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1-3




「遅かったな! 間に合わないかと思ったぞ」


 暗くなりかけた通路をこそこそと急ぎなんとか席にたどり着くと、キースが呆れた顔で迎えた。


「ごめん。用事はすぐに終わったんだけど、そのあとで男の人に話しかけられちゃって」


「おとこ⁉ 誰だそいつ? 怪しいやつか? なんかされたのか⁉」


「違う、ちがう! そういうんじゃなくて……」


 とたんに気色ばむ妹バカのキースを、シェイラは慌ててなだめる。だが、するする幕が上がったので、ふたりとも同時に口を閉ざした。


 舞台へ灯が向けられると、薄闇のなか、歌姫アイリーン・バトラーの姿がはっきりと浮かび上がる。彼女の美しいソプラノが響いて、『天使と怪人』の第二幕がスタートした。


 二幕が終わったら、きっちり事情を教えてもらうからな。そんな兄の無言の圧力をとなりでひしひしと感じながら、シェイラはちらりと背後を見上げた。


 彼女の視線の先には、上流貴族たちが占める個室席が並ぶ。先ほどの男も、おそらくそのどれかに座って、この舞台を見ているのだろう。


 さっきはつい逃げ出してしまったが、シェイラはやはり、男のことが気になっていた。


 彼は途中で、「気配が消えた」と口にしていた。階段に飛び込んできた際もとても恐ろしい顔をしていたし、おそらく何かを追いかけて、あそこまで来たのだろう。そう考えると、彼もシェイラほどではないにせよゴーストの気配を感じ取っていたとしか思えないのだ。


 だが、たくさんの個室席からのぞく顔のなかに、男の姿を見つけることはできない。少しだけ粘ってみて、やがて彼女は諦めた。


 いまはとにかく舞台に集中しよう。それに、あれだけ目立つ男だ。父の商会を手伝っているキースに聞けば、案外すぐにどこのだれかわかるかもしれない。


 そう気を取り直して彼女が前を向くと、ちょうどアイリーンが歌い終えたところだった。場面は変わり、セットがくるくると変わる。そして、新たな女優が舞台に上がった。


(そっか。この人が、期待の新人の……)


 若くハツラツとした印象を与える女優を見て、シェイラは事前に調べた知識を思い出す。


 天使と怪人。


 最近書き下ろされたその物語の舞台は、とある伝統ある劇場だ。アイリーンが演じる主人公は、その劇場のトップスターである歌姫。富と名声。圧倒的な歌唱力と美貌により、彼女はそれらを思いのままに得ていた。


そんななか、若く、素晴らしい才能を持った新人が彗星のごとく現れる。このままでは、自分の地位が奪われる。そう恐怖する彼女の前に、劇場に住まう〝怪人〟が囁く。自分は音楽の天使。その僕となるなら、より多くの才を彼女に捧げよう――。


 二幕では新人歌手の登場と、新人を前にした主人公の苦悩。そして、怪人との出会いが描かれる。いま舞台の中央に立つのは、その新人歌手を演じる、つい最近抜擢されたという若手女優だ。


 たしか名前は、エイミー・ダーエ。それまで名前のある役をやったことがないというほぼ新人で、彼女の演じる役そのものだと話題らしい。


 そのエイミーが歌いだし、シェイラは思わず息をのんだ。


 歌もうまいが、表現力がとびぬけて素晴らしい。演じる役の心情をよく映し出し、はじめは戸惑いを、つづいて歌う喜びをまっすぐに表現している。透明感のある声はどこまでも伸びて、観客の心を打ちぬいていく。


 こっそり盗み見れば、となりでキースも目を丸くしている。当然だ。どこの誰が聞いたって、彼女はとんでもない才能の持ち主だと納得させられる。そういう歌声なのだから。


 物語の進行に合わせて、エイミーは堂々と歌う。それに合わせてセットが入れ替わり、彼女が端役を担うだけの無名の新人から、舞台に舞い降りる新たなヒロインとして認められ、観客の前に立ったことが表現される。


 ――だが、そのとき異変が起きた。


 シェイラの目の前を、青く輝く小さな蝶が横切った。彼女ははっとして、慌てて蝶を目で追った。なぜならそれは、シェイラにだけ見えるゴーストの予兆だ。


 けれども、蝶は一匹ではなかった。5匹、10匹。いや、もっとかもしれない。青白い輝きをまるで鱗粉のように放ち、蝶たちは観客の頭上を飛び回る。ふわふわ漂い、ゆっくりと円を描きながら、とある一点へと集まっていく。


 円は次第に小さくなった。ついに集まった蝶たちが光る台座のようになったとき、突如、〝ソレ〟は現れた。


 途端、美しい歌声で満ちた劇場の空気を切り裂くように、甲高い悲鳴が客席から上がった。


「え?」


 驚いたシェイラは、〝ソレ〟から目を離した。悲鳴を上げたのは彼女と同じ列の、ちょうど〝ソレ〟の足元に座っている女性だ。その女性のほかにも〝ソレ〟を指さしたり、驚きのあまり椅子からずり落ちたりしている者がいる。


「な、なんだ? 火事、じゃないよな。」


 ざわめきが広がるなか、キースがきょろきょろと周囲を見渡す。シェイラはそんな兄の頬を両手でぱしんと挟み、ソレの方向へとぐいと向けさせた。


「兄さん! 兄さんは、アレ、見えるの⁉」


「痛い、痛い! あれって何だ? どれだよ!」


 じたばたと抗議するキースの言葉に、シェイラは確信した。やっぱり。シェイラ以外にも見えている人もいるみたいだが、あれはゴーストだ。


 あらためてシェイラはソレを――観客の頭の少し上に浮いて立つ、黒いマントにすっぽり身を包んだ男に目を向けた。


 男というのは正しくない。体格から、おそらく男だというだけだ。顔のあたりには、三日月のように細い目と口の切れ込みが入っただけの、至極シンプルな白い仮面がはめられており、その下に隠された顔を窺い知ることはできない。


 ただただ、まっすぐに舞台を見据えているだけの静かなゴースト。


 何かに似ている。そう考えて、すぐにシェイラは、ゴーストが「天使と怪人」のポスターに描かれていた怪人そっくりであることに気づいた。


 劇場側も、このまま劇を続けられる状況ではないと判断をしたのだろう。俳優たちが舞台袖に引っ込み、同時にスタッフたちが観客席側の扉を次々に開いていく。それが引き金となって、観客たちが立ち上り、出口へ殺到した。


「何があったっていうんだよ……。シェイラ! 僕たちも出るぞ!」


「え? ああ、ええ……」


 キースに腕を摑まれ、後ろ髪を引かれつつシェイラも出口へと向かう。ひとびとにもみくちゃにされながら劇場を出る刹那、彼女はどうにか振り返り、ゴーストの姿を確認しようとする。


 だが、そのとき轟音が響き、あちこちで悲鳴が上がる中でシェイラはキースやほかの観客たちと共にその場にしゃがみ込んだ。


 見れば、誰もいない舞台の真ん中、ちょうどエイミー・ダーエが歌っていたあたりに照明だったと思われる残骸が落ちて粉々になっていた。


 ――――怪人のゴーストは、すでにホールから姿を消していた。



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