もオズボーン様も、満たされ、幸せになれたはず。それなのに、あの女のせいで……。こんなのは間違っています。正すためには、私たちの心の平穏を取り戻すためには、何が必要だと思います?」
「何を言って……」
「私、いいことを思いつきましたの」
ラウルに反論の余地を与えず、カトリーヌは歌うように続ける。その隙にも、白い影たちは彼の身体の上を這い、蜘蛛の巣のように執拗に絡めていく。
「あの女が私からレイノルドを奪ったように、私もあの女の大切なひとを奪ってやろう。そう思ってきたのですが……ずっといいことですわ」
力を貸して欲しいんですの。青白い唇を寄せて、カトリーヌはそう囁いた。
「ねえ、オズボーン様。一緒に、思い知らせてやりましょう。大丈夫ですわ。オズボーン様は、その体を私に預けてくださればいい。あとは私たちが、なんとかいたしますわ」
「やめ、ろ……っ!」
「ご安心くださいな」
軽々とラウルを抑えつけ、カトリーヌは怪しい光の宿る目を細める。それから彼女は己の胸元へと手を運ぶと、禍々しい輝きを放つブローチを外した。
「少しの間、お身体をお借りするだけです。……信頼するオズボーン様から剣を向けられたあの女がどんな表情を浮かべるか、今から楽しみですわね?」
外されたブローチが、ラウルの胸元へと押し付けられる。
途端、白い影の暴流が頭のてっぺんから爪の先までを駆け巡り、目を見開いたままラウルは体を弓なりに反らした。それでも頭の中に鳴り響く無数の声はおさまらず、彼の意識そのものを飲み込むのを止めることはできない。
(シェイラ……!!)
愛しい女の名を叫んだのを最後に、彼の思考は混濁の淵へと沈んだのだった――。