【幕間】副隊長の受難
鬼神隊の日報は、主に副隊長であるユアンがまとめている。
別段、副長がやる仕事と決められているわけではないが、腕に覚えのある曲者ぞろいの鬼神隊のなかで、比較的ユアンは事務仕事も苦にならないタイプだ。だから、自然と彼の日課になった。
その日も日報をまとめた彼は、隊長のチェックを受けるために隊長室を訪れた。
几帳面な字でつづられたそれに目を通すと、ラウルは確認済の意味を込めてさらさらとサインを書き入れる。手渡しで戻された日報を受け取ったユアンは、ぴしりと背筋を伸ばしたままお辞儀をひとつ。さらりと髪をなびかせ、彼は颯爽と隊長室を出ようとする。
その背中をラウルが呼び止め、「今晩、一杯どうだ」とユアンを誘った。
「で? 何か進展があったんですか?」
仕事あとの渇きを潤すための、乾杯のワイン。見かけにそぐわない豪胆さでグラスの半分を一気に喉に流し込んだユアンは、そのように上官かつ騎士学校時代からの友人であるラウルに問いかけた。
ふたりがいるのは憲兵隊の詰所近くにある酒場だ。場所柄、仕事を終えた憲兵隊がしょっちゅう出入りする行きつけの店であり、極まれにラウルもユアンを伴って顔を出す。彼のような上流貴族が酒場を利用するのは珍しいことだが、ラウルはあまり気にしていないらしかった。
とにかく、ユアンと同じようにワインを勢いよく呷ったラウルは、問いに答えるより先に呆れたように眉をひそめた。
「お前な。仕事以外ではその堅苦しい言葉遣いをやめろって、いつも言っているだろう」
「いいんですよ、もはや癖ですから。それに、ここには鬼神隊の者も出入りしています。オフの時間とはいえ、副長の私があなたにため口では秩序が乱れるでしょう」
「…………口調より、毒舌のほうをどうにかすべきだと思うが」
「それこそ癖ですよ、私のアイデンティティ壊さないでください。――それより、話をそらさないでくださいよ。シェイラ嬢と何かあったんでしょ? だから私を誘ったんですよね」
ユアンが確信するのには訳がある。
ことの発端は数日前、王立劇場の怪人事件が解決した翌日にさかのぼる。事件の犯人、アラン・リチャードソンがすらすらと真相について自供したために裏付け捜査がスムーズに進み、その日は予定より早く仕事が終わった。
それで帰ろうとしたところを、ラウルに声を掛けられた。ひさしぶりにふたりで飲まないかと言われたのだ。特に予定もなかったユアンはこれに応じ、いつもの酒場に繰り出す。そこで彼は、泣く子も黙る鬼隊長が青臭い純情に身を焦がしていることを知った。
〝心底惚れてしまった女がいるんだが、どう気持ちを伝えればいいかわからない〟
先日、ラウルにこのように打ち明けられたとき、ユアンは耳を疑うあまりワインを噴いてしまった。
なにせラウル・オズボーンだ。付き合いで王宮舞踏会に出ようものなら、我こそはと自信のある女たちが群がる彼だ。同じ男としてはこの上なく羨ましい状況にありながら涼しい顔を貫き、適当に女たちをいなし、あしらうあの色男だ。
それが、何をとちくるって、生娘のようなことを言いだしたのだと。
「まったく……いい年した男の赤裸々な片想いなんて恥ずかしい悩み、最後まで呆れずに聞くのは私くらいですよ。もっと私に感謝してください」
「おまっ、酔わせて無理やり聞き出したのはお前のほうだろ!」
「突っ込んで欲しそうにうずうずしていていたくせに、よく言いますね。今日だって、何か言いたいことがあって私を呼んだんでしょう? さ、さ。もったいぶってないで吐きなさい」
グラスを押し付けて急かせば、ラウルは悔しそうに唇を引き結ぶ。とはいえ長い付き合いのあるユアンには、ラウルがまんざらでもない心地でいるのはお見通しである。
案の定、ラウルはちらちらと周囲を気にするような仕草をしたあと、打ち明け話をするようにユアンのほうに身を乗り出す。こほんと咳払いをしたのは、おそらく顔がにやけるのを防ぐためだ。やれやれと思いつつユアンが付き合って身を寄せてやると、彼はぼそりとユアンの耳に囁いた。
「……シェイラと婚約した」
「えぇぇええっ!?」
「しっ、声がでかい!」
がばりと口をふさがれて、ユアンはふごふごとくぐもった声を漏らす。なんとかその大きな手をどけてぷはっと息をついた彼は、いくらか声のボリュームを落としつつもラウルに詰問した。
「いやいやいや。いくらなんでも、急展開すぎるでしょう! この数日の間に、いったい何があったっていうんですか」
「一応言っておくが、上への報告もこれからのトップシークレットだ。そのことを念頭に置いて、この先は耳を傾けてほしい」
「まあ、それはかまいませんが……」
ユアンは渋々頷きつつ、納得をする。鬼の隊長などと呼ばれて剣を手に街を走り回っているから忘れてしまいがちだが、彼はオズボーン家の生まれなのだ。その恵まれた容姿も相まって、恋人だの婚約だのの話は社交界で絶好の噂のネタとなる。ある程度は仕方ないこととはいえ、必要以上に騒がれるのは彼の本意ではないはずだ。
「しかし、よくシェイラ嬢が了承しましたね。話を聞く限り、シェイラ嬢のなかであなたは『いい人』止まりで、道はまだ長いかと思いましたが」
素朴に思った疑問を、ユアンは口にする。
事実、先日ラウルから聞かされたシェイラの様子では、ふたりの関係は完全にラウルの片想いだった。捜査の合間に見かけた印象でも彼女はラウルに気を許している様子だったし、彼が倒れたときは傍にいると申し出てくれたくらいだから憎からずは思っているのだろうが、はっきりと恋情と呼べるほどの感情ではなかったはずだ。
(これだから、モテる男は……)
阿呆らしくなったユアンは、頬杖をつく。
思春期真っ只中――それこそ初恋に舞い上がる少年のように浮かれていたって、所詮ラウルは社交界のモテ男。腐っても女の扱いは天下一品、朝飯前なのだろう。その証拠に、そこまでミーハーなタイプにも見えなかったシェイラ・クラークだって、こんなにあっという間に陥落してしまった。
だが、その様相はすぐに様変わりする。言うまでもなく、婚約に至った経緯についてユアンに話して聞かせたのだ。初めは頬杖をついて話半分に聞いていたユアンだったが、途中で信じられないものを見る目をラウルに向け、挙句の果てには唖然とするあまり口を大きく開いていた。
「……というわけで、彼女との婚約を取り付けた」
「なにが『というわけ』ですよ、ちっともよろしくないじゃないですか!」
憤慨したユアンは、行き所のない感情を持て余して指をワキワキと震わす。ラウルも呆れられる覚悟はしていたのか、決まり悪そうに目を逸らしている。
「よくシェイラ嬢にOKもらえましたね。私が女だったら、どんなイケメンだろうが締まらないプロポーズすぎて100年の恋も凍結しますよ。今すぐやり直してきなさい!」
「無茶言うな! ……仕方ないだろう。いつも女には囲まれるばかりで、俺は相手をするだけだった。いざ惚れてみると、どんなアプローチをすればいいかさっぱりわからん」
「これだから、モテる男は!」
頭を抱えたユアンが天を仰ぐ。
つくづく馬鹿らしくなった彼はぐびぐびとグラスの残りを飲み干し、自分でボトルからワインを注ぐ。どうせラウルのおごりだ。こんな話、飲まなきゃやっていられない。
「まあ、なんにせよ良かったですね。どういうわけかシェイラ嬢に受け入れてもらえたわけですし、細かい調整はこれからだとしても一安心なのでは?」
「それが、そうでもないんだ」
つまみとして頼んでおいたバゲットを口に放りこんでから、ユアンはそのように肩を竦める。だが、ラウルはいまいち気が晴れない様子。彼はたいそう悩ましげに――仮に令嬢方がその姿を目にしたら、心臓を射抜かれて倒れたことだろう――溜息をつくと、驚くべきことを口にした。
「婚約は取り付けたが、彼女の心を手に入れたわけじゃない。俺の想いは一方通行のままだ」
「…………は?」
つい、ありのまま心のままに低い声が漏れた。だが、ラウルは半眼になって睨むユアンのことをまったく気にすることなく、心底悔しげな様子でくっと歯を食いしばった。
「くそっ。一体どうすれば、シェイラの気持ちを動かすことができるんだ……っ」
「どうしてそういう風に思ったんです?」
どうせろくな答えが返ってこないと薄々と思いながらも、一応ユアンは尋ねてみる。すると案の定、ラウルはくわっと目を見開いて、見当違いなことをのたまった。
「彼女は、俺を好きとは一言も言っていない。ただ、俺の想いを受け入れただけだ」
「あー……」
それは、単に彼女が照れ屋なだけなのでは。
喉元まで出かかったその言葉を、すんでのところでユアンは飲み込む。ここまで拗らせていると真面目に答えるのも馬鹿馬鹿しい上、いっそのこと放っておいたらどうなるか興味すら沸いてきたからだ。その間にもラウルは憂いを帯びた表情でワインに視線を落とした。
「……あいつが頷いただけで天にも昇る心地がしたのに、恋とは強欲で、厄介なものだな。俺が抱くのと同じ想いを、あいつにも返して欲しいと願うなんて」
ちょうどパテを口に運んだところだったユアンは、ラウルの言葉に思い切りむせかえる。バシバシと己の胸を叩きつつワインを流し込みながら、ユアンは内心で叫んだ。
(あんたは乙女かっ!!)
「おい、大丈夫か? それに、いつにも増してペースが速い。潰れるぞ?」
「誰のせいだと!」
どうにか声を絞り出して抗議するが、返ってくるのはラウルのきょとんとした顔のみ。どうやら先ほどの発言は一片の曇りもない、彼の本心らしい。
どっと疲れを感じて、ユアンは己のグラスにワインを注ぎ足し、ついでにラウルの分も注いでやった。
本当に、この上官であり友人であるラウル・オズボーンという男は、基本的にはハイスペックなくせにたまにとんでもないところでポンコツだ。まさか、そういう意外性を恋愛方面でも発揮されるとは思わなかったが、完璧な彼の愛嬌と呼べる部分なのかもしれない。
「まあ、悪いことばかりではないんじゃないですか?」
グラスを掲げてみせれば、ラウルが目を瞬かせる。それに苦笑を返してから、ユアンは挑戦的に目を細めた。
「まだ落ちていないなら、落とす楽しみもあるというもの。ドロドロに甘やかして、あなたの虜にしてしまえばいい。幸い彼女は、既にラウルのものなのですから」
虚を突かれたように、ラウルは目を丸くする。しばらく彼は考え込んだあと、ほんの少しだけ表情を明るくして「なるほど、悪くない」と声を弾ませた。
ふっと息を吐いて、ユアンはワイングラスをくるりと回した。
まったく、ラウルには心から感謝をしてほしい。ユアンは名誉挽回のチャンスとして、友を誘導したのだ。それにこのままでは、結果オーライとは言えあまりに頓珍漢なプロポーズをされたシェイラ嬢が気の毒である。
はっきり言ってラウルが抱く懸念など杞憂だ。傍から見ていてもシェイラ・クラークという令嬢は己の考えをきちんと持つタイプと窺えた。告白を受け入れたからには、彼女自身、ラウルに惹かれるところがあったに違いない。
だが、これでラウルはシェイラの心を奪おうと、あれやこれやと手を尽くすだろう。それでいいのだ。本来彼は頭の回る男で、女を喜ばせる術も心得ている。頭を冷やしてシェイラ嬢と向き合えば、ずっと美麗で――眩暈がするほど甘美な愛を、彼女に囁けるはずだ。
(お膳立てはしましたからね……)
クラーク家の屋敷にいるであろうシェイラ・クラークに向けて、ユアンは内心で独り言つ。あとはせいぜいラウルの愛を存分に浴び、とっととふたりで、勝手に幸せになってくれ。勝手に、というのがポイントだ。切実にそのように願う。
こうして鬼神隊の副隊長が人知れず気を揉んでいるなか、賑やかな酒場の夜は更けていったのであった。