9-3
逃げ出すという選択肢は、与えられていないのだろうな。
真っ白の扉を前にして、ラウル・オズボーンはまるで他人事のようにそのような感想を抱いた。
装飾どころか、ドアノブもない。つるりとした表面の、殺風景な扉。
にもかかわらず、その戸が押すだけで簡単に開いてしまうことを、彼は知っている。彼の迷いや葛藤と関係なく、何もかもをつまびらかに暴いてしまう。
嫌だ。知りたくない。暴きたくない。
そう願うラウルの思惑と裏腹に、彼の手は自然と戸に吸い寄せられる。そして頭の中で鳴り響く警鐘に耳を貸しながらも、彼の意志と関係なしに、その手が戸を押し開いた。
〝レイノルド……〟
甘く、艶やかな声が、聞きたくもない名を呼ぶ。
ぐらりと視界が揺れ、彼はとっさに足を踏みしめた。だが、体が傾いだのではなかった。体の奥底から暴れ狂う怒りと絶望に、強い眩暈に襲われたのだった。
目の前にあるのは、一台の大きなベッドだ。
豪華なそれには天蓋がついており、重く垂れさがる赤布によってぴしゃりと視界を閉ざしている。しかしながら、布にくっきりと浮かび上がるふたり分の影によって、中で何が行われているのかは明白だった。
嘘だ。
荒く呼吸をして、彼は顔を手で覆った。彼女は不誠実な人間じゃない。自分の気持ちを受け入れると言ってくれた彼女が、レイノルド・ミラーの求めに応じて身を任すことなどあり得ないと、何度も自分に言い聞かせた。
だが、だとしたら目の前の光景はなんだ? 自分を裏切り、別の男に愛を囁くあの女は、一体何者だと言うのだ?
〝かわいそうに〟
耳元で響いた無機質な声音に、ドクンと心臓が嫌な音を立てた。
振り返ろうとした足がもつれ、彼はその場で尻餅をついた。全身をざわざわと駆け巡る恐怖が、手足の自由をも奪ってしまったようだ。必死に距離を取ろうとしてうまく行かない彼を嘲笑うかのように、白い女の影の口のあたりが黒い三日月型に開いた。
〝おそれているのね。おびえているのね。あの子の愛が欲しいのに。愛を信じたいのに〟
〝くるな……っ〟
とうの昔に変わったはずの、少年特有の高い声が喉から漏れる。いつの間にか彼は憲兵隊のラウル・オズボーンではなく、家族でルグラン地方へと遊びに行った頃の幼い姿へと変わっていた。
けれども、目の前のゴーストから少しでも遠ざかろうとする彼に、己の姿に注意を払う余裕はない。紅い双眼を見開き、不自由な手足でなんとかもがきながら、どうにか逃げようと彼は必死に足掻いていた。
だが無情にも、彼のすぐ目の前にゴーストは立った。女の影はしゃがみこむと、温かくも冷たくもない手でラウルの顔を挟んだ。
〝だいじょうぶ。わたしがあなたを助けてあげる。だから〟
ふたつの目と、口。仄暗く空いた穴のようなそれらが、笑みのようなものを浮かべた。
〝ソノカラダ、ワタシニチョウダイナ〟
白い影が体を絡めとる。耳や鼻、そして口。それらから彼の体に入り込もうと、肌をつたって白い影が這い巡った。
そのおぞましさに、彼は半狂乱となった。羞恥も、虚勢も、意地も。何もかもをかなぐり捨て、恐怖に暴れ、叫んだ。
〝い、嫌だ! 来るな! 助け……助けて!!!!!〟
はあ、はあと、荒い吐息が室内に響く。
目を見開き、飾り気のない天井をその瞳に映したまま、しばらくの間ラウルは呆然と仮眠用に使っているソファに身を横たえていた。
(くそ……っ)
内心で毒づき、ラウルはなんとか体を起こす。噴き出した汗が衣服に染み、肌に張り付く心地が気持ち悪い。おまけに全身が気だるく、また大して深い眠りを取れなかったことを彼に告げていた。
「ひどい目覚めですね」
ふいに聞こえた声に、彼はひどく驚いてそちらに目をやった。てっきり室内には自分しかいないと思っていたのだ。
「私がいることにも気づかなかったとは……いよいよ末期ですよ」
「……起き抜けで寝ぼけたんだよ」
ラウルの返答に、ユアンが溜息を吐く。向かいのソファに足を組んで腰掛けていた彼は、ひざの上で開いていた書物をぱたんと閉じた。
自分は何か、口走ってはいなかっただろうか。ユアンの様子から察するに、ラウルが悪夢にうなされていたことは彼にすっかり筒抜けだ。その気まずさはもちろんある。
けれどもそれ以上に、起きたときに見知った顔――それも、一番の信頼を置く友の顔を見れたことで、ラウルは幾分か救われていた。呼吸を整え、平静さを取り戻した彼は、疲れたように膝にもたれつつもユアンに問いかけた。
「何か用でもあったか?」
「別に。これと言った要件はありません。街に見回りに出る前に、私もここで休ませてもらっていたんです」
「上官が寝てる横で休むか、普通」
「あなたが気にしないのはわかっていますから。……それより」
立ち上がったユアンがラウルの首筋に触れる。そうして何かを確かめた彼は、気づかわしげに整った顔を僅かにしかめた。
「発汗と、脈拍に乱れがあります。顔色も、仮眠をとる前よりもひどくなっている。きちんと眠れていないのは、これが初めてじゃないですね?」
「大袈裟だな。ちょっと夢見が悪いだけだ」
肩を竦め、ラウルはユアンの手を払った。そうでもしないと、出すつもりもない弱音が口をついて零れそうだった。
だが、長年の付き合いである友の目は、そう簡単に騙せない。というより、目の下に大きなクマを作り、無理をして浮かべた笑みのひとつやふたつで、鬼神隊の副隊長を欺こうなどと考えるほうが無理なのだ。
「その『夢見』とやらに蝕まれているから、言っているんですよ。ラウルがここまで憔悴するくらいですから、内容はゴースト関連ですか」
「まあ、な。昔はよく見たんだ、似たような夢を。最近じゃ見なくなったから油断していたが……城での一件が、引き金になっちまったようだ」
「シェイラさんは知っているんですか?」
「いや。言っちゃいない。ていうか、どう言えというんだ? 『ゴーストが怖くて、よく眠れないんだ』とでも、言えってか? それこそお笑い種だ」
「そうは言いませんが……」
否定しつつも、ユアンは釈然としない表情だ。彼が言わんとすることは、だいたいラウルにもわかる。
シュタット城のゴーストを巡る一連の騒動について、シェイラがもっと捜査の力に立ちたいと思ってくれていることは十分理解している。理解したうえで、彼女に頼ることはしないと判断を下したのは他でもない自分自身だ。
「今は大人しく従ってくれているが、俺がここまで参っていると知ったら彼女はその限りじゃないだろう。だから、シェイラには言わない。心配を掛けたくないんだ」
頼られると放っておけない。それがシェイラ・クラークという女だ。王立劇場のときだってそうだ。大のゴースト嫌いのくせにゴースト探索を行うラウルに呆れつつも、少しもラウルを馬鹿にせず、最後まで協力してくれた。
あの時ですらそうなのだから、より親密となった今、ラウルが苦しんでいることをシェイラが知ったなら。
きっと彼女は、一刻も早くラウルの不安を取り除こうとカトリーヌ捜索に加わろうとする。いや、それならまだいい。最悪なのは、憲兵隊の目をかいくぐってシェイラがひとりで外に出てしまうことだ。その結果、彼女が危険に晒されるようなこととなれば、ラウルは自分を許せないだろう――。
「本当にそれだけですか?」
腕を組み、しばらく考え込んでいたユアンが、ふいにラウルを見た。銀縁眼鏡の奥から覗く瞳はどこまでも冷静で、ラウルは思わず視線を逸らしてしまいたくなる衝動にかられた。
「レイノルド・ミラーが言っていたこと――あれが、ラウルに意地を張らせているんじゃないですか?」
その一言に、ラウルは目を瞠った。
――昔からそうだ。ユアンは用心深い一面を持つ一方、一度猫を被ることを辞めた相手にはどこまでも容赦がない。その鋭さを気に入っているが、時にラウル本人が気づいていなかった真理を突いて、彼をどきりと慌てさせるのだ。
〝シェイと会わせて〟
淡々と、ただ繰り返したレイノルド・ミラーの声が、ラウルの耳に蘇る。
〝父に言われた。シェイはカトリーヌと違って、ミラー商会がやっていることをよく思わないって。だから、シェイと別れるのをOKした。シェイに嫌われるのは嫌だから〟
「レイノルド・ミラーがシェイラさんとの婚約を破棄したのは、カトリーヌ嬢に惹かれたからではなかった。ま、第三者からすれば勝手な理由であるのは変わりませんが、シェイラさんはそう思わないかもしれないですよね」
「……そうだな。あいつは、お人好しのところがあるから」
「シェイラさんはレイノルド・ミラーに同情し、気持ちが揺れてしまうかもしれない。それを恐れるから、あなたは自分が弱った姿を彼女に見せたくない。そう、意地を張っているんじゃないですか?」
頬杖を突いたラウルは、思わずため息を吐いた。
痛いところを突かれたと思った。ユアンが言うことがもし本当であるなら、なんと幼稚で、あほらしい意地を張るものだと自分でも笑ってしまいたい。けれども、ユアンの言葉を丸ごとすべて否定することは、ラウルには出来そうもなかった。
「そう、なのかもな」
観念したラウルは前髪をかきあげた。
「魅惑の鬼隊長が聞いて呆れる。とんだヘタレた野郎だ」
「でしたら……」
「だが、あいつに言うのは無しだ」
ばっさりと切って、ラウルが立ち上がる。まだ言いたいことは終わってないとばかりに静かに睨むユアンに、ラウルは肩をすくめてみせた。
「大丈夫だ。知っての通り、俺はなかなか丈夫にできてる。……悪い、ユアン。あと少し、俺のわがままに付き合ってくれ」
苦笑を浮かべて相棒を見れば、ユアンはなんとも言えない、もどかしげな表情を浮かべていた。ややあってユアンは眉根を寄せつつ、かちゃりと眼鏡を押し上げた。
「わかりましたよ、まったく……――」
だが、その数時間後。
「――……なんて、何が『付き合って』くれですか、あのええ恰好しいが!!」
何が何やらわからずに目を丸くするシェイラの横で、鬼神隊副隊長ユアン・ブリチャードはそのように毒づいていたのであった。