【幕間】在りし日の出会い
★ ☆ ★ ☆
次の幕が始まるのを待つ人々の間を縫うように青白い光が尾を引き、小さな蝶が羽ばたくのが目の端に映った。
(……ゴースト?)
まん丸の目でぱちくりと瞬きをして、幼いシェイラは飲もうとしていたジュースから視線を外し、蝶の飛んで行ったほうを追いかけた。
一緒にいる家族は、いつものことながら蝶に気づくそぶりがない。煌びやかな光に照らされるなか、両親は談笑し、兄は大きな口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
「シェイラ? おい、どーしたんだよ」
妹が明後日の方向を見ていることに気づいたキースが、口いっぱいのサンドイッチをごくりと飲み込んでシェイラのほうに身を乗り出す。けれども、すっかり蝶に気を取られたシェイラは兄を振り返ることなく、ごくごくとジュースを飲み干してグラスを卓上に戻した。
急にそわそわしだした娘に、両親も気づいた。母のディアンヌが、今日も今日とて見事にカールした髪を揺らし、首を傾げる。
「どうしたの? そんな急にぜんぶ飲んじゃって」
「えっと……お手洗い! わたし、お手洗い行ってくる!」
ぴょんぴょんとその場で足踏みをしたシェイラは、そう宣言して駆けだした。父のラッドが「走っちゃだめだぞ!」と後ろから呼びかけはしたが、付いてくる様子はない。トイレはすぐ近くだし、そもそも王立劇場に来ているのは貴族ばかりだから、人攫いの心配もないのだ。
――さて、宣言とは異なり、シェイラは青い蝶を追いかけていた。
蝶はひらひらと舞いながら、時折シェイラが追い付くのを待つようにその辺の壁や手摺りにとまって羽を休める。
豪奢な通路を駆け、階段をのぼり、降りる。そうやって、自分がどこにいるのかよくわからなくなった頃、シェイラは見覚えのある大階段にたどり着いたことに気づいた。
その大階段は、劇場の正面入り口を入ってすぐにあったはずだ。記憶をたどりながら、シェイラはこそこそと階段に近づき、柱の影に身を隠す。青い蝶は、ここを曲がって階段のほうへと飛んで行った。
思い切ってシェイラは柱の陰から顔をだし、階下を盗み見る。そして階段の踊り場にいる小さな姿に目を留めて、歓声を上げた。
「っ! にゃあちゃん!」
にゃっ、と、踊り場で身体を舐めていた黒猫が驚いて鳴き声を上げる。けれども黒猫が逃げようと立ち上がるよりも、シェイラが踊り場に駆けおりるほうが先だった。
なんだか戸惑っているように見えなくもない黒猫だが、幼いシェイラがそれを気にするわけもない。満面の笑みで黒猫の横に座り込み、黒猫の小さな頭をくりくりと撫でまわす。……とはいえ、相手は生きている猫ではなくゴーストなので、手のひらに伝わるのはひんやりとした冷気だけなのだが。
「こんにちは、にゃあちゃん。あなた、ここに住んでいるの?」
その問いかけに、諦めた様子でシェイラの好きにさせていた黒猫は、にゃあと返事をした。黒く艶やかな毛並みに、明るくまん丸のグリーンの瞳。幼いシェイラにさえも、なんだが頭のよさそうな猫ちゃんだな、という感想を抱かせる。
とてもお行儀もいいし、この劇場で飼われていて死んでしまった猫のゴーストなのだろうか。なんとなく聞いたら答えてくれそうな気がして、シェイラはふたたび黒猫に話しかけようとする。
けれどもその言葉は、階段の上で響いたバンッという強い音で遮られた。
「お、おい!!」
続いて響くのは、微かに怯えの混じる少年の声。思わず顔を上げたシェイラは、顔を強張らせて仁王立ちする男の子を、階段のうえに見たのであった。
(……だれ?)
こてんと首を傾げ、シェイラは考える。明らかに男の子はシェイラのほうを見ているから、先ほど声を掛けられたのは自分で間違いないだろう。しかしながら、シェイラは彼を知らないし、会ったこともない、と思う。
男の子は、シェイラより少し年上に見える。たぶん、10歳くらいだろう。レイノルドとは違ったタイプの整った顔立ちで、黒に近い藍色の髪や、燃えるような真っ赤な瞳といい、強い印象を与える外見だ。
けれども、彼は怯え、尻込みして見えた。何がなんだかわからないうちに、男の子は「くっ」と歯を食いしばると、意を決したように階段をものすごい勢いで駆けおりてきた。
シェイラと黒猫は、ぎょっとしてその場で固まる。まさに『決死の覚悟』といった形相で駆けおりてきた男の子は、なぜかシェイラの手をむんずと摑む。そのまま、シェイラを後ろ手に引きずって一気に階段下まで駆け抜けた。
「えっ!? ちょ、きゃああ!」
男の子に引っ張られるシェイラは、意味がわからないまま階段を駆けおり、そのまま廊下を爆走させられる。そうして、劇場入り口あたりに立っていた警備係の大人にびっくりした顔で見送られながら、シェイラは男の子に行先不明の連行をされたのだった。
「なに!? なんで? なんなの!!?」
ぜえはあと前かがみになって息をつきながら、シェイラは男の子に噛みつく。
ちなみに、ふたりが今いるのは黒猫のゴーストがいたのとはまた別の階段の踊り場だ。闇雲にあちこち走って連れまわされた結果、ついにこの場所で足に限界がきたのである。
相手の男の子も、膝に手をついて苦しそうに息を整えている。と、ふいに男の子が「うっ」とくぐもった声を上げ、顔を青ざめさせてその場にしゃがみこむ。急に具合が悪そうになった男の子に、シェイラは怒りも忘れてオロオロとうろたえた。
「ね、ねえ、だいじょうぶ?」
「平気、だ。これぐらい、どうってこと……」
その力のない声から、男の子が強がりを言っているのは丸わかりだ。よく見ると、うずくまる男の子の背中はガタガタと震えている。男の子の着ているのはとても上質な暖かそうな服で、まさか寒いなんてこともあるまい。
ぴんと閃いたシェイラは、そっと男の子の背中に問いかけた。
「あ、あの。もしかして、にゃあちゃん、こわかったの?」
「にゃあ、ちゃん?」
ほんの少し顔を上げて、男の子が疑わしそうにシェイラを見る。まるで意味がわからないといった男の子の表情から、シェイラは確信した。
たまにいるのだ。「嫌な感じがする!」とか「寒気がする!」とか、なんとなく不穏な雰囲気だけ感じとって、ゴーストの近くから慌てて逃げ出そうとするひとが。男の子もきっと、少しばかりは『勘』のあるタイプのひとなのだろう。
同志を見つけて勢いこんだシェイラは、頬を紅潮させて力説した。
「さっきのゴーストはにゃあちゃん! すっごくお利巧さんなのよ。ぜんぜんこわくないんだよ!」
「そ、そんなわけあるか! あ、あんな……あんな……っ、うっ」
とても信じられないと噛みついた男の子だったが、ゴーストのことを思い出してしまったらしく、またしてもうずくまって口元を手で押さえてしまう。これでは、どんなに黒猫が可愛かったかを話したところで、理解してもらうのは難しそうだ。
シェイラのほうが年下ではあるが、こんなにも気分の悪そうにしている男の子をほっぽり出していくわけにはいかない。仕方なくシェイラは、小さく丸まる男の子の隣に座って膝を抱えた。
けれども、シェイラはまだまだ子供な6歳。ただ黙って隣にいるだけじゃ、すぐに飽きてしまう。手持ち無沙汰なのを紛らわすために、シェイラは男の子に話しかけた。
「ゴースト、きらいなの?」
「…………っ」
返事はない。それどころか、そっぽを向かれてしまった。きっと、自分より幼い女の子がけろりとしている横で自分だけガタガタと怯えていることが、彼のプライドを傷つけたのだろう。
たった6歳のシェイラも、彼のかたくなな雰囲気を察して、質問を変えることにした。
「どうして、そんなにゴーストがきらいなのに、ひとりでにげなかったの?」
今度は、男の子の肩がぴくりと動いた。
シェイラは不思議だった。思い返してみれば、階段上からシェイラに声を掛けた時点で、男の子はすでに怯えた様子だった。あの時点で、男の子は回れ右をして逃げ出すこともできた。それなのに、どうしてわざわざ階段を駆け下りてゴーストの真横を通り、シェイラを連れて逃げたのだろう。
大きな瞳でじぃっと見つめ、シェイラは静かに答えを待つ。ややあって、男の子はふてくされたように唇を尖らせた。
「ひとりでなんて、逃げられるか。女の子が、目の前であぶない目にあっているのに」
ぱちくりと瞬きをして、シェイラはぽかんと口を開けた。
それはまるで、物語に出てくる勇者や騎士さまといった、正義の味方のような台詞だった。つまり男の子は、あとで気分が悪くて動けなくなってしまうほどゴーストが嫌いなのに、シェイラを助けなきゃという一心でゴーストへの突進・逃走を試みたらしい。
なんとも正義感に満ちた、称えるべき精神だ。
とはいえ、なんとも――。
「つよがり」
「うっ」
「いじっぱり」
「うっっ」
「ええかっこしい」
「うっっっ」
胸のうちに留めておけばいいのに、シェイラは素直に口に出してしまう。子供というのは、時として残酷である。男の子も自覚があったらしく、胸元を押さえて苦しげに呻く。ついに項垂れてしまった男の子だったが、「けど」とシェイラは続けた。
「たすけてくれて、ありがと。おにいちゃん、つよいんだね」
「……え?」
赤みがかった髪をぴょこんと揺らし、にっこりと笑ったシェイラに、男の子は驚いて顔を上げた。
そのとき、階段のうえから男の子を呼ぶ声が響いた。見れば、身なりのいい女の人が、男の子に向かって手招きをしている。その後ろではほかのひとたちもぞろぞろと移動を始めているから、もうすぐで次の幕が開くのだろう。
女のひとはきっと、男の子の家族だ。もう、彼をおいて家族のもとに戻っても問題ないだろう。そう判断したシェイラは、立ち上がってスカートの裾を軽く払った。
「わたし、いくね! おだいじに!」
「ま、待って!」
手を振って駆けだそうとしたシェイラを、男の子が呼び止める。立ち止まって振り返ると、男の子は整った顔いっぱいに疑問を乗せて、戸惑ったようにシェイラに尋ねた。
「なんで? どうして俺のこと、強いって……?」
赤い双眼はゆらゆらと揺れていて、この質問が男の子にとって、とても大事な問いかけであることがわかった。それでシェイラは、腕を組んで真剣に考えた。
とはいえ、改めて理由を問われると難しい。なんでと言われたって、直観的にそう思ったのだ。強いなと思ったから、そう言ったのだ。それじゃダメだろうか。
そのまま考えること数秒。ふとシェイラの中に閃くものがあり、彼女はぽんと手を打った。
「えっと、……こころ?」
「心?」
「そう!」
うんうんと頷いて、シェイラは両手を顔の前で合わせた。
「だって、にゃあちゃんがこわいのに、わたしを置いて逃げなかったもの。だから、とってもゆうきがあって、負けずぎらいで、すっごくつよいんだなって思ったんだよ!」
「俺が……」
シェイラの言葉を受けて、雷に打たれたように男の子は棒立ちになった。柔らかそうな彼の頬は、心なしかうっすらピンクに染まっている。
何がそんなに琴線に響いたのかわからないが、シェイラもいつまでも男の子と話しているわけにいかない。そろそろ戻らなければ、シェイラもディアンヌに違った意味での雷を落とされてしまう。
「じゃあね! また!」
「あっ……」
今度こそシェイラは、男の子を置いて駆けだした。男の子はシェイラを引き留めようと手を伸ばしたのだが、すたこらさっさと階段を駆け下りるシェイラはそれすらも気づかない。
そうやって家族でいたロビーを目指しながら、そういえば男の子に名前を聞くのを忘れたなと、シェイラは頭の隅で考えたのであった――――。
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