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8-6



 水面に映る美しい城、燃え上がる暖炉の火、橋を渡る兵の列。


 そして過ぎ去る数多の人、人、人。


 中でも、栗色の髪をした美しい顔の男がよく出てくる。跪き頭を垂れる姿や、月光が照らすバルコニーに浮かぶ甘い微笑み、そして手を引きどこかへ急ぐ背中。


 これはエリーゼ姫の記憶だと、シェイラは直観的に理解した。


 けれども、流れる光景のなかにはエリーゼ姫の物とは思えない記憶もある。目を凝らしたシェイラは、その中にどこか見覚えのある顔を見つけた。


〝なんということだ……〟


 見覚えのある身なりのいい紳士は、書斎と思われる本が壁いっぱいに詰まった小部屋のなか、席について頭を抱えて呻く。


〝何か手があるはずだ。シオン商会を立て直す、なにか手立てが……〟


 思い悩む紳士はこちらの視線に気づいていない。扉の薄い隙間から彼を眺めていた『誰か』は、そのままそっと、扉の前を離れた。


 場面が変わる。


 何かのパーティだろうか。着飾ったひとびとがグラスを手にあちこちで談笑している。


 そのなかに、先ほどの紳士もいる。こうした場にふさわしく、明るく朗らかな笑みを浮かべて、数名に囲まれて話に花を咲かせている。


 と、人の輪が途切れたタイミングで、まったく別の男が彼に声を掛ける。レイノルドの父、ピーター・ミラーだ。


 紳士は同じように朗らかに応対していたが、ある瞬間を境に興味惹かれたようにじっとミラーを見つめる。ミラーは軽く紳士の肩に手を置いて、彼を促してどこかへ行く。


 それを眺めていた『誰か』は紳士を追いかけようとするが、その前に立つ男がいた。


〝はじめまして〟


 形の良い手を差し出し、薄水色の目を細めてレイノルドが微笑む。


〝俺はレイノルド・ミラー。社交デビューおめでとう、カトリーヌ〟


 その瞬間、カトリーヌは恋に落ちた。






 くるくると景色は巡る。


 日の当たるサロンで紅茶と菓子を前に向かいあう穏やかな午後の時間。帽子で顔を隠し、ひと目を忍びながら散策した公園の花畑。柱の陰で、勇気を出してつないだ手――。


 彼には婚約者がいる。その事実を知りながらも、彼女は、カトリーヌは、どんどん強くレイノルド・ミラーに惹かれていく。


 ある日、彼女は父に打ち明ける。


レイノルドを愛している。彼と一緒になりたい、と。


 婚約者のある者を望むというあるまじき行為。その告白をすることで、彼女は父に罰せられることを願い、初恋を終わらせようとした。


 しかしながら、数日の後、レイノルド・ミラーとシェイラ・クラークの婚約が解消された。その報せはピーター・ミラーから知らされた。


〝愛し合うふたりが共になるのが今の時代ですからねえ、はい〟


 にこやかな笑みを浮かべ、両手をすり合わせながらミラーが言う。


〝今時、婚約なんて古臭い慣習です。あちらのお家とも話し合いましてね、円満に解消した次第ですよ〟


 軽い口ぶりで言いながら、ミラーは意味ありげに彼女を見つめる。思わぬ幸運に心を弾ませる彼女は、その視線に気づかない。


 けれども、頭の片隅で彼女は疑問を抱く。このところ、ミラーが頻繁に父を訪ねて商会や家に顔を出すが、一体なにをそんなに話し合っているのだろう。






 喜びに満ちた一報から一転、彼女の胸の内は仄暗い靄で黒く澱む。


 レイノルドがどこか遠くを見つめることが増えた。


 彼女の言葉に耳を傾けてくれる。微笑みを向けてくれる。それ自体は変わらないのに、彼の心が自分には向けられていないと、そこはかとない予感がじわりと胸を締め付ける。


 その不安は、ある日を境に加速する。


 彼女は確信する。彼女が愛するひとは、別の誰かを愛している。






〝嘘つき。私を愛していないのなら、そう言えばいいのだわ!〟


 父とミラー、そしてレイノルド。彼ら三人が籠って話す父の書斎に、彼女は踏み込む。彼女を訪ねてきたはずのレイノルドは、もう小一時間、会合に出席したまま出てこなかった。


 彼女が部屋に入った途端、父が何かを机の下にしまう。いまは大事な商談中だ、わきまえなさいと叱る父に、彼女は涙を流す。彼に愛されていない、愛を信じられない、と。


 そのとき、彼女を呼ぶ誰かの声がした。細く微かな、声とも呼べない囁きを頼りに目を向ければ、机の影から覗く群青色に気が付いた。


〝私を愛しているなら、そのブローチを頂戴〟


 無意識のうちに、彼女はそのように口走っていた。


〝シオン家が目的じゃないということを証明して〟


 戸惑う気配がミラーと父の間で広がる。けれどもレイノルドは机の下に手を伸ばすと、群青の宝石を中心に繊細な装飾を施したブローチを手に立上り、カトリーヌの掌に載せた。


〝カトリーヌ。君が望むなら、これは君のものだ〟


 けれど約束してと、レイノルドは彼女にブローチを握らせながら、その手を包んだ。


〝これを身に着けるときは、俺が隣にいるとき。いいね。使わないときは近くには置かず、奥深くにちゃんとしまっておくんだよ〟






 レイノルドがミラーや父よりも、自分の願いを叶えてくれた。


 その幸せを噛みしめ、彼女は毎晩眠る前に宝石を手に乗せ眺め、サイドテーブルの引き出しの中のジュエリーケースにしまう。


 大丈夫だ。彼の心に誰が住まおうが、彼は自分を選んでくれる。いずれ誰かはどこか遠くへ行き、彼は本当の意味で自分を見てくれる。


 そう言い聞かせて、彼女は夢の中へと身を躍らせる。


 しかし、意識を手放す刹那、鈴の音のような女の笑い声が響く。


 かわいそうな子。おろかしい子。


 本当は信じてなんかいないくせに。


 彼の愛は手に入らないと、とっくに諦めているくせに。


 ころころと嘲笑う声に、彼女は必死に耳を塞ぐ。怯え、固く目を閉ざしながら、彼女はひとり冷えたベッドの上で身を縮ませてきた。




 そうやって彼女は、己の心を守ってきた。

 けれどもそれは、ついに砕けて壊れてしまったのだ。




 シェイラははっと息を呑んだ。いつの間にかシェイラは倒れていた。目まぐるしく流れる光景は姿を消し、彼女の周りには何もない白い空間が広がっていた。


 起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。それどころか、指一本すら動かすことは出来ず、シェイラは無力に横たわっていた。


 気が付けば、目の前に白い女の影があった。実体を伴わない霞がかった姿はゆらゆらと揺れ、シェイラの上にのしかかっている。重さはない。かわりにひんやりとした冷たさがあって、どうしようもなく嫌な感じがした。


〝あなたさえいなければ〟


 どこか別の場所から響くような声がして、影にカトリーヌの顔が浮かぶ。目のあたりは澱んだグレーでくぼんでいて、虚ろにシェイラを見下ろしていた。


〝彼は私を、選んでくれたのに。私と結婚すると、そう言ってくれたのに〟


「おめでとう! 幸せになってね。その、どうぞ?」


 顔を引き攣らせながら、シェイラはなんとかそれだけ言った。


 カトリーヌは生きている人間だ。にもかかわらず、今まで出会ってきたどのゴーストよりも、ビシばしと『勘』に訴えるものがある。端的に言えば、非常にまずい気がする。


「私はこれっぽっちも邪魔するつもりないわ。えっと、応援するわよ……?」


 気力を振り絞って、シェイラはなんとか笑みを作る。けれども平和な交渉を願うシェイラの意志に反して、カトリーヌが解放してくれる気配はない。


 それどころかズブズブと嫌な音がして、シェイラの体にカトリーヌを形作る白い霞が沈み込み始めた。


「え、いや、ちょっと、待ってっ!?」


〝あなたも、不幸になってしまえばいいのだわ〟


 シェイラは慌てるが、白い影はどんどんシェイラの中に溶け込んでいく。それと同時に、シェイラの思考は霧がかかったようになり、あやふやになっていく。


 体を奪われる。そう思った瞬間、シェイラの脳裏にラウルの顔が浮かんだ。


「嫌! 助けて!!」


 無我夢中で、シェイラは叫んだ。


「助けて、隊長……っ。――――ラウルさん!!」


 



「ああ。いますぐに、な!」





 聞きなれた声が響いたと同時に、のしかかっていた白い影が横薙ぎに払われる。途端、シェイラを拘束していた見えざる力が去り、体が自由になった。


 急いで起き上がればシェイラは元の小部屋に戻っていて、少し離れたところにレイノルドがうつ伏せで倒れている。


 そして――目の前には、剣を構えたラウル・オズボーンの背中があった。


「シェイラ、動けるか!?」


 首だけをこちらに向けて、ラウルが呼びかける。


「はい、なんとか……」


「なら離れていろ!」


 それだけ言って、ラウルが飛び出す。


 ラウルが肉薄すると、カトリーヌ・シオンの背後から無数の白い手が飛び出す。縦横無人に駆け巡るそれらは、ラウルを摑み引き裂こうと迫る。


「だめ、危ない!」


「安心しろ」


 にやりと唇を吊り上げ、ラウルが姿勢を低くした。


「俺はこのくらいでは負けないぞ」


 ラウルが剣をくるりと回して持ち変える。瞳が鋭く赤く光り、素早く振るった剣の先々で白い手が薙ぎ払われ、霞となって消えた。


 すごい。鮮やかな剣さばきで白い手の攻撃をはねのけるラウルに、シェイラは驚き目を瞠る。その肩が、誰かによって後ろに引かれた。

  

「ご無事ですか、シェイラさん。どうぞこちらへ」


 背後から助け起こされ、振り返ればユアンがいた。ラウルから目が離せないまま、シェイラはユアンに引かれて部屋の隅に逃げた。


「ユアンさん? 隊長も、どうしてここが……?」


「この部屋だけではなく、どこも大騒ぎになっているんですよ。けど、隊長が騒ぎの発生源がこっちだと言うので」


 納得をして、シェイラは頷いた。今のカトリーヌ・シオンの周りには青い蝶が大量に舞い飛んでいる。これだけゴーストの気配が強く漂っていれば、ラウルならば難なくここを見つけることが出来るだろう。


 そのラウルだが、白い手の攻撃はすべて防いでいるものの、それ以上カトリーヌに近づけずにいる。両者必殺の一手を欠いた、均衡状態と言えた。


 と、ふたたび大量の白い手をラウルへと飛ばすカトリーヌの背後に、新たな白い霞が膨れ上がる。それは女の形となり、カトリーヌに囁いた。


〝諦めなさい。彼女はあなたでは奪えない〟


「でも……っ」


〝彼女とあなたは違う。だって彼女は、満ち足りているのだもの〟


 言われたカトリーヌが、唇をかみしめる。そして、一度大きく白い手を振ってラウルを遠ざけると、ぶわりと勢いよく霞を吹きだした。


「っ!」


 声のない悲鳴を上げるシェイラの前で、ラウルが霧に呑まれる。けれども霧が徐々に晴れると、ラウルは変わらずそこにいた。


 ほっと息を吐きあらためて確認すれば、カトリーヌと白いゴーストのほうが跡形もなく姿を消している。最初の衝撃で割れた大窓から、外へと逃げ出したようだ。


 部屋の中に満ちていたゴーストの澱んだ気配も、嘘のように掻き消えている。そのことにシェイラが気づくのと同時に、ラウルががくりと膝をついた。


「ラウルさん!」


「ラウル!!」


 思わず駆け寄ろうとするシェイラとユアンだが、ラウルがそれを片手で制す。蒼ざめた顔で冷や汗を拭った彼だが、剣を置くと、傍らに倒れるレイノルドの首筋へと手を伸ばした。


「……問題ない。気を失っているだけだ」


「どうしましょう、追いますか?」


「いや、いい」


 気遣わしげに声をかけたユアンに、ラウルが首を振る。


「対処できないほどじゃないが、あの力が厄介だ。しかも彼女が紛れたのはこの暗闇。単騎で深追いすれば、不意を突かれてこちらに犠牲が出る。代わりに街に警戒網を張れ。ゴースト憑きとはいえ相手は人間だ。我々憲兵隊で、捕らえることが出来る」


「はっ」


 胸に手を当てて、ユアンは一礼する。彼は心配を滲ませた表情でちらりとラウルを一瞥したが、『副隊長』として与えられた任務の遂行が先だと判断したらしい。くるりと背を向けると、颯爽とした足取りでどこかへと急いでいった。


 砕けたガラスが散らばる室内に、ラウルとシェイラ、そして伸びて動かないレイノルドが残される。


 気分が悪いのか、ユアンがいなくなった途端、ラウルは座り込んだまま口元に手を当てている。よく見れば、その手は小刻みに震えていた。


 考えてみれば当然だ。エリーゼ姫のゴーストは、幼い日の彼にトラウマを植え付けた張本人(?)だ。その彼女と、ラウルを対峙させてしまった。自分が勝手に、先走ったばかりに。


「ごめんなさい」


 考えるより先にシェイラは頭を下げていた。ゴーストのこと、カトリーヌのこと……そして、レイノルドとのこと。自分の無責任な行動により引き起こしてしまった事柄のすべてが、ただひたすらに面目なかった。


 ラウルからの返事はない。シェイラには背を向け、何かに堪えるように俯いている。


 おそらく彼の身体は血の気が引き、凍えているはずだ。その背中に触れ、温めることが出来たなら、とシェイラは思う。けれども、今の自分にその資格はない。


 頭が回り、捜査のエキスパートであるラウルは、ここで何が起き、なぜカトリーヌがシェイラを襲ったのか大まかな想像がついているに違いない。そんな彼が、シェイラが触れることを許してはくれないはずだ――――。


 その時、シェイラの耳に小さな嘆息が響いた。


「たしかに、言いたいことはある。色々と、な」


「だが……」と言いながら、ラウルは立ち上がる。その体が揺らぎ、とっさにシェイラは手を伸ばしてしまう。しかしその手を逆に引かれ、シェイラは彼の胸へと飛び込んだ。


 ラウルはシェイラの両頬を手で挟んで逃げられないよう固定すると、若干生気の戻った顔でシェイラを覗き込み、睨んだ。


「怪我……は、なさそうだが、どこか痛めてないか? 気分はどうだ? 少しでも不調があれば言ってくれ。城勤の医務官なら、呼べばすぐ来るはずだ」


 疲れたように、しかしながら矢継ぎ早に話すラウルに、シェイラは目を丸くする。真剣に己を見つめる視線を受けきれず、瞳を彷徨わせシェイラはぽつりと答えた。


「……怒って、いないんですか?」


「怒っている」


 決して激しくはないのに、ピリリと響いた厳しい声。それにシェイラはびくりと肩を震わせた。けれども続いて届いた感触は、後頭部に触れる大きな手のひらと、そっと彼女を包む彼のあたたかさだった。


「それ以上に、心配している」と、ラウルは呻くように言った。


「遅くなって悪かった。……怖い、思いをさせたな」


 胸がきゅっと締め付けられ、シェイラはラウルの胸の中で俯いた。


 先走ったのも自分。危機感が足りなかったのも自分。すべてシェイラの自業自得だ。


 それでも彼は、シェイラを案じてくれるのか。側にいられなかったと、自分を責めてしまうのか。


「――シェイラ?」


 ほんの少し動揺を含んだ声が、ラウルから漏れる。そんな彼をシェイラはじっと見つめた。先ほどより顔色はずっとよくなり、赤い瞳は戸惑いつつも真っすぐにシェイラを見下ろしている。


 彼の頬に触れると、ラウルが僅かに目を瞠った。それでもシェイラはもう片方の手をさらに伸ばし、両手で彼の頬を包む。シェイラはゆっくりと瞬きをしてから、精一杯背伸びをしようと――――。


「………う、ううん」


 レイノルドのうめき声に、シェイラはラウルから飛ぶように離れた。お互いに視線の交わらないまま、シェイラは髪を撫で、ラウルは所在なさげに首の後ろを撫でる。結局、レイノルドは僅かに身じろぎしただけで、目を覚ましはしなかった。


「……わかったことがあるんです」


「わかったこと」


 空気を変えようとシェイラが口走れば、ラウルがオウム返しをする。それを幸いに、シェイラはさらに続ける。


「隊長が助けてくれる前に色々見たんです。レイノルドのお父さんのこととか、あのブローチをレイノルドがカトリーヌさんに渡すところとか」


「なるほど」と、ラウルは己を納得させるように、何度か頷いた。


「それは……聞かなきゃならないな。色々と」


「そうですよ、色々と」


 シェイラが深く深く頷いて見せれば、ラウルが一瞬、恨めし気に彼女を睨んだ。けれども、大広間のほうでもざわつきが大きくなってきたせいか、ちらりと廊下を気にしてから、盛大に溜息をついた。


「いいだろう」と、ラウルはくいと親指で廊下を差した。


「場所を移すぞ。その『色々』とやら、じっくり聞かせてもらうぞ」




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