6-1
「………シェイラ?」
静かな小部屋に掠れた声が響き、うたたねをしていたシェイラは、ばちりと目を開いて身を乗り出した。
「っ、ラウル隊長! 気が付いたんですね!」
「ああ……」
シェイラの視線の先で、まだ夢の中にいるようなぼんやりした顔で、ラウルがゆっくりと瞬きした。
(なんていうか、目に毒、ね……)
わずかに赤面しつつ、シェイラはラウルが緩慢に起き上がるのを手助けした。
当然ながら寝起き姿は初めてみたが、垂れ目がちの目が殊更際立ち、情けないところを散々見てきたシェイラであってもドキリとするほどの色気を醸し出している。
おまけに、制服にシワがつかないようユアンがラウルの上着を脱がせたために、ラウルは白シャツ一枚のオフモードだ。その彼が、眠たげに目元をこすったりしている。とにかく、キリリと働くオンモードとのギャップがすごい。
そんな風にシェイラがドキドキしているなんてつゆ知らず、ラウルは緩やかにウェーブする前髪をかきあげた。
「俺は倒れたんだよな……。あれからどうなった? 犯人は?」
「アランさんは、ユアンさんが憲兵隊の詰め所へ連れて行きました。ほかの皆さんも、一緒に引き上げています。あ、けど、あとで時間を置いてわたしたちのことも迎えにくると、ユアンさんが言っていました」
「なるほど。それで、ここは?」
「支配人さんが貸してくださった小部屋ですよ。ちなみに、隊長が倒れたのはゴーストの魔法のせいってことにしてありますから、安心してくださいね」
「……妙な気を遣わせて、すまない」
気落ちした様子で、ラウルが肩を落とす。ゴーストの前で倒れてしまったことが、よほど悔しいのだろう。
けれども、彼が落ち込む必要はすこしもない。むしろ、あれだけものすごい気迫をまとったゴーストが目の前にいながら、よくぞ犯人確保の瞬間まで意識を飛ばさず堪えたものだ。
シェイラがそのように告げようとしたとき、ラウルは「それに、だ」と続けた。
「もう夜も遅いだろうに、ユアンのやつ、なぜお前を先に家に送らなかったのか……。いつもはもっと、気の回る男なんだが」
「あ、違うんです! ユアンさんのせいじゃありません。私がここに残るって言ったんです」
「シェイラが?」
不思議そうに、ラウルが聞き返す。それに頷いて、シェイラは肩を竦めた。
「隊長が目を覚ましたとき、運悪く近くにゴーストが出たら困るでしょう? 私が傍にいれば、目覚めた途端に気絶、なんて事態だけは避けられるかなと思って」
茶化しながら言うが、理由はそれだけじゃない。シェイラが、ラウルを放って帰りたくなかったのだ。
……この気持ちを、上手く言い表すのは難しい。けれども事件が解決し、シェイラにもたれかかって安心したように眠るラウルをみたとき、彼の目が覚めるときにそばにいたいと思ったのだ。
けれども、それを口に出すのはとても恥ずかしいので、シェイラは舌を出して誤魔化してみせた。
「まあ、隊長には余計なお世話かもしれませんけどね」
「そんなわけがあるか。ありがたいに決まっているだろう」
大真面目に首を振り、ラウルはきっぱりと否定。そして彼は、『鬼隊長』の二つ名からは程遠い、とても柔らかな笑みを浮かべた。
「目が覚めたとき、お前がいてくれて安心した。……しかし、理由が何であれ、俺は役得かもしれないな。お前が、傍で見守ってくれたんだから」
年頃の乙女であれば赤面必須の、甘い台詞と視線。にも拘わらず、男女の駆け引きにとことん疎い霊感令嬢は、「またまたー」と眉根を寄せた。
「そういう口説き文句は、大切なひとが見つかってから使ってください。軽々しく口にしちゃうと、もったいないですよ」
「……お前な。俺を、その辺のプレイボーイと一緒にするな。前にも言っただろう。俺が女を口説くときは」
「ちゃんと相手を見定めたあとだ、ですよね? その言葉、もっとちゃんと守ったほうがいいですよ」
勝ち誇った顔で腕を組み、シェイラは「ね、守れていないでしょ?」と言わんばかりに首を傾ける。一方のラウルは、完全に腑に落ちない顔。けれども彼が何か文句を言う前に、シェイラは立ち上がって扉に手を掛けた。
「隊長、服を整えたりしますよね。私、部屋の外で待っています。終わったら声を掛けてくださいね」
言うが早いが、シェイラはさっさと部屋を出て扉を閉めてしまった。
――ひとり取り残されたラウルは、己の体を見下ろした。すると、確かに彼女の言うように、シャツの裾が出てしまったり腰回りが緩んだりと、服が乱れている。おそらく、しばらく横になっていたためだろう。
ラウルは己の頭をガシガシと掻き、それから一気に立ち上がる。シャツの胸元を少しばかり閉めて、裾はズボンにしまう。テーブルの上に誰かが畳んでおいてくれた制服の上着を取り上げ、羽織り、――ドアの外に声を掛けようとしたところで、彼は溜息を吐いた。
「軽口じゃないと、どう言えば伝わるもんだか」
苦笑まじりに、ぼそりとラウルは愚痴をこぼす。当然ながらその言葉は、外でのほほんと呼びかけられるのを待つシェイラの耳に、届いてはくれなかったのであった。
舞台が終わり、すっかり静まり返った王立劇場の通路を、ふたりは支配人室を目指し歩いていた。
ブラン支配人が、ラウルが倒れてしまったことをかなり気にしていたので、彼の目が覚めたら報せにいくとシェイラは約束したのだ。そのことをラウルに告げたら、ならば一緒に支配人室に行こう、という話になったのである。
「怪人はきっと、事件を止めるため――王立劇場で犠牲者が出るのを防ぐために、私たちの前に姿を現したんですね」
劇場を離れるまえにユアンに教えてもらったことを思い出して、シェイラは隣のラウルに話しかけた。
憲兵隊の詰所に移される前にアランが話したことによれば、ひとつ目の事件――舞台の上に照明が落下したのは、アランの仕業だったという。裏方のエキスパートである彼は、幕間のうちに機材に微妙な仕掛けをして、ちょうどエイミーの歌の最中に照明が落下するよう施したのだという。
「しかし、怪人が現れたせいで舞台は中止。照明はアランの仕掛け通り落下したが、そのときにはすでに舞台上には誰もいなかった――。それが、怪人の目的だったんだ」
「それに、地下通路で怪人が私たちを案内したときも。……アランさん、アイリーンさんをエイミーさんから引き離すために事件を起こしたそうです。自分が敬愛するアイリーンさんを貶める悪いひとだと、エイミーさんを決めつけたって」
エイミーがグウェンにアプローチを重ねていたのと同じ時期に、アイリーンはスランプに陥っていた。エイミーは、怪人に恨まれる理由として思い当たるのはそれだと答えていたが、彼女の勘は当たったのだ。ただし相手は怪人ではなく、アランだったが。
「なるほど。怪人が俺たちを導いたのは、犯人や動機を教えるため、か……。ゴーストのくせに、そこまでするとは。よほど怪人は、アイリーンを好いているんだな」
「それだけじゃないと思いますよ」
呆れたように天を仰いだラウルに、シェイラは笑ってひと言。
先を促すラウルの視線に、シェイラはその先を続けようとする。しかし、ちょうど差し掛かったロビーで聞こえた別の人物の声に遮られて、ふたりは足を止めた。
「ごめんなさい!」
何事だろうと顔を見合わせたシェイラたちは、予定を変更してロビーを覗いてみる。すると、なんとエイミーがアイリーンに向かって、深々と頭を下げている光景が目に飛び込んできた。
ロビーには、ほかにも見知った劇場関係者たちが一堂に揃っている。よく見れば、シェイラたちが訪ねていこうとしていたブランもそこにいた。彼らはソファに座ったり壁にもたれかかったりしながら、固唾を飲んでロビー中央のやり取りを見守っていた。
アイリーンは腕を組んだまま、頭を下げて動かないエイミーを見下ろしている。ややあって、彼女は赤い唇を開いた。
「なぜ、謝るの。すべてアランがやったことで、あなたは被害者。そうでしょ」
「そう、だけど。アランが私を憎んだ理由は……」
エイミーは言いよどんで、わずかに体を起こす。しばらく視線を彷徨わせた彼女は、ようやく言いたことがまとまったのか、ぱっとアイリーンを見上げた。
「私、反省したのよ。そりゃ、アランには色々言いたいことがあるけど……。だけど、私、アイリーンや劇場のみんなに、ほーんのすこし、迷惑かけていたのかなって」
「思い当たることがあるみたいね。たとえば?」
「えっと……。だから、その、衣装や演出のことでわがままを言ったり? たまに自信がなくなって、役を降りるって泣きわめいたり? 待ち時間にうっかり寝ちゃって、舞台に上がり損ねそうになったり?」
「最後のは気を付けなさいよ。本当に」
きっと、それぞれ思い当たることがあるのだろう。周りで聞いている劇場関係者たちが、やれやれと肩を竦めたり、頭を振ったりしている。一体、どれだけやらかしているのやら……と、影で様子を見守るシェイラもこめかみを押さえてしまった。
そんななか、エイミーは「それに!」と律儀に続けた。
「グウェンのこと……。私、本当に知らなかったのよ。けれど、そのせいであなたがスランプになっちゃうなんて」
「待ちなさい。誰がそんなこと言ったの」
ぴしゃりと遮って、アイリーンは怪訝そうに眉根を寄せる。対するエイミーも、目尻に浮かんだ涙の粒を拭いながら首を傾げた。
「誰ってわけじゃないけど……。アイリーンの調子が悪くなったのって、私がグウェンにちょっかいを掛けたのが気になったからなんでしょ?」
「違うわよ。バカにしないでくれる?」
「えっ?」
エイミーだけじゃない。ロビーに集まった者たちが、一斉に驚きの声を上げる。唯一、グウェンだけが、澄ました顔でウィスキーグラスを傾けた。
先ほどまでとはまた違った意味で視線を集めたアイリーンは、全員が同じ思い込みをしていることに僅かにたじろぐ。けれども彼女はすぐに看板歌姫らしい落ち着きを取り戻し、どこか呆れた顔をエイミーに向けた。
「あのね。たしかに私は一時期スランプになったけど、それはグウェンを取られるのが怖かったからじゃない。だいたい、グウェンは少しもあなたのこと相手にしていなかったじゃない。なんで私が不安になるのよ」
「ひ、ひど!」
ショックを受けたように、エイミーは両手で頬を挟む。それ以外の者たちは、一斉に苦笑いを浮かべて視線を明後日の方向にやる。おそらくアイリーンの言う通り、エイミーの恋のアプローチは完全に一方通行だったようだ。
「けど、だったらどうして、アイリーンはスランプになんか……」
恨めしそうに問いかけたエイミーに、なぜかアイリーンは眉間にわずかに縦皺をつくる。しばらく沈黙を貫いた彼女は、本当に嫌そうに、渋々口を開いた。
「……焦らされたのよ。あなたという、才能に」
「え?」
まったく思いもよらなかった答えに、エイミーはぽかんと口を開ける。すると、壁にもたれてコロコロとグラスのなかで氷を遊ばせていたグウェンが、口をへの字にしてエイミーを見た。
「恨むぜ、エイミー。そのせいで俺は、アンに距離を置かれちまったんだから」
「なに? どういうことなの?」
「そのままの意味よ。あなたの素晴らしい歌に触れて、私は焦り、自分の歌を見失った。あなたに抜かれたくないという、醜い願いに囚われてしまったのよ」
「けれど、アンはすぐに自分を取り戻した。俺たちの歌は、劇場で夢を見る観客たちのためのものだ。そのことを忘れて足掻いたって、壁にぶち当たるだけだと。……で、初心に戻って舞台に打ち込むために、俺としばらく距離を置くと決めたんだよ」
「ええ……」
何て答えたらいいか分からなくなったのか、エイミーは困惑したようにグウェンとアイリーンを交互に見る。するとアイリーンは、長い髪をふわりと後ろに払い、「何を呆けた顔をしているの」とエイミーを睨んだ。
「すべてを賭けて舞台に向き合いたいと、あなたは私に思わせた。……私に、あなたがライバルだと認めさせた。期待しているの。だから、こんなことで折れないでよ」
それは、アイリーンなりの激励であるらしい。
目を見開いたエイミーに、アイリーンは少しだけ表情を緩める。それから、彼女はくるりと背を向けると、シェイラたちがいるのとは別の出口に向かって歩き始めた。
その背中に、我に返ったエイミーが叫んだ。
「わ、私、ぜったいにあなたに追いついてみせる! ううん。超えてやるんだから!」
足を止めたアイリーンは長い髪を揺らして振り返り、今度こそ赤い唇を吊り上げた。
「やってみなさい。やれるものならね」
それだけ答えて、アイリーンは再び歩き出す。そのあとを、グラスをカウンターに置いてからグウェンが追いかける。そうやって、寄り添って肩を抱いたグウェンに付き添われて、王立劇場の歌姫はロビーを後にした。
それらを柱の陰で見守っていたシェイラは、隣に立つラウルにこっそり囁いた。
「怪人が守りたかったのは、きっと、王立劇場そのものだと思うんです」
ラウルが目を覚ますのを待つ間、微睡のなかで見たかつての出来事を思い出し、シェイラは微笑んだ。
「さっき思い出したことなんですけど……。私、小さい頃にこの劇場で、怪人に会ったことがあったんです」
「なに?」
「あ、けど。怪人って言っても、黒猫ちゃんのほうなんですけどね」
目を丸くするラウルに、シェイラは両手をひらひらと振る。それでも驚いた様子の彼に、シェイラは幼き日の思い出を話して聞かせた。
シェイラが6歳のとき、家族で王立劇場に来たことがあった。見に来たのは、王立劇場では珍しいファミリー向けの昼の公演。両親の10年目の結婚記念日が近かったこともあり、父が奮発して家族4人分のチケットを押さえてくれたのだ。
その幕間、ゴーストの気配に導かれたシェイラは、黒猫と出会っていたのである。
「当然、当時はまだ、アイリーンさんはいません。ウェイブさんの話だと怪人は20年近く沈黙を守っていたそうですから、私が出会った時は怪人が贔屓にする歌姫もいなかったはず。……それでも怪人は、ちゃんと劇場を見守っていたんです。歌姫だけじゃない。王立劇場そのものを、愛しているから」
出ていけ。
そう考えれば、最後の怪人の言葉の意味も、アランの自殺を許さなかった理由も見えてくる。おそらくは、大事な劇場に暗い影が落とされることを防ぐため。
すべては、そのために。
「やっぱり怪人は、この劇場の守り神だったんですね」
怪人は、悪いゴーストじゃなかった。シェイラが感じた印象は、間違っていなかったのだ。
そのことが嬉しくて、シェイラはぱっと花が咲くような笑みを浮かべる。けれども、ラウルの感心はまったく別のところにあるらしかった。
「そのあとは、どうなったんだ?」
「そのあと?」
ラウルの言っている意味がわからなくて、シェイラはきょとんと首を傾げる。すると彼は、なぜだか焦れたように身を乗り出した。
「ひとりで気配を追い、大階段に行き、ゴーストと出会った。そのあとだ。そこで、……つまり、誰かと会っただろう?」
「誰か……、ですか?」
あまりにラウルが真剣な様子なので、シェイラは腕を組んで宙を睨む。
けれども、ダメだ。さっぱり思い出せない。そもそも、家でたまに話題が出るから知っていただけで、シェイラ自身は家族で王立劇場に来た時のことをまったく覚えていない。夢を見るまで、黒猫と会ったことなど丸っと忘れていたのだ。
「ごめんなさい。わからないです。けど、どうしてそんなこと……、隊長?」
首を振って見上げれば、ラウルは片手で顔を覆って俯いている。シェイラの声も、まったく彼に届いていないらしい。その姿勢のまま彼は短く笑うと、聞き取れないほど小さな声で、何かを呟いた。
「……なるほど。惚れるわけだ」
「え? 何か言いました?」
「聞いてくれ、シェイラ」
シェイラの質問には答えず、ふいに顔を起こしたラウルは、勢いよくシェイラの両肩を摑んだ。驚いたシェイラは後ろにのけぞりそうになるが、さすがは鬼神隊の鬼隊長。摑まれた肩は痛くないのに、一歩たりとも後ろに引くことを許してくれない。
目を白黒させるしかないシェイラに、ラウルは惚れ惚れするような精悍な顔を近づける。そして燃え盛る炎のような深紅の瞳でまっすぐに彼女を射抜いたまま、ここ数日の間で一番と言えるほど熱心に何かを告げようとした。
「俺は……俺たちは、昔、」
「シェイラ―!!」
ラウルの声が遮られると同時に、視界の外から飛び込んできた何かが、シェイラの脇腹にものすごい勢いでぶつかってきた。「ぐうぇ」と令嬢らしからぬ潰れたカエルのような声を出すシェイラだったが、その〝何か〟――エイミーはそんなことお構いなしに、シェイラに力いっぱいしがみついたまま、甘えるようにすりすりと頬をこすりつけた。
「ありがとうー! 私、生きているわ! シェイラが守ってくれたから、私、ちゃーんと生きているわ!!」
「ああ、うん。よかった。よかったから、お願い、離して……」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、息が苦しいシェイラはエイミーに懇願。それでも一向に離してくれないエイミーに、じたばたともがいていると、騒ぎに気が付いたブラン支配人が「おお!」と手を叩いて喜んだ。
「ラウル様! これは良かった! 意識が戻られたのですね!」
「あ、ああ。部屋を貸してくれたそうだな。迷惑をかけた」
「いえいえ、何を仰いますやら! ラウル様のおかげで、この王立劇場に血が流れずに済んだのです。何を迷惑に思うことがありましょうか!」
心の底から嬉しそうに、ブランは両手を広げて歓迎の意を示す。それに軽く返しながら、ラウルはちらちらと気にするようにシェイラを見ている。……そういえば、エイミーとブランの乱入で水を差されてしまったが、彼は何かをシェイラに告げようとしていたのだった。
それが何なのか、気にならないわけじゃない。けれども、ドタバタ騒ぎが収まらないうちに、ふたりを迎えにきたユアンが到着。シェイラにはクラーク家直行の車、このあとで色々と事後処理のあるラウルは詰所行きの車が用意され、話はうやむやになってしまった。
少なくとも、シェイラはそう思っていた。