8-5
レイノルドがシェイラを連れて入ったのは、舞踏会の大広間からそう遠くない場所にある小部屋だった。通路沿いにはほかにもいくつか部屋が並んでいる。レイノルドは見張りと思われる男とほんの少し話したのち、一番突き当たりの部屋へと彼女を誘った。
室内の装飾はシンプルだが、さすが宮廷のものだけあって美しい。センスのいいソファや机、暖炉が備え付けられ、庭園にも出られる大きな窓がある。
レイノルドが壁に備えられた照明に火を灯していく。それをぼんやりと眺めながら、シェイラはとりあえずソファに腰掛けた。
「ねえ、レイノルド。入ってしまってから言うのもなんだけど、この部屋、勝手に使ってよかったの?」
見たところ重要なものは置いてなさそうだが、ふたりそろって憲兵隊の厄介になるのは御免である。そう思って尋ねれば、レイノルドはマッチを擦る手を止めずに首を振った。
「勝手に、じゃない。さっき、ちゃんと話したよ」
「……それは、見ていたけど」
釈然とせず、シェイラは黙りこくる。するとレイノルドは灯りをすべて付け終えてから、シェイラの隣に腰掛けた。
「大丈夫。ここは、舞踏会の客人用に城が用意した部屋のひとつ。外の見張りに断ったあとなら、少しの間貸してもらえる」
「そんな部屋があるの?」
「うん。ちゃんとした社交場なら、用意していることが多い」
レイノルドはきっぱり頷く。それでシェイラは合点した。
そういえば以前も、酔いが回りすぎたゲストが一旦退出したあと、いくらか時間が経ったあとに戻ってくるのをみたことがある。そういった不測の事態のために、ホスト側が休める場所を用意しておくのだろう。
だが、そのとき、シェイラの頭のなかに不穏な記憶がよぎった。
「……恋愛小説とかを読んでいると、主役二人はしょっちゅう舞踏会を抜け出してふたりきりになるわね。庭園のこともあるけど、こういう小部屋にいることも……」
途端、レイノルドがすっと目を逸らした。
「やっぱり! こういう小部屋って、その、逢引きの現場になる部屋よね!?」
「落ち着いて、シェイ。本当にそういう使い方をするひと、ほとんどいないから」
「そうだろうけど! もちろんそうだろうけど!」
頭を抱えて、シェイラはげんなりと肩を落とす。あまりに馴染んだ相手すぎて、異性としての意識が完全に欠落してしまっていた。とはいえ、うっかり着いてきてしまった自分も自分だが、平然と誘うレイノルドも大概と言えるだろう。
怒るのも馬鹿馬鹿しくなって、シェイラはソファの背に身を預けた。
「ほんとに、もう……。少しは気にしなさいよ。今夜は仮面をつけているからマシだけど、誰かに見られて変な誤解をされたら面倒くさいんだからね」
「しょうがないよ」
ふいに強い口調で被せてきたレイノルドに、シェイラは瞬きをして隣を見た。
「シェイと、話をしたかった。――誰にも邪魔されないで、ちゃんと、話したかったんだ」
「レイノルド……?」
白い仮面の奥で、薄水色の瞳が苦しそうに揺れている。こんな幼馴染の姿は、初めてだった。
このまま、一緒にいるべきじゃない。そんな直観が、閃光のように頭のなかを駆け巡る。閃いた直後、彼女は幼馴染から距離を取ろうとした。
「やっぱり、別のところで話さない? ここじゃなんだか、落ち着かなくて」
「行かないで」
ひゅっと息を呑んで、シェイラは全身を強張らせた。背後から、レイノルドに抱きすくめられたからだ。
とっさに腕のなかから抜け出そうと、彼女は暴れた。けれども細腕のくせして、シェイラを捕らえるレイノルドの力は強い。
「離して、何するの!?」
「あいつと来たんだね、シェイ」
耳元で響いたいつもより低い声に、シェイラは思わず抵抗するのをやめて耳を傾けてしまう。その隙にレイノルドはシェイラの顔から仮面を取り去り、肩に顔を埋めた。
「あいつと踊るシェイを見たよ。とても幸せそうで、綺麗だった。……俺には見せたことがない顔を、あいつに向けていた」
「ねえ、本当にどうしちゃったの? 今日のあなた、なんだかおかしいわよ」
「おかしいよ。あの日からずっと。シェイが、あいつといるのを見てから、ずっと」
あいつ、というのはラウルのことだろう。すると、レイノルドはパティスリーでの一件のことを言っているのだろうか。
「シェイ、俺、間違っていた」
シェイラの肩に顔を埋めたまま、くぐもった声がつづく。
「シェイとは、何があっても一緒にいられると思ってた。会えないのは最初だけ。落ち着けば、また前みたいに会えるって」
けど、そうじゃなかったと。
レイノルドはポツリと呟いた。
「手紙を届けることも、会いに行くことも許してもらえなくて。偶然。偶然、やっと会えたと思ったのに、シェイはあいつといて……。怖かった。もっと遠く、ずっと遠くに、シェイがいなくなっちゃうみたいだった」
はじめてレイノルドの「お願い」を拒絶し、ラウルを選んだときのことがシェイラの頭をよぎる。あのとき幼馴染は、ひどく傷ついていたように見えた。
「やだよ、シェイ。このまま、シェイと離ればなれになるのはいやだ」
シェイラが何も答えられずにいる間にも、レイノルドの独白は続く。
「俺はシェイとこの先、ずっと先の未来まで一緒にいたい。シェイにとって俺は、そうじゃないの?」
硬く回された腕と、ぎゅっと結ばれた細い指。切ない響きはふたりきりの部屋にすとんと落ち、いまは震える呼吸だけが残る。
まるで舞台の一幕のようだ。若い恋人たちは世の流れに抗えずに引き裂かれ、ただ相手を想い涙する。しかしながら熱い炎は消えず、より一層互いを求め合う――。
「……冗談、言わないでよ」
ラブロマンスに相応しくもなく、不穏な気配を漂わせてシェイラが呻る。レイノルドがおかしいと思った時にはすでに遅く、シェイラは渾身の力を込めて幼馴染の腕を抜け出して仁王立ちすると、びしりと指を突きつけて目を吊り上げた。
「黙ってきいてりゃ、いけしゃあしゃあと。あなたね、なに寝ぼけたこと言ってるのよ!」
「シェイ?」
表情に乏しい幼馴染にしては珍しく、薄水色の瞳が動揺に泳ぐ。だが、怒れるシェイラはそんなことじゃ容赦しない。「いい?」とまるで家庭教師のように指を立てた。
「私たちが疎遠になったのはね、レイノルド。あなたが婚約破棄をしたからよ、こ・ん・や・く・は・き! それも突然、一方的に! 常識的に考えて、今まで通りの関係が続くわけないでしょ!?」
「でも……」
「でも、じゃない!」
ぴしゃりと遮れば、びくんとレイノルドが肩を揺らす。それに盛大にため息をつきつつ、シェイラは腕を組んだ。
「それでもね、仕方ないと思ったの。レイノルドって、昔から何にも執着しないじゃない。そのあなたに、そこまでさせるほど好きなひとが出来たなら、むしろおめでたいことだって。なのに、今のは何? こんなことして、カトリーヌさんに申し訳ないとか思わないの!?」
するとレイノルドは、何かを堪えるように唇を噛んだ。落とされた視線には後悔の色が滲んでみえて、シェイラは小さく首を傾げた。
けれども次の瞬間、素早く立ち上がったレイノルドがシェイラを捕らえると、再び細腕の中に閉じ込めた。無表情に近い整った面立ちのなか、薄水色の瞳だけが思い詰めたように仄暗く光っていた。
「俺は本気だよ。シェイを取り戻すためなら、何でもする。……カトリーヌとも別れるよ。みんなには、ちゃんと俺の言葉で話すから」
「ばっ、あなた、何を言って……!」
「俺が何にも執着しないって、そう言ったね」
冷たい指がシェイラの頬をなぞって顎へとたどり着き、少しだけ上向くように促す。シェイラが見上げる先で、レイノルドが皮肉げに唇をゆがめた。
「俺はいま、すごくシェイに執着しているよ」
レイノルドの整った顔が、ゆっくりと近づく。呆然とそれを受け入れてしまいそうになっていたシェイラは、けれども最後の瞬間、ちりりと焼き付く赤を――シェイラを待つと言ってくれた強くも温かな赤い瞳を、瞼の裏に思い浮かべた。
「やめて!!」
「っ!」
どんと強く胸を突き飛ばし、シェイラは幼馴染を拒絶した。
ほんの少し腕の力が緩んだすきに、シェイラはレイノルドの腕から逃げ出す。距離を取って向かい合えば、レイノルドは途方にくれたように手を半端に掲げた。
「シェイ……っ」
「ごめん、レイノルド」
固い声音は、ふたりの間に重苦しく落ちる。頑なに顔を背けたシェイラの姿に、レイノルドの手は小刻みに震え、それからゆっくりと降ろされた。
息も詰まるような沈黙ののち、レイノルドは小さく息を漏らす。それから彼は、口を開いた。
けれどもその声は何者か――この部屋にはいないはずの、細くはかなげな声に遮られた。
「かわいそうなひと」
冷水を浴びせられたかのような冷気が全身を駆け巡り、シェイラはその場で硬直した。
この部屋に扉はひとつだ。そのたったひとつの扉を背に、シェイラは立っている。そして、この部屋の扉はふたりが入ってからは一度も開かれていない。にもかかわらず、その『誰か』の声はレイノルドの背後――部屋の最奥の暗がりから、冷ややかに響いた。
「大切なものは、失ったあとで初めて気づくと昔からいうけれども。かわいそうなひと。おろかしいひと。……けど、本当に救いようがないのはあなたじゃない」
動けずにいるシェイラの視線の先で、暗がりのなかに青白い細面が浮かび上がる。風もないのに銀糸に似た長髪がゆらゆらと闇のなかを揺らめき、その周りで影が蠢く気配がした。
「そんなあなたに愛を期待する、私なのだわ」
次の瞬間、足下から強い衝撃がシェイラたちを襲った。同時に激しい破壊音がして、窓ガラスや飾り棚の戸、中にあった食器といったあらゆるものが砕け、弾けた。
四方から降り注ぐ破片の雨に、シェイラは身を縮めて固く目をつむる。だが、いつまでたってもバラバラと破片が落ちる音がしない。恐る恐る目を開けた彼女は、そこで信じられない光景を見た。
「レイノルド……!」
「待っていたのに」
淡々と、しかしながら深い悲しみの響きを乗せて、女は空虚な瞳でレイノルドを――白い霞のようなものに縛り上げられ宙に浮かぶ彼の姿を見上げる。
浮かぶのはレイノルドだけではない。窓ガラスの破片、先ほどシェイラたちが座っていたソファ、テーブル。あらゆるものが、何か見えざる力により浮かんでいる。
「薄々気づいていたわ。あなたの中に、私では越えられないひとがいることに」
青白い顔の女――カトリーヌ・シオンがゆっくりと暗がりから姿を現し、レイノルドの頰にそっと触れた。
「それでも、あなたが選んでくれるなら。違う部分で、愛してくれるなら。あなたのなかで、私が一番になる。そんな日を、ずっと夢見ていられた」
拘束する力が強まったのか、レイノルドが苦し気に吐息を漏らす。
ここまでのことが起きているというのに、ゴーストの気配を示す青い蝶はどこにも見当たらない。それどころか、これらの現象を引き起こしているのは生身の人間だ。シェイラは混乱しながらも、この禍々しい力の発生源を探した。
「教えてよ。どうすれば私を愛してくれるの。いつまで待てば、あなたの一番になれるの」
「カト、リー、ヌ……っ」
体中を締め付けられながら、震える手でレイノルドが手を伸ばす。
その指が示す先――カトリーヌ・シオンの胸元に光る青い宝石飾りに目を向けて、シェイラははっと目を見開いた。微かではあるがブローチは青白く輝き、蝶の鱗粉のようなものをふわふわと周囲に漂わせていた。
シュタット城から持ち出された、いわく品。そのなかには間違いなく、エリーゼ姫の遺品もあるはずだ。
ブローチをカトリーヌから遠ざけなければ。直感的に、シェイラはそのように悟った。
けれども彼女が行動に移ろうとしたそのとき、カトリーヌ・シオンがシェイラへと顔を向けた。白目が不自然に消え歪に暗く染まった目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「――――あなたさえ、いなければ」
「っ、ダメだ! シェイ……っ!!」
レイノルドの焦った叫び声は、しかしながら間に合わなかった。
カトリーヌ・シオンの手の先から白い霞が飛び出す。身じろぎひとつする間も与えず影は勢いよく迫り、シェイラの胸を貫いた。
眠気にも似た浮遊感が体を襲い、視界からカトリーヌとレイノルドの姿が消えた。変わりに映った天井に、自分は倒れてしまったのだと、漠然とそのことを悟った。
そうしてシェイラは、重くなる瞼をゆっくりと閉ざし――――。
閃光のように降り注ぐありとあらゆる光景の暴流に、驚き目を見開いたのだった。