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ふらふらと花びらのように飛ぶ蝶を、シェイラは小走りに追いかける。何人かとすれ違ったなかで、時々、彼女がシェイラ・クラークだと気づいた者が、ぎょっとしたような顔をする。中には、「おい、まさか」「何かいるのかよ……」などと囁く者もいた。
うるさいな、とシェイラは内心で返す。
いるもんはいるんだから、仕方ないじゃないか。
青白い光の尾を引く蝶を追っていくと、入り口へと続く豪奢な階段へたどり着いた。開演前は大勢の人が歩いていたこの場所も、今は人気がない。蝶はそのまま、手摺りの影へと吸い込まれていった。
それまでスタスタと迷いのない足取りで歩いていたシェイラは、一度立ち止まり、注意深く耳をすませた。すると微かな――本当に微かで、消えてしまいそうな鳴き声がした。
大丈夫。この子は安全だ。
確信を持ったシェイラは手摺りへと近づき、覗き込んだ。そして、見つけた。
階段の中腹あたり、隅に縮こまるまだ幼い子犬。しかしながら、淡く輝くその身体は透き通り、柔らかそうな毛並みの奥に赤いカーペットの色がうっすらと見える。おそらく今夜、王立劇場に居合わせた者のなかで、シェイラだけがその姿を見ることが出来る存在。
幽霊。一般に彼らは、そう呼ばれている。
(この子のどこが、怖いっていうのかしらね……)
クーンと子犬が鼻を鳴らし、つぶらな瞳でシェイラを見上げる。それに「よしよし、いい子ねー」と破顔して、すぐとなりにしゃがみ込んだ。
これがシェイラの特殊な事情。シェイラは生まれつき『勘』が強く、ゴーストの存在をかぎつけ、その姿をはっきり見ることが出来るのだ。
『勘』持ちは、たまに生まれてくる。特にクラーク家はその傾向が強く、その昔はゴースト祓いもそこそこ出した。けれども最近は血が薄まっており、強い『勘』持ちは滅多に現れない。そんななか、一族の歴史をさかのぼってもずばぬけて『勘』の強いシェイラが生まれたのは、ほとんど奇跡に近いそうだ。
クラーク家のひとびとは、『勘』持ちにもゴーストにも慣れている。だけど、ふつうのひとはそうじゃない。ついでにいえば、「そこに見えない何かがいる」というのがわかってしまうのは、とても薄気味悪くて怖いことなのだろう。
だからクラーク家以外のひとは、シェイラを「ちょっと変わったひと」と遠巻きにする。積極的に絡んでくる人間がいたなら、それはゴースト祓いの勧誘とかだ。
そんな環境で育ったから、シェイラは貴族の娘でありながら、ひと付き合いを面倒くさがる出不精になった。いや、今回のように興味を引かれることがあれば出かけもするが、基本的には恐々と様子を窺ってくるような人間ばかりの社交界には顔を出したくない。
そういえば、ゴーストへの慣れという意味ではレイノルドは楽だったなとシェイラはふと思い出す。
幼い頃からシェイラと親交があったためだろう。レイノルドは必要以上にゴーストを恐れたり、婚約者が強い『勘』持ちであることについて気にした素ぶりはなかった。そもそもがぽやーっとした性格で、感情の揺れ幅が極端に少ないせいもあったかもしれないが。
(あそこまで無関心じゃなくてもいいけど、気にしないひとがいればなあ……)
そんなことを考えながら、シェイラは子犬の体をなでる。といってもゴーストに実体はないから指先がひんやりするだけだ。
結婚願望もこれといって強くないし、このまま気ままな独身生活を送れると思えばそれはそれで楽しみだ。けれどもある意味、せっかく自由の身になったのだ。年頃の娘らしく、きゃっきゃうふふな恋物語への憧れがないわけではない。これだから乙女心は複雑である。
と、そのとき、子犬が甘えた鳴き声を出し、シェイラにすり寄った。コロコロとした体で戯れる姿は愛らしいとしか言いようがなく、シェイラは他人の目がないのをいいことに思いっきり破顔する。
「よしよしよしー。お前はほんとうにかわいいねー」
撫でるたびに、子犬は気持ちよさそうに目を細める。そこにはもう、先ほどまでの心細そうで、寂しそうな姿はない。
すると、子犬の身体から小さな光の粒が浮き上がってくる。きらきらと輝くそれらは小さな身体から次々に起こり、上へと昇っていく。完全に光に飲み込まれてしまう刹那、子犬は嬉しそうにワンと一声鳴いた。
「バイバイ」とシェイラは手を振る。「あっちでは迷子にならないようにね」
そうして、子犬は消えた。
彼方の世界へ旅立ったのだと、母の言葉を借りればそういうことだ。
んーっと、声にならない声を上げて、シェイラはしゃがんだまま伸びをする。これで一仕事終了だ。迷子の可哀そうなゴーストは、無事に行くべきところへ旅立った。
さて、自分もそろそろ、ホールへ戻るとしようか――――。
そのとき、ダンッと大きな音が響いて、何者かが階段の上段へ飛び込んできた。
上のほうから響いた大きな音に、シェイラは思わず飛び上がった。慌てて顔を上げた彼女は、さらに「ひっ」と声を漏らして竦みあがった。
そこには、鬼神がいた。否、うっかり鬼神と呼んでしまいたくなるような気迫を纏った男が、恐ろしい形相でこちらを見下ろしてた。
身なりのいい男だ。纏う服はどうみても上質の素材だし、ピアスなどの装飾品も一級のもの。そして何より、竦みあがってしまうほどの威圧感を放っているものの、男はとんでもない美丈夫だった。
(誰、だっけ?)
あまり社交界に顔を出さないシェイラは、貴族の顔を覚えるのが得意でない。そんな彼女でさえ、なんとなく見覚えがある。気がする。
目つきは鋭いもののルビーのような深紅の瞳は魅惑的で、見る者をどうしようもなく惹きつける。何より、上流貴族としての風格と、ただ上品なだけの男ではないと感じさせる野性味とが同居する矛盾が、彼に圧倒的な存在感を与えている。
こんなにも派手なオーラを纏った男を見逃すはずがない。見たところの印象や、さきほどシェイラもいた中流貴族の集うラウンジで見かけなかったことから、おそらく上流貴族の家のものなのだろう。
「おい」
「ひゃいっ!」
呼びかけながら一歩を踏み出した男に、シェイラは思わず変てこな悲鳴を上げてしまう。仕方がない。何せ男は、今にも切りかからんばかりの殺気を全身から放っているのだから。
そんなシェイラの様子に、男もしまったと思ったのだろう。気を取り直すように軽く頭を振ってから、先ほどよりは幾分和らいだ声音でもう一度話しかけてきた。
「そんなに怯えるな。聞きたいことがあるだけだ。この辺りで何か、妙なものを見はしなかったか? もしくは音か」
「妙なもの、ですか?」
「何もないならいいんだ。それに越したことはないんだからな」
まさしく、その〝妙なモノ〟の相手をしていたためにシェイラは戸惑ったのだが、男は別の意味に捉えたらしい。勝手に納得をして、劇場のほうへとクイと首を傾けた。
「引き留めて悪かったな。もうホールへ戻れ。ここはあまり……まあ、気配は消えたが……非力な女がひとりでいるべき場所じゃない。席はどこだ。そこまで送ってやろう」
そう言うと、返事も聞かずに男はさっさとホールへと長い脚を向けてしまう。しかしシェイラは、彼の背中を追いかけるかわりに叫んだ。
「あの‼」
「何だ?」
立ち止まった男は、振り返って腕を組む。
吸い込まれそうな深紅の瞳に見据えられて、シェイラはそわそわと落ち着かない心地がした。今更のように、男の整った容姿にあてられたからではない。いや、もしかしたらそれも原因の一部だったかもしれないが、主な理由はそこではない。
もしかして。もしかすると。
期待と好奇心に突き動かされて、シェイラは思い切って先を続けた。
「もしかして、あなたも見えるんですか?」
「……は?」
「だから、あなたも……」
繰り返しかけてシェイラは口ごもる。そして、羞恥のために顔を真っ赤にした。違う。男の訝しげな顔を見ればわかる。自分は、勘違いをしたのだ。
「し、失礼しました! なんでもないんです‼」
「あ、おい! 待て!」
いたたまれなくなったシェイラは、とっさに男の横をすり抜けて逃げ出した。そんな彼女の背中に、男の声が追いすがる。それでも彼女が足を止めずにいると、ちょうど開幕のベルが鳴り、時間が残されていないことを告げた。