9-1
微睡の向こうで小鳥がさえずる声がする。
声に誘われるように、シェイラはゆっくりと寝返りを打つ。肌に触れるシーツの感触が心地よく、目を閉じたままシェイラはふわりと表情を緩めた。
そのとき何者かがベッドの端に座る気配があり、シェイラは重い瞼を持ち上げた。
「……ラウルさん?」
なぜそこに、とは思わなかった。薄手の白いシャツに、黒のズボン。とても寝起きとは思えないさわやかな服装に身を包んだラウルが、シェイラのベッドに腰掛けている。
「やっとお目覚めかな?」
愉快げに言って、ラウルが唇を吊り上げる。魅惑的に微笑む彼は、まるで舞台上でスポットライトをあてられた役者のようにキラキラと輝く。
なんて、カッコイイんだろう。いや、彼が魅力的な男性であることは遠目に見ていた時から知っていたが、いまは尚更に素敵に見える。
そんな風に胸をドキドキさせながら、シェイラはふにゃりと緩んでしまいそうな頰を隠すべく、羽ふとんを引き上げて顔を半分隠した。
「あまりジロジロみないでください。寝起きなんですから」
「なんだ。そんなこと気にしているのか」
「気にします。気にするに決まっているじゃないですか」
「安心しろ。寝起きの顔も可愛いぞ」
「そういう話をしてるんじゃないです」
ふとんで顔の半分を隠したままシェイラはもごもごと答える。じっと睨んでみるが、そんなものが照れ隠しであるのは、当然ながらラウルにはお見通しらしい。
「おはよう、シェイラ」
言いながら、ラウルが身を屈める。精悍な顔がぐっと近づき、シェイラの胸の鼓動がどきどきと早くなる。そんな彼女の動揺を知ってか知らずか、ラウルは楽しげに目を細めた。
「じゃあ、さっそくいただくとしようかな」
「いただくって何を……?」
「わかっているくせに」
くらくらするような色気を漂わせ、ラウルがくすりと笑う。
ラウルがふとんをそっと退け、頰に触れる。それでシェイラも、彼が口付けを求めているのだということに気づく。
どうしよう、どうしよう。ドギマギと視線を彷徨わせつつ、シェイラは慌てる。
けれども、なんの問題があるのだろう。自分とラウルはこ、恋人で、結婚の約束もあって、しかも自分は彼のことを……。
「ダメ?」
甘い声で強請られ、シェイラは覚悟を決めた。顔を真っ赤にし、バクバクと心臓を高鳴らせ、それでも必死に目を閉じて彼の唇を受け入れようと――。
「シェイラ?」
聞こえた声に、シェイラは文字通り飛び起きた。それはもう、激しくスプリングを軋ませてだ。その音はどうやら扉の外にまで聞こえたらしく、廊下でキースの狼狽した声がした。
「な、なんだよ。そろそろ朝食だぞ? 起きないのか?」
「あー……」
混乱しつつ、シェイラは室内を見回す。当たり前だがラウルの姿はなく、見慣れた自分の部屋が広がるばかりだ。
どうやら、夢を見ていたらしい。そのことに赤面しつつ、シェイラはなんとか兄に返事をした。
「おはよう、兄さん。すぐ支度をして降りるわ」
「わかった。二度寝はするなよ」
釘を刺す小言に続いて、一人分の足音が遠ざかっていく。ホッと胸を撫で下ろしたシェイラだが、続いて頭に浮かんだのは身を捩りたいほどの羞恥だった。
(あ、あんな……夢だなんて)
両頬を手で包んで、シェイラはベッドの上で身を縮こまらせた。
触れられた大きな手の感触も、赤く情熱的な眼差しも、何もかもがリアルだった。それらを生み出したのが己の妄想、というのが何より恥ずかしい。いっそのこと、本当に迫られたのならよかったのに。
しかし、まったくどうしたことだろう。こうした類の夢を見るのは今日が初めてではない。というより、ここ連日、ほぼ毎朝だ。
きっかけはわかっている。あの日、初めて自分から彼に触れたとき。
目の前にいるひとを、心から愛おしいと思ってしまった、あのとき。
「〜〜〜〜っ」
声にならない悲鳴をあげて、シェイラはベッドの上で一人ジタバタともがく。それももはや、毎朝恒例の光景となりつつあった。
――さて、そんな彼女の動揺をよそに、クラーク家の前には一台の車が止まった。
屋敷の近くで所在なさげに佇んでいた憲兵隊の男が、車の主に気づいて慌てて駆け寄る。男がすぐ横まで来ると、車の窓が音もなく開く。顔を出したのは、案の定というか、憲兵隊第二部隊長のラウル・オズボーンであった。
「おはようございます、隊長!」
「ああ。ご苦労さん」
軽く微笑みを浮かべてから、ラウルは屋敷へとちらりと視線をやる。尚、彼が視線を投げかけた窓のひとつのなかで、まさにシェイラが羞恥に身もだえしていることなど、当然ながら彼が知る由はない。
「昨夜も異常なし、だな。細かいことでもいい。何か気づいたことはないか?」
「いえ。夜半を回ってからは、家の前を通ったのは猫かねずみくらいです」
「そうか。直に交代が来る。そしたらお前は、家に帰って休め」
「はっ」
敬礼をした部下にひとつ頷いて、ラウルは車を走らせた。
一目、彼女に会いたい。そのように思わないでもなかったが、彼は思いとどまった。時間が時間だ。いま顔を出せば、悪戯に彼女を慌てさせてしまうだろう。彼女の身の回りに異変が起きていない。そのことが確かめられたなら十分だ。
それに――、と考えたところで、ラウルは眉間を揉んだ。顔色はあまり芳しくない。運転する部下もミラー越しに気づいたようで、気づかわしげに「お疲れですね」と声を掛けた。
「無理もありません。カトリーヌ・シオンの捜索がここまで難航するとは……」
「問題ないさ」
部下を安心させるため、ラウルは軽く肩を竦めてみせる。
「これぐらい、第二部隊ならどうということはない。……と、言いたいところだが、お前たちも無理はするなよ。思いのほか、この件は長引きそうだからな」
「はっ」
答えた部下は、とはいえ頼もしい笑顔を見せた。さすがは第二部隊の一員、連日続くカトリーヌ・シオンの捜索も、少しも体に堪えていないらしい。
ラウルはもう一度微笑んでから、窓の外に顔を向ける。だが、その横顔には再び疲労の色が滲む。
――程よい揺れが、彼を微睡へと誘う。けれども意識が霞んだ先で、白くも禍々しい影が微かに揺れる気配があった。
(……本当に、情けないな。俺は)
溜息をひとつ吐いて、ラウルは顔を手で拭った。
仮面舞踏会からカトリーヌ・シオンが姿を消してから、すでに10日が過ぎた。憲兵隊が日夜を問わず警戒に当たっているが、いまだにその足取りは摑めていない。
つまるところそれは、シュタット城の亡霊がこの街のどこかに潜んでいるということであるのだった。
あの夜、シェイラはカトリーヌ・シオンの記憶から知り得た情報のすべてを、ラウルに伝えた。それを受けて憲兵隊は直ちにミラー家――そして、シオン家に立ち入り調査を行った。カトリーヌの記憶によれば、彼女がレイノルドにブローチをもらったその時、彼女の父親もその場にいたためである。
果たしてラウルの読みは当たった。シオン家もまた、闇市場に関わっていたのである。
口を割ったのはカトリーヌの父、ダニエル・シオンだ。彼によれば、シオン商会はとある事業で負債を負ってしまったらしい。その分を取り返す術に頭を悩ませていたところに、ピーター・ミラーから闇市場への参入を持ち掛けられたのだという。
一方のミラー商会はというと、もとよりたびたび闇市場に盗品を流しては、多額の利益をそこから得ていた。味を占めたピーターは闇市場をより大きなものへとするために、シオン商会を招き入れようとしたのである。
真実が明るみに出ると同時に、闇市場に関わる者たちが芋づる式にお縄にかかった。当然、発端となったピーター・ミラーも多分に漏れず捕まっている。
ラウルによると、すべての調査が済んだ折にはミラー商会に多額の罰則金が課せられるだろうとのことだ。かつてはミラー家とそれなりに付き合いのあったシェイラにしてみれば、いささか複雑な気分にさせられる話である。
とはいえ、ミラー商会への立ち入り調査により、ほかのシュタット城の盗品はすべて回収された。あとはカトリーヌ・シオンの持つブローチを見つければ、今回のゴースト騒動はすべて解決となる。
……と、いうところまで話は進んだものの、肝心のカトリーヌ・シオンがいまだに見つかっていない。
これはいささか、いや、かなり奇妙なことだった。
エリーゼ姫のゴーストに憑かれているだけで、カトリーヌ自身は生身の人間だ。それも良い処の生まれの、非力な令嬢である。そんな彼女が憲兵隊相手に逃げ回れるわけがない。
だというのに、カトリーヌの姿は忽然と消えてしまった。だからこうして、シオン家と所縁のある場所はもちろん、ミラー家、そしてクラーク家の周辺を中心に、憲兵隊が見回りを強化しているのである。
「もう10日だもの。憲兵隊のみなさまも、きっとお疲れよねえ」
門の前を憲兵隊の制服が横切るのを窓から見下ろし、クリスティーヌがほおとため息を吐く。偶然にもそのタイミングで、道を行く憲兵隊が大きく伸びをした。
「本当にカトリーヌさんはどこに行っちゃったのかしら。どこかで無事でいればいいのだけれど、ゴーストとずっと一緒で大丈夫なのかしら」
「……そう、よね」
本に落としていた視線を上げて、シェイラは凝り固まった首を回した。すっかり調べものに夢中になり、数時間が過ぎてしまっていたようだ。いつの間にか太陽は傾きかけていて、本に落ちる影も長くなっている。
日が落ちれば、寒さは本格的なものとなる。自分とそう変わらない若い娘が、この街の暗がりのどこかで、ゴーストと共に身を潜めている。彼女が感じているだろう孤独と寒さを思えば、シェイラの胸はちくりと痛んだ。
「エリーゼ姫のゴーストは強力だから……間違いなく、早くブローチと彼女を引き離すべきだと思う。けど、そのためにはまず、あの子を見つけないと」
「シェイラちゃんの勘で、探すことは出来ないの?」
首を傾げた兄嫁に、シェイラは残念そうに首を振った。
「それは私も考えたんだけど、近くにいないと、さすがに気配も追えなくて」
それだけじゃない。自分も捜索隊に同行したらどうかと、ラウルに提案したこともある。うまくいけば彼女に憑くゴーストの気配を摑むことが出来るのではないかと。
しかしながら、その案はラウルに却下されてしまった。
〝忘れたのか。俺が駆け付けたとき、カトリーヌ・シオンが攻撃対象としていたのは君だ。君は、自分が狙われる可能性を考えはしないのか?〟
ラウルはそのように反対したが、シェイラも粘った。あの夜、エリーゼ姫と思われるゴーストは、カトリーヌにシェイラを諦めろと告げていた。どういう理屈かは不明だが、彼らにシェイラの体を奪うことはできない。それなら、危険はないはずだと。
だが、ラウルの答えは変わらなかった。それどころか、より一層頑なに首を振った。
〝シュタット城に巣食うゴーストは厄介だ。この身をもってして、俺はそれを知っている。……大人しく、守られてくれ。頼むから〟
最後は、ほぼ懇願だったと言っていいだろう。ラウルに頭まで下げられ、それ以上シェイラが強く言えるわけもなく、結局こうして彼女は家に閉じこもっているのである。
ゴースト絡みの事件でありながら、何も力になれない。その歯がゆさに、シェイラは唇をかみしめる。沈痛なシェイラの面持ちから何かを読み取ったのか、クリスティーヌは眉を八の字にしたのち、あえてがらりと話題を変えてきた。
「ところで、さっきからシェイラちゃんが読んでいる本。そこには、どんなことが書いてあるの?」
「ああ、これ?」
クリスティーヌの視線に応えて、シェイラは膝に乗せた本を持ち上げる。ずしりとした重さが腕に伝わると同時に、長くしまわれていた書物特有の匂いが鼻腔をくすぐった。
「これは昔のゴースト祓いが書いた、ゴーストに関する研究記録よ。うちの書庫にはこういう本が山ほどあるの。ほら、うちのご先祖様は勘が強いひとが多いから」
「へえ……」
興味深そうにクリスティーヌが本を覗き込む。黄色く変色した紙面を撫で、シェイラは苦笑した。
「けど、ダメね。モノに憑いたゴーストのことも乗ってるけど、特効薬になりそうな新情報はないわね。カトリーヌさんとゴーストの繋がりを切るには、ブローチを彼女から取り上げるのが先決みたい」
「そっかあ」
残念そうに息を吐いたクリスティーヌは、頰に手を当てて悩ましげに首を傾げた。
「けど、怖いわねえ。身につけただけでゴーストに憑かれちゃうなんて。シェイラちゃんも祟られちゃわなくてよかったわ」
「……そのことなんだけど」
表情を曇らせて、シェイラはあの夜に起きたことをクリスティーヌに打ち明ける。エリーゼ姫の最後の言葉が、どうにも腑に落ちなかったためだ。
〝彼女とあなたは違う。だって彼女は、満ち足りているのだもの〟
あのとき、エリーゼ姫のゴーストはたしかにそう言った。つまりそれこそがシェイラが無事だった答えであり、カトリーヌを呪縛から解く鍵となる。
「……と、いうわけなんだけど、クリス姉さんはどう思う?」
すべてを話したシェイラが反応を伺って兄嫁を見れば、彼女は顎に手を当てて真剣に悩んでいた。ややあって、彼女は丸い瞳をじっとシェイラに向けた。
「カトリーヌさんは、レイノルドさんのことで悩んでいたのよね」
「そう……だと思う。あまり幸せそうじゃなかったし」
「一方でシェイラちゃんは『満ち足りて』いたのね」
「ゴースト曰く、ね」
気恥ずかしくなって、シェイラは念を推す。なぜだか、このままではとんでもない答えが兄嫁から返ってくる予感がした。
果たして、その予感は当たった。クリスティーヌはふいにぱっと笑顔の花を咲かせると、両手をぱちりと合わせた。
「それはつまり、愛の力じゃないかしら?」
「は、はい!?」
頓狂な声を上げるシェイラだが、クリスティーヌはきらきらと笑顔を絶やさない。その確信めいた表情に、シェイラは恐る恐る異議を唱えた。
「……ね、クリス姉さん? 愛の力だなんて、そんなファンシーで夢みたいな話じゃ……」
「あ。いま私のこと、ちょっぴりバカにしたでしょ?」
「そんなこと」
ないわよ、とは言い切れず、シェイラは微妙な顔をした。おとぎ話じゃないんだからと、頭の片隅でちらりと思ってしまったのは事実だからである。
するとクリスティーヌはお見通しとばかりに、くすりと微笑んだ。
「けれどね。大好きな人が、同じように自分を大好きでいてくれる。それって心が満ち足りて、とても力が湧くことだと思うの」
ね?と笑いかけられ、シェイラはぐうの音もでない。とっさに頭に浮かんだ人物を、シェイラには笑い飛ばすことはできなかった。
「カトリーヌさんは深くレイノルドさんを愛したけれど、レイノルドさんからは愛してもらえなかった。その不安が、ゴーストを呼び寄せちゃったんじゃないかしら」
「……なるほど」
その説は、すとんとシェイラの中に落ちた。
あなたさえいなければ。決して激しくはなく、けれども込められた痛みの辛さがよくわかるあの声を聞けば、クリスティーヌの言うことはあながち間違ってはいないように思える。
もし本当にそうなら、カトリーヌとブローチを引き離すだけではダメだ。ゴーストが入り込んでいる、カトリーヌの心の隙間を何らかの方法で塞がないと、また別のよくないモノを引き寄せてしまうかもしれない。
「けど、そんなことどうやって……」
顎に手を当てて、シェイラは思案に暮れる。真剣な義妹の様子に微笑んでから、クリスティーヌは空になった紅茶のティーセットに手を伸ばした。
けれども、彼女が立ち上がるより先に、執事のブラナーが書庫の戸を叩いた。彼がふたりに告げたのは、記者エディ・ハーディの来訪であった。