6-3
空が茜色に染まり始めたころ。待ち合わせ場所であった公園入口の噴水前で、シェイラとクリスティーヌは兄のキースと合流した。商会の仕事から直で来たキースだが、妻とのひさしぶりのデートのために、いつもよりほんの少しおめかしをしている。
「シェイラちゃん、本当に送っていかなくて大丈夫?」
「平気よ。ここから家まですぐだもの」
心配そうに眉根を寄せたクリスティーヌに、シェイラはひらひらと手を振る。実際、公園から家までは歩いて20分ほどであるし、この時間は帰宅するひとたちで車もひとも多く、危険は少ない。シェイラのような若い娘がひとりで歩いても安全なのだ。
「じゃあね。兄さん、ちゃんとクリス姉さんをエスコートしてあげてね」
「当たり前だろ」
きっと照れくさいのだろう。憮然とした顔で頷きつつ、キースはクリスティーヌとしっかり手を繋ぐ。そしてふたりは手を振りながら、街頭の灯り始めた夕暮れの街のなかに繰り出していった。
今日はふたりの結婚一年目の記念日。兄のことだから、きっと洒落たレストランを用意しているに違いない。妻の手を引くキースも、夫を見上げるクリスティーヌも、とても幸せそうな笑みを浮かべていた。
兄夫婦を見送ったシェイラはひと息ついて、兄たちとは反対の道をひとりで歩き始めた。
時折道の端には、お客を乗せて走るタイプの車が止まっており、客待ちをする運転手がのんびりとパイプをくわえて車にもたれかかっている。
道行くひとはシェイラのように帰路につくひともいれば、兄たちのように明らかにこれから出かける様子の男女が、寄り添って歩いていたりする。そうした人たちは一様に満ち足りた顔をしていて、ちくりと一抹のさみしさを胸に刻ませる。
季節は少しだけ冬に近づき、肌に触れる風はひんやりと冷える。両手を掲げてふうと息を吹きかければ、薄い手袋越しにもほんのりと暖かさが広がった。
うらやましくないと言えば、嘘になる。
一緒にいるだけで心地よいと思える相手がいること。手が触れ合うだけで心が弾む繋がりがあること。大切な誰かと分かち合う時間があるということ。
早く帰ろう。服の上から腕を軽くさすりながら、シェイラは少しだけ歩く速度を速めた。寒くなる時期はいけない。とくに深い意味がなくとも、なんとなく感傷的な気分になってしまうから。
――けれども、とある細路地の前を通りかかったとき、その角に立つ男にシェイラは声を掛けられた。
「ちょいと、そこのお嬢さん。少しばかりお時間はありませんか?」
「……私ですか?」
つい足を止めてしまったシェイラは、男に目を向けた途端、さっさと通り過ぎなかったことを後悔した。
茶色のロングコートを羽織ったその男は、深くかぶった帽子と男にしては長い前髪のせいで顔がよく見えない。ハットのつばから覗く鼻筋は高く通っていて、どことなく上品な雰囲気が漂うが、張り付いた口元の笑みがうさん臭さをぷんぷんと漂わせている。
けれども男は、シェイラが歩き出すより先に細路地から出てくると、くわえていたパイプを外して、シェイラの傍らに立った。
「ええ。あたしが声を掛けたのはお嬢さんで間違いありません。クラーク商会のご令嬢、シェイラ嬢。あたしはね、お嬢さんとちょいとばかりお話したくて、ここで待っていたんです」
「待っていたって……」
「ああ、そんなに警戒しないでくださいな。決して怪しい者じゃありません。実はあたし、こういう者でして……」
自分で自分を怪しくないという人間に、ろくな人間はいない。いまだ男を警戒しつつ、シェイラは相手が差し出した名刺を恐々受け取る。小さな紙にさらさらと書かれた文字に視線を落としたシェイラは、「えっ」と声を上げた。
「タイムリー新聞社……。新聞記者さんですか?」
「はい。エディ・ハーディ。タイムリー新聞で記事を書いています」
長い前髪の奥で、男がにっこりと笑った気配がする。
タイムリー新聞と言えば、王都で一番大きな新聞社だ。『いま最もタイムリーなニュースをお手元に』を標語に、王都を賑やかす話題の数々を記事にまとめ、高い人気を誇っている。今朝キースが買ってきた新聞も、タイムリー社が発行したものだ。
しかし素性はこれでわかったわけだが、相変わらず読めないというか、怪しい男だ。大体、どんな理由であれ、待ち伏せをされるというのはあまり気分のいいものではない。
「それで、新聞記者さんが私に何の用ですか?」
「あら、お惚けになりますか。それとも、本当にお分かりでない」
意外そうに肩を竦めたエディに、シェイラも嫌でも思い当たってしまった。そうだ。キースが買ってきた――つまり、あの記事が載っていたのがタイムリー新聞ということは。
「もしかして、エイミーさんに取材をしたのって……」
「おやま。霊感令嬢ご本人に読んでいただけたとは光栄な。ええ、そうですよ。あの記事を書いたのはあたしです。気に入っていただけましたかね?」
お手柄、霊感令嬢。その煽り文句を思い出して、シェイラは顔が熱くなるのを感じた。あらためて、あのこっぱずかしい記事を書いた男を目の前にすると、どうにも八つ当たりな気持ちになってしまう。
「あ、あなたね! 記事にするまえに、一言くらい教えてくれたって……」
「順番が前後したのは謝ります。あたしもニュースの鮮度を落としたくなかったもんで。けど、出来は良かったでしょう。おかげさまで、あたしの耳に入ってくる評判も上々なんです。そこで、ですよ。シェイラさんに提案とお願いがあるのです」
「お願い?」
どうにもうさん臭くて、シェイラは眉間にしわを寄せる。しかしながらエディは少しも気にした風もなく、飄々として先を続けた。
「いやね。シェイラさんにご協力いただいて、連載コラムを立ち上げたいと思うのです。題材は、王都に伝わるちょっとした不思議を霊感令嬢が『勘』を使って紐解く。どうです。おもしろそうだと思いませんかね?」
「そりゃまた随分、興味深い話をしているな」
突如として割り込んできた声に、シェイラは肩を跳ねさせる。なぜなら、その声には聞き覚えがあるばかりか、つい先ほどの義姉との会話のなかでも出てきた人物だったからだ。
まさかと思ってシェイラが振り返るより先に、その誰かがシェイラの肩を後ろに引く。そうやってエディから遠ざけておいてから、いつの間にかすぐ後ろに立っていたラウルが、シェイラの肩を抱いたまま短く鼻を鳴らした。
「ら、ラウル隊長!? どうしてここに!?」
「通りすがりだ。怪しい男が若い娘に声を掛けていると思えば……正体はお前か、エディ」
安心させるようにシェイラに僅かに笑みを向けてから、ラウルは赤い双眼でエディのことを睨みつける。どうやら、ラウルはエディと顔見知りらしい。
対するエディも、心外だと言わんばかりに両手を広げた。
「ひどいじゃありませんか。あたしと隊長の仲ですよ。お仕事柄、怪しい輩を放っておけないのはわかりますが、ちょいと取材依頼をするくらい多めにみてくださいな」
「……話している相手がこいつじゃなければ、何も言わなかったがな」
なぜかラウルはもの言いたげな顔でシェイラを見下ろした。だが、シェイラが小首を傾げる間に、ラウルはしっしっとエディを追い払うように手を振った。
「さあ、行った、行った。依頼だろうが何だろうが、こんな夕暮れ時に立ち話で済ませるような話じゃない。お前が本気なら、日を改めて彼女を訪ねるんだな」
「言われるまでもありません。今日は、ほんのジャブ打ちですよ。……シェイラさん、いずれまた、お会いしましょう。それまで、ちょいと頭の隅に留めておいてください」
「あ、エディさん!?」
「ついでに、お耳にいれときますが」
ふらりと立ち去りかけたところで、エディは声を張る。首だけを傾けてシェイラに向けながら、彼は愉快そうに唇を吊り上げた。
「昨日の記事のあと、『お手柄な霊感令嬢について、もっとよく知りたい』といったお声をたくさん頂戴するんです。――不名誉なうわさを覆すまたとないチャンスだと、あたしは思いますけどねえ」
長い前髪の間で三日月のように目を細めてそう言うと、エディはパイプを口にくわえなおし、細い路地の奥へと消えていった。最後まで、腹の底が見えない男だった。そのような感想を抱きながら路地を眺めていると、「おい」と頭の上から怒られた。
「迂闊に知らない輩に耳を貸すな。あんな、見るからに怪しい男を相手にしたらダメだろう」
エディとは知り合いである様子なのに、なんとも辛辣なコメントである。けれども、その言葉の裏には、シェイラの身を案じてくれた彼の優しさが隠れているのがわかり、胸のなかがムズムズとさざめく心地がする。それを誤魔化すため、シェイラはとっさに言い返した。
「隊長こそ、いつから傍にいたんですか? 近くにいたなら声を掛けてくれればいいのに、立ち聞きなんて趣味が悪いですよ」
そのように言えば、ラウルは罰が悪そうに眉をひそめる。そういえば彼は、怪人捜査の折も地下通路でアイリーンとグウェンの会話を立ち聞きしていた。あのときは捜査だから仕方がないと言っていたが、さすがに今回は開き直るのは分が悪いと判断したらしい。
ラウルは観念したように溜息を吐くと、首の後ろに片手をやりながら首を傾けた。
「わるかった。以後、気を付けよう。……それで? もうそろそろ、暗くなる。どこかに行くつもりか? そこまで送ろう」
「あ、いや。もう家に帰るだけですし……。それに、隊長はお仕事中なんじゃ」
「奇跡的に、俺も家へ帰るところだから気にするな。それに仕事中だとしても、夜道に女ひとりを放り出せるか」
制服の裾を翻し、ラウルは歩き出す。戸惑うシェイラを振り返り、「行くぞ」と先を急かす彼のあとを、シェイラは我に返って追いかけた。
並んで歩くと、道行くひとたちがジロジロとふたりを眺める。当然だ。鬼神隊の制服に身を包んだラウルが若い娘を連れて歩いていたら、一体なにごとかと視線を集めるに決まっている。けれども、そんな視線が気にならないほど、シェイラの足取りは軽い。
捜査協力をしていた頃と変わらずに、ラウルが自分のことを気に掛けてくれた。街の安全を守る彼にとってはきっと、なんてことのない当たり前のことだ。それでも、今はそんな些細なことがたまらなく嬉しい。
迫る夜の肌寒さは、もう苦には感じなかった。