8-2
宮廷楽師たちが奏でる美しい調べが、高い天井に響き渡る。その中に集まる着飾った人々は、思い思いの仮面で顔を覆っている。その不思議な光景は、まるで芝居の世界に紛れ込んだかのようだ。
「本当に、みんながみんな、顔を隠しているんですね」
ウェイターからシャンパングラスを受け取ったあとで、シェイラはそのように感心して溜息をついた。客人たちだけでなく、ウェイターや楽師たちまで、仮面をつけていたからである。
「そういう宴だからな。客人以外も仮面をつけることで、世界観を守っているんだろう」
言いながら軽くシェイラのグラスにあてて、ラウルはグラスを傾ける。実に慣れた、様になる姿だ。
会場をよく見ると、中央はダンスを踊る人々のために開かれているが、それ以外の場所には台の上に大皿が並び、見た目も楽しい軽食が山ほど用意されている。そういったスタイルは、ほかの舞踏会と同じらしい。
仮面舞踏会としての特別なルールがないことを確認したシェイラは、隣のラウルに倣い、自身のグラスに口をつける。するとふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、シェイラは思わず声を弾ませた。
「隊長! これ、すごく美味しいです!」
「それは良かった」
無邪気に喜ぶシェイラを、ラウルが目を細めて見守る。と、彼はすぐ脇を通ろうとした別のウェイターを引き留め、小皿にのったフィンガーフードを受け取った。
自分で食べるのかと思いきや、ラウルはそれをシェイラの前に差し出した。
「記憶が正しければ、これも相当うまい。食べてみるか?」
「いいんですか? ありがとうございます」
シェイラはありがたく皿を受け取ろうとしたが、なぜかラウルはさっと避ける。彼はフィンガーフードを指でつまみ上げると、改めてシェイラの前に出した。
ラウルは、悪戯っぽく唇を吊り上げた。
「ほら。口を開けて」
「え?」
自分は聞き間違いをしたのだろうか。そう思ってラウルを見上げるが、彼は愉快そうにシェイラが口を開けるのを待っているだけ。それで、シェイラは彼が本気だと理解した。
途端、シェイラは頬を染めて視線を彷徨わせた。
「あ、あの」
「どうした? そう恥ずかしがるようなことでもないだろう?」
ラウルの声に、明らかに面白がっている色が混じる。シェイラが慌てふためくのを見て、楽しんでいるのだ。
悔しくなったシェイラは、意を決して目の前の食べ物にぱくりと食いついた。
「……おいしい、です」
「だろ」
ラウルは満足そうににっと笑った。そして、何かに気づいたようにシェイラの口元に手を持っていくと、そっと指で拭った。
「慌てすぎだぞ」
ちろりと赤い舌をのぞかせて、ラウルが指についたクリームを舐める。それを見たシェイラは、いよいよ顔から火が出そうになって俯いた。
「恥ずかしいですよ、もう……」
「せっかく来たんだ。時間も存分にあるし、楽しまなきゃ損だろ?」
「そうですけど、隊長、なんか変です。まるで浮かれているみたい」
「かもな」
空になったグラスをシェイラから取り上げて、自分の分と合わせて近くの机の上に置く。そして彼は、ちょうど前の曲が終わったダンスホールへとシェイラを誘った。
「浮かれるさ、俺も」
腰に手を回して、反対の手は固くつなぐ。そうやってダンスの姿勢を整えてから、ラウルはシェイラを見下ろし微笑んだ。
「これほどまでに愛しいと思える女と、初めて舞踏会に来たんだ」
鮮やかな旋律が流れ出し、シェイラはラウルに引かれて踊りだす。
ひさしぶりの感覚に、シェイラの体にはさっと緊張が走る。だが、ラウルは少しも動じない。巧みに、軽やかに、彼女の呼吸のリズムに合わせてシェイラを導き、少しずつ強張りをほどいていく。
「俺だけを見るんだ、シェイラ」
くるりと回ったところで、シェイラの耳元に顔を寄せてラウルは囁いた。
「俺の瞳に映るのも、お前しかいらない」
ぱっと赤い薔薇のようにドレスが花咲き、ラウルがシェイラを導いてターンをした。
その息のあったダンスに魅せられ、誰からともなくため息が会場に満ちる。けれども、そうした賛美の声すら届かないほど、シェイラは目の前の男に引き込まれていた。
彼がいて、自分がいる。
それ以上でもそれ以下でもない世界は心地よく、堪らない幸福感でシェイラを包む。緊張で強張っていたはずの彼女の顔は、いつの間にか笑顔で輝いていた。
曲が終わり、シェイラたちが互いに紳士淑女の礼を取ったとき、ダンスホールにはふたりを称賛する拍手が鳴り響いた。尚、舞踏会でこうした拍手が起こるのは、滅多にないことである。
我に返ったシェイラは驚きながらも、隣のラウルと共に観衆に向けてもお辞儀をする。そして再び彼に手を引いてもらいながら、ホールの隅へと移動した。
ちょうど空いていた席に、ふたりは並んで腰かける。そうやって落ち着いても、シェイラの胸の鼓動はどきどきと弾んでいた。
「どうだ、ひさしぶりの舞踏会は?」
ゆっくりシェイラの髪を撫でながら、ラウルが尋ねる。
「やっぱり慣れないか?」
「緊張はします。けど……」
口をつぐんで、シェイラは己の胸に手を当てる。
――仮面で顔を隠していることによる開放感は、間違いなくあるだろう。シェイラがこれまで社交の場を苦手としてきたのは、噂の霊感令嬢に好奇の目線を向ける者が少なからずいたからだ。だが今夜は幸いにも仮面のおかげで、誰もシェイラの正体に気づいていない。
だがそれ以上に、隣の男の影響が大きいだろうとシェイラは思う。
何事にも無関心なレイノルドとは違う。ラウルはパートナーに向けられる不躾な視線に間違いなく気づくだろう。気づいた上で、鼻で笑うのだ。
決して揺らぐことのない彼の強い愛情は、超がつくほど鈍感なシェイラの心にもしっかり届いていた。そしてそれは、どんな盾よりも強い安心感を彼女に与えていた。
「楽しいです、すごく」
ふわりと花開くように、シェイラは微笑んだ。
「隊長と一緒にこれて、よかったです」
その一言に、ラウルはぱちくりと瞬きをする。
続いて、なぜだか拗ねたように視線を逸らした。
「……お前は本当に、無自覚に俺を煽るのが上手い。あまり期待させるな。俺がどれだけ、我慢していると思っている」
「誤解ですよ! 私は別に、煽ってなんか……」
「わかっているよ。どうせ惚れた弱みだ」
諦めたようにため息を吐いて、ラウルは苦笑を浮かべる。どうやら怒ったわけではなさそうだ。
けれども彼はふと表情を引き締めると、赤い双眼でシェイラをまっすぐに見つめた。その瞳はシェイラをそわそわと落ち着かない心地にさせたが、いつにない真剣な様子に目をそらすこともできない。
そのまま彼は、ゆっくり切り出した。
「教えてくれ、シェイラ。お前はいま、俺のことを……」
と、そこで、彼らに声を掛ける者がいた。
「ブラーボ。お見事でしたねえ、お二方」
声を掛けてきた男に、シェイラははじめ首を傾げる。けれども、その特徴的な話し方には聞き覚えがあった。
「もしかして、エディさんですか?」
「もしかしなくたって、あたしですよ。お嬢さん」
けろりとエディは頷く。その仕草も声も間違いなく彼だ。だが、いつもはぼさぼさの長い前髪は後ろでさっぱりと結わえられ、服装も華やかとまではいかないが小綺麗にまとまっている。声を掛けられなければ、シェイラのほうからは気づけなかっただろう。
「エディさんも来ていたんですね。というか、よく私たちがわかりましたね」
「そりゃあ、もう。あれだけ幸せオーラ全開に踊られれば、自然と目も留まるもの。隊長に、シェイラさんのドレスの色も伺っていましたしね」
「結局、どんな手を使ってここに入ったんだ?」
「聞くのは野暮ってもんですよ。引く手あまたとはいきませんが、こんなあたしのことでも可愛がってくださる方がいる。それだけの話でして」
「なんでもいいが、面倒ごとは起こすなよ」
やれやれと首を振るラウルに、エディは無言でにやりと唇を吊り上げる。どうやら深く聞かないほうが良さそうだなと、シェイラもなんとなく察した。
「それで」と、ラウルが声を低くした。
「例のゴーストの調査、何か進展はあったのか?」
「もちろんです。それをお話ししに来たんで。ですが……」
ふいに言葉を区切って、エディがシェイラの肩越しに誰かを見る。
つられてシェイラが振り返ると、人々の間を縫ってひとりの男がこちらに向かってくるのが見えた。彼もまた仮面をつけていたが、緩やかに肩に垂れた三つ編みによって、シェイラにもすぐに正体がわかった。
「ユアンさん!」
「おひさしぶりです、シェイラ嬢。とてもお綺麗ですよ。……ああ、大丈夫ですよ。隊長から、お二人のことは伺っています」
胸に手を当ててお辞儀をした彼は、にこりと微笑んだ。それから彼は、すまなそうに表情を曇らせた。
「すみません。美しい宴の夜をお邪魔するつもりはなかったのですが……。そちらの方も、お話しの途中で申し訳ありません」
「いえいえ。あたしのことは、気にしないでください」
エディはにこやかに、ひらひらと手を振る。対してラウルは若干嫌そうにユアンを見上げた。
「何があった?」
「それが……」
ユアンが身を屈めて、口元を手で隠しながら何やらラウルに囁く。全て聞き終えると、ラウルは仕方なさそうに嘆息した。
「なるほど。さすがに、聞かなかった振りが出来る相手じゃないな」
「当たり前です。何言っているんですか」
「すまない、シェイラ」
ユアンの小言を聞き流して、ラウルはシェイラに向き直った。
「少しだけ席を外す。あまり長くは掛からないだろう。悪いが、こいつとここで待っていて欲しい」
「あたしがどっかいかない前提なんですね。まあ、いいですが」
さらりと口を挟んだエディのことも、ラウルは華麗に聞き流す。かわりに彼は、シェイラの手に大きな手を重ねた。
「心細いかもしれないが、待てるか?」
しばらく社交界離れをしていたシェイラのことを、彼は気遣ってくれているのだ。そのことに胸が温かくなったシェイラは、はにかみながら首を振った。
「ありがとうございます。私は大丈夫ですから、気にせず行ってきてください」
「ん」
ふっと笑みを漏らして、ラウルが仮面の奥で穏やかに目を細める。そしてシェイラの手を持ち上げると、軽く口づけを落とした。
シェイラはどきりとして、その場で固まる。ラウルはそれを満足そうに一瞥してから、ひらりと立ち上がった。
「イイ子で待っててくれ。俺以外の男にはなびくなよ」
「はやく行ってください、バカ!」
しどろもどろに動揺しつつも、シェイラはラウルを睨み上げる。
ラウルは愉快そうに笑ってから後ろ手を振り去っていく。その背中を、呆れた目をしたユアンも追いかけた。
完全にふたりの姿が見えなくなったところで、シェイラの隣にエディがちょこんと腰掛ける。奇妙な沈黙が続くこと数秒後、エディがくるりと顔を横に向けた。
「お熱いことで」
「やめて?」
まったく。あとに残されるほうは、たまったもんじゃない。
そのように内心泣きながら、シェイラは両手で顔を覆ったのだった。