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その者は、悩んだ。
クライマックスに向けた仕掛けは完璧だ。あとは、それをどこから見守るかだ。
なにせ、ここまで相当手がかかったのだ。シナリオ、演出、配役から演技まで。仕事上それらは身近なところにあったが、ほとんどは専門外だ。本当はこんなに時間をかけるつもりはなかったが、本物の怪人出現というイレギュラーにも負けず、よくここまで頑張ってこれただろう。
すると幸いなことに、ボックス席のひとつに空きがあることがわかった。その者は、来るべき瞬間をそこから眺めることにした。考えれば考えるほど、それは素晴らしい思いつきに思えた。「王立劇場の怪人」としてエイミー・ダーエを葬ろうとする自分に、これ以上ふさわしい場所はない。
その者は父を知らない。母は美しい女で、重い病にかかっていた。母とふたり貧しい毎日をなんとか生き延びていたが、母が天国に旅立ち、その者は幼くして天涯孤独となった。
王都に初雪が降った日。寒空の下で空腹と無気力に苛まれたその者は、街中で行き倒れた。そんなところを、偶然に通りがかったとある紳士に拾われた。男は、先代の王立劇場の支配人だった。彼はその者に、衣食住を提供するかわりに、王立劇場のため働くことを求めた。
それからというもの、その者の人生は王立劇場と共にあった。演出も、演技も、音楽も。生きることに精一杯の以前の暮らしでは決して関わることのなかった数多の芸術が、その者の日常になった。
もちろん楽ではなかったが、ちっとも苦ではなかった。むしろ煌びやかな劇場で紡がれる夢に魅了されるひとびとを見るたびに、劇場を守り、彼らの笑顔を守ることが自らの生きる意味だと誇りに思った。
けれども、その者が愛する王立劇場は危機を迎えた。劇場の大黒柱と言うべき名のある俳優たちが、病気や高齢を理由に第一線を退いたのだ。
辛い日が続いた。スターを失った劇場は輝きを失い、日増しに客足が悪くなった。負の連鎖というべきか、そうなると残された者たちの間にも嫌な空気が流れ始める。モチベーションの低下と共に舞台そのもののクオリティが下がり、ますます観客は離れていった。
もどかしかった。けれども、ひとりで出来ることなどたかが知れていた。なんとか劇場を盛り上げたいとその者も走り回ったが、心のどこかで仕方がないと諦めていた。
たったひとりじゃ、この劇場を救うことなど出来ない。
しかしながらその常識は、とある歌姫の登場で打ち破られた。言うまでもなく、アイリーン・バトラーだ。
彼女は、比類ない素晴らしい才能を持っていた。その歌声は暗く澱んだ劇場の空気を祓い、希望という一筋の光で照らした。
アイリーンを起用した舞台は、たちまち成功を収めた。その主たる原因は素晴らしい彼女の歌声であろうが、それだけが理由ではないとその者は思っている。彼女の歌声が劇場に関わるすべての者の胸を熱く震わせたために、それまでかみ合わなかった歯車たちが、途端に動き始めたのだ。
その者にとって、アイリーンはまさしく女神だった。それゆえ、怪人が彼女を選び、長きに渡る沈黙を破って姿を現した時、その者は涙が出るほど嬉しかった。
――だからこそ、エイミー・ダーエという存在が許せなかった。
エイミーはまるで自分がアイリーンと同列に並ぶ、ライバル同士であるかのように振る舞っているが、とんだ思い上がりだ。才能も、王立劇場を背負う歌姫としての気高さも、エイミーはアイリーンに遠く及ばない。自らの立場を勘違いして驕り高ぶるエイミーも、そんな彼女を野放しにする劇場関係者も、すべてが間違っている。
それだけじゃない。あろうことか、エイミーはアイリーンを貶めた。グウェン・ジェラルドへの醜く浅ましいアピールだ。
アイリーンはどれほどの屈辱を覚えただろう! 可哀想なアイリーンは、そのせいで一時期スランプに陥ってしまった。もちろん、そのような不安をアイリーンに抱かせたグウェンも業腹ではあったが、最も憎むべきはエイミーだ。
その者は確信した。エイミー・ダーエは王立劇場にとって害悪だ。真の歌姫であり、王立劇場の女神であるアイリーンを邪魔する、あってはならない存在だ。だからその者は、エイミーを即刻排除しなければならぬと決意した。
怪人の名を借りたのは、アイリーンを特別な歌姫と認めた怪人であれば、エイミーを葬ることを同じように望むだろうと思ったからだ。
事実、その者は待った。地下に住まう魔物が這い出て、偽りの歌姫の喉を切り裂くのを待ちわびた。けれども、もう待つのも終わりだ。今更のように本物が姿を現しもしたが、幕は既に開いている。代役として、見事〝怪人〟を演じきってみせよう。
……さて、そろそろ頃合いである。流れているのが第二幕の二曲目、アイリーンの演じるヒロインのソロであることを確認し、その者は頭のなかでざっと段取りを確認する。
それから予定した通り、その者はそっと舞台袖を離れた。
舞台袖では憲兵隊たちが目を光らせているが、彼らがその者に目を留めることはない。当然だ。アイリーンの次に舞台に上がるのは、あの愚かなるエイミー・ダーエだ。切れ者らしい鬼隊長も、『勘』持ちの令嬢も、みながエイミーに掛かりきりである。
階段を上り、二階席側へと通じる扉の閂を開く。当然ながら上演中であるため、通路にはほかに人影はない。その者は足早に誰もいない通路を歩きながら、ボックス席の戸に掛けられたプレートの客席番号を確かめる。
そうやって求める部屋を見つけたその者は、素早く室内に入ると、目立たないように暗がりに立った。
舞台ではちょうどアイリーンが歌い終わったところで、観客たちが惜しみない拍手を彼女に送っていた。舞台の中央に凛と立つ彼女は気高く、美しい。こんなときであってもつい、彼女と同じ時代に王立劇場の一員であれたことに、その者の頬が緩んでしまう。
けれども温かな笑みは、すぐに性質の異なるものに塗り替えられた。場面が代わり、エイミー・ダーエが登場したからだ。
彼女が出ていたということは、既に賽は投げられたということだ。彼女の習慣を知り尽くしたその者に、失敗はあり得ない。その者の用意した脚本は、まさにいま、クライマックスを迎えようとしている。
楽器の音色に合わせて歌声が重なり、絢爛な衣装をまとった役者たちが華やかに入り乱れ、背中を押されるようにしてエイミーが舞台中央に立たされる。ほかの者たちの歌がやみ、役どころになり切ったエイミーが緊張した面持ちで空を見つめる。
静けさが満ちる。みなが見守るなか、思い切って彼女が歌いだそうと――――。
「残念だったな」
真後ろから響いた声に、その者ははっと息を呑んで、後ろを振り返る。そこで彼は、退路を断つようにボックス席の入り口にもたれて立つラウル・オズボーンと、彼の背後に控える憲兵隊、そしてシェイラの姿を見た。
と、同時に、何事もなく伸びやかな歌声が響いた。驚いたその者が慌てて舞台へと向き直れば、エイミーが舞台中央で立派に歌い上げているさまが目に飛び込んできた。
ありえない。驚愕にその者は首を振った。その者の用意したシナリオでは、エイミーはここで血を吐いて倒れるはずだった。偽りの歌姫にふさわしく、彼女は舞台上で醜く、苦しみのたうち回るはずなのだ。それなのに、どうして。
「その反応。やはり、これに毒を仕込んでいたようだな」
にやりと不敵に笑って、ラウルが組んでいる手をほどいて何かを掲げる。そこにある物を見て、その者は目を見開いた。それは、エイミーが喉をケアするために愛用している――そして今夜においてはエイミーを死の国へ導くはずだった――小瓶入りのハーブウォーターが握られていた。
「俺がこれを持っている時点で察しているだろうが、エイミー・ダーエは毒を飲んでいない。お前が小細工をしたあとに回収したからな。観念しろ、怪人。……いや。怪人の皮を被った小賢しい犯罪者、アラン・リチャードソン!」
鋭い赤い双眼が向けられた先で、青年がびくりと身じろぎをする。王立劇場の裏方スタッフのまとめ役、アラン・リチャードソンは、途方に暮れたようにボックス席の中央で棒立ちとなったのであった。
* * *
エイミーには第二部の頭から舞台袖に待機し、カーテンにしがみつくようにして舞台上を見守るという習慣があった。その間、小瓶といった彼女の私物はテーブルの隅に置き去りにしているのだが、出番の直前になると彼女は荷物のところに戻って喉にハーブウォーターをふりかけ、颯爽と表に出ていくのが常であった。
上演前の騒ぎからアランを疑っていたラウルは、エイミーを警護する傍らでアランの動向を探っていた。それで、彼がエイミーの私物置き場の近くで作業していたことから、アランが小瓶のなかに毒を仕込んだ可能性に気づいたのだ。
「以前のように舞台上で何かを落とされてはかなわないから〝怪人の警戒〟を名目に舞台道具周りは隊員に見張らせていた。だから何かやらかすとしたらエイミー・ダーエの私物に小細工をするとは踏んでいたが……睨んだ通りになったな」
「……教えてください。いつから、犯人が本物の怪人ではないと気づいたのですか?」
項垂れたアランが、苦笑交じりに問いかける。もはやこうなっては言い逃れしようがないと、諦めた様子だ。その意志を感じ取ったラウルもまた、アランに付き合って答えてやった。
「はじめから……と言いたいところだが、確信に変わったのは今日の日中だ。ミス・ダーエが襲撃されたとき、怪人らしい人物をシェイラが目撃している。……けれどもそれは、明らかに前二回に出没した怪人とは異なる者だった。それで、怪人を隠れ蓑に犯行を企てる人間がいると確信した」
「どう違ったんですか? 記憶違いでなければ、そちらにいるシェイラさんが、ボックス席に怪人がいたと証言されていましたよね。よく見えなかったとは仰っていましたが、仮面とマントは間違いなくつけていた、と」
「…………怖くなかったからな」
「え?」
ぼそりと答えたラウルの声が、おそらくよく聞こえなかったのだろう。怪訝な顔で聞き返したアランに、ラウルは気まずげに視線を泳がす。それから救いを求めるようにシェイラを見た。
獲物を追い詰める獰猛な鬼隊長から一転、憐憫の情を掻き立てる目線に、仕方なくシェイラは助け舟を出してやることにした。
「怪人だけではなく、ゴースト全般なんですけど……。ゴーストが姿を現すとき、予兆のように先に気配がするんです。前回の公演のとき、そして地下通路でもその予兆があったのに、今日の日中ではそれがなかった。それで、ボックス席にいた怪人は、本物じゃないかもしれないと思ったんです」
〝矢が飛んできたとき、俺はゴーストの気配を感じなかった。……お前も、そうだったんじゃないか?〟
エイミーに飛んできた矢を防ぎ、ボックス席に部下たちを向かわせたあと。シェイラの耳元で、ラウルはそのように囁いたのだ。
言われてみれば、まったくもってその通りだった。あの時、シェイラがボックス席を見上げたのはたまたまであり、ゴーストの気配――青い蝶に導かれたためではなかった。
言ってしまえば気の毒だが、ラウルがあんなにも頼もしく見えたのも、本物の怪人が姿を現してなかったためだろう。鍛え上げた彼のことだから、たとえ本物相手でも脊髄反射的に矢を防いだかもしれないが、その後の対応はもう少ししどろもどろになったはずだ。
(現に今、『怖くなかったから』って、言っちゃったしね……)
うっかりネタばらしをしてしまった鬼隊長の背中を、シェイラは生暖かい目で見守る。そんな彼女に気づいてか、ラウルは仕切りなおすようにこほんと咳払い。そして、改めて真犯人、アランを真っすぐに見据えた。
「根拠はそれだけじゃない。俺が、目撃した怪人がグウェン・ジェラルドではないと断言できるか尋ねたとき、自分が何と答えたか覚えているか?」
「もちろんです。断言できますと……、怪人はもっとふわっと」
「そこだ」
アランの言葉を途中で遮り、ラウルは目を細める。
「お前、いつからゴーストを見れるようになったんだ?」
ラウルの言わんとすることに気づいたアランが、はっと息を呑む。
そうなのだ。シェイラほどの『勘』持ちならともかく、そうでないひとにとって怪人は化け物じみた禍々しい影にしか見えない。では、アランが強い『勘』持ちかと言えば、地下通路で黒猫姿の怪人に気づいていなかったから、その線は薄いだろう。
つまり、アランが取るべきだった正しい反応はこうだ。
「〝怪人と人間を見間違えるなんてありえない〟。お前が嘘をついていないなら、答えはそれだけで足りたはずだ。それを『ふわっと』だなんて言い出すから、お前が嘘をついているとわかったんだよ」
そこからラウルはひとつの仮設を立てた。
服装のことから、シェイラの目撃した『怪人』はグウェン・ジェラルドだったと考えるのが自然だ。だとすると、ボックス席から出てきたのがグウェンだと知りながらアランは嘘の証言を重ねているのでは、と考えたのである。
すると、不思議と全体に筋が通ってくる。
まず、アランはボックス席前で中から出てきたグウェンと遭遇する。その後、グウェンは近くにある扉から裏側へと逃れ、舞台袖に戻る途中で憲兵隊に見つかった。一方のアランはその場に残り、憲兵隊に『怪人は階下に逃げた』と嘘の証言をしたのだ。
ここから考えられる可能性はふたつだ。まずはグウェンが犯人であり、アランが従犯、もしくは何らかの理由でグウェンを庇っているという可能性。もしくはアランこそが犯人であり、グウェンが利用された可能性だ。
そこでラウルは、まずグウェンに尋問を行った。鬼隊長に詰問されたグウェンは、すぐに青くなって全てを吐いた。けれどもそれは、彼が犯人だという証言ではなかった。
〝確かにエイミーが打たれた瞬間、問題のボックス席にいたのは俺だ。けれども、逃げたのは犯人と間違えられるのが怖かったからで、誓ってエイミーに矢を向けたりしていない。信じてくれ!〟
そう叫んで、グウェンは矢が打たれる前後について語った。
まず、証言の中では引き返したと話していたが、グウェンは実際には役作りのため、ボックス席からアイリーンとエイミーのライバル合戦を眺めていた。ボックス席に到着したのは、アイリーンが歌っている最中だという。
いつものように暗がりに佇んで舞台を見下ろしていると、アイリーンに変わってエイミーが舞台に上がった。そして、歌いだそうとした瞬間、エイミーに付き添うシェイラが自分のほうを見たのに気づいた。まずい、と身を隠そうとした途端、エイミーに矢が放たれて大騒ぎになったそうだ。
〝ミス・ダーエを狙ったと思われるクロスボウは、あんたがいたボックス席に落ちていた。あんたが犯人じゃないなら、誰が矢を放ったんだ〟
〝知らない! 信じられないでしょうが、本当なんだ。それに俺がいたときには、ボックス席にあんなものは落ちていなかった!〟
紅い双眼で無慈悲に見下ろすラウルに、グウェンは必死にそう言い募る。
とにかく、シェイラに目撃されたこともあって、グウェンは慌ててその場を逃げ出そうとした。そこで、アランと出くわしてしまった。
〝俺はおしまいだと絶望した。けれども、俺を見たアランはすぐに言ってくれた。ここにいたら犯人と間違えられてしまう。自分が嘘の証言をするから、早くこの場を離れろと。それで俺は、アランに後を任せて舞台裏に逃げたんだ〟
〝……そんな言い分、信じられるとでも? 嘘の証言をしなければ殺すと、彼のことを脅したのではありませんか?〟
目を細めて剣の柄に手を掛けたユアンからは、恐ろしいほどの冷気が漂っている。この期に及んで嘘を付けば、すぐにでもこの場で切って捨てるという凄みが感じられた。それに対し、グウェンはさらに顔を青ざめさせてまくし立てた。
〝違う! 本当に、顔を見てすぐにアランはそう言ってくれたんだ、本当だ!! だからとっさに逃げてしまったが、今は反省しているんだ。信じてくれ!!〟
「グウェン・ジェラルドの証言が本当だとしたら、由々しき問題だ。それがなぜか、お前にはわかるか?」
ラウルに問われたアランは、困ったように眉を八の字にして肩を竦めた。
「わかる気がします。……出会い頭、というのがまずかったんですよね。上手くやったつもりですが、焦ってしまったんですね」
苦笑しつつ、アランは失敗を恥じるように首の後ろを撫でた。
アランの言う通り、グウェンの顔を見てすぐに逃げることを勧めたというのが不自然なのだ。なぜならアランがいたのは二階の通路であり、舞台を見れる場所でない。つまり狙撃騒ぎをアランが知っていたならば、彼はグウェンと会う直前まで、別のボックス席の中にいたことになる。
「仕方なかったんです。グウェンさんは動転していましたが、私はあの人にはさっさと遠くに離れて欲しかった。……あのボックス席が犯行場所で間違いないと思ってもらうために、クロスボウと脅迫文を置かなければならなかったので」
ついに自白を始めたアランに、シェイラは息を呑んだ。
アランは語った。
普段から客席側に出入りしているために、グウェンが前日の舞台が休みのとき、問題のボックス席から歌姫ふたりのライバル合戦を眺めているのを知っていたこと。
あの時も、ボックス席にグウェンがいることを確認してから犯行に及んだこと。
誰かしらが『怪人』に気づいた素振りを見せた段階で、グウェンのいる席のとなりのボックス席からエイミーに矢を放つとしていたこと。
グウェンが逃げたあと、犯行に使ったクロスボウと脅迫状を空になったボックス席に置き、そこからエイミーが狙撃されたと偽装したこと。
「脚本も、演出も、配役も。完璧だったと自負しています。……唯一、私のとっさの演技力が足りなかった。やはり私は、裏方の人間というわけですね」
残念そうに呟いたアランは、憂いを帯びた眼差しを舞台へと向けた。その視線の先では、ちょうどソロ曲を歌い終えたエイミー・ダーエが、光の中心で輝かしい笑みを浮かべていた。
「私はただ、偽りの歌姫からアイリーンを守りたかっただけなのに……」
「アラン・リチャードソン。お前を、エイミー・ダーエへの脅迫、ならびに殺人未遂の咎で取り調べる。同行を願おうか」
ボックス席の手摺りに項垂れて寄り掛かるアランに、ラウルが足を踏み出す。それが合図となって、ほかの憲兵隊も室内になだれ込もうとする。けれども、アランが胸元から取り出した小瓶に、彼らは足を止めた。
「なに、エイミーへの贈り物の残りです」
そう言って微笑み、アランは瓶の蓋を開けた。
「あとでエイミーに教えてあげてください。――これが最後の、嫌がらせだって」
「っ、よせ!!」
ラウルが駆けだして手を伸ばすが、間に合わなかった。小瓶を掲げたアランが、躊躇なくそれを呷った。――否、呷ろうとした。
その手はなぜか途中で止まった。アランの意志ではない。不自然な位置で止まった己の手を、彼本人が不思議そうに見ている。と、アランの指が震えて小瓶が落ち、中身が零れて床に広がった。
「なにが、っ!?」
眉をひそめたラウルだったが、途中でその声が切迫したものに変わった。それもそのはず、ちょうどそのとき、シェイラの目の前を青く光る蝶が横切ったのだ。
驚いたシェイラはつま先で立ち、前に連なる憲兵隊たちの頭の隙間からなんとか中を窺う。すると、ほかにもたくさんの蝶がアランの手の周りをふわふわと舞っている。
蝶は次第に集まり、人の形に膨れ上がる。そして、ぱっと花が散るように青が霧散し、中から怪人が姿を現した。
「…………くっ!」
ラウルの短い悲鳴が聞こえ、彼がその場でたたらを踏むのが見えた。――逃げようとしたのか、気絶して倒れそうになったのかはわからないが、何とか踏みとどまったようだ。もしかしたら、立ったまま気絶した可能性も否めないが。
すると、意外なことに他の憲兵隊たちの間にもざわつきが広がった。
「なんだ、これは?」
「影? いや……」
なんと、ラウル以外の者たちにも怪人の姿が見えているらしい。たしかに、さすがのシェイラでさえも鳥肌が立つほどに、今の怪人はものすごいオーラを放っている。過去二回に出会った時とは、くらべものにならないほどだ。
どうやらアランは、怪人によって金縛りにあっているようだ。ボックス席の温度が下がり、暗く禍々しいオーラを背負った怪人がゆっくりと身を屈める。怪人はそのまま、顔を青ざめさせたアランを優しく包み込むように、腕を肩から前に回した。
…………デ・テ・イ・ケ。
地の底から響くような仄暗い声が、確かにそのように響く。そして怪人は、姿を消した。
金縛りの解けたアランが、ぺたりとその場に座り込んだ。腰を抜かしてしまったらしく、呆然とした顔で空を見つめている。そんな彼のもとに我に返った隊員たちが駆け付け、両腕を抱えて外に連れ出していった。
「隊長。ラウル隊長……?」
アランが連れいかれたことでようやく中に入れたシェイラは、ボックス席の隅で棒立ちになったままのラウルに恐る恐る声を掛けた。そっと手に触れれば、ラウルの手は驚くほど冷たい。勇気づけるためにその手を両手で包み込むと、ギギギギと音がしそうなほどぎこちなく、ラウルがシェイラに首を向けた。
「シェイ、ラ。見ていたか? なんとか、俺は耐えたぞ」
「見ていましたよ。頑張りましたね、すごいです!」
労いの意味を込めて、シェイラは力強く頷く。青ざめたまま、ラウルはどこか達成感に満ちた笑みを浮かべた。けれども、その笑みはすぐに引っ込んだ。
「だが……、もう、限界、だ……」
「え!? ちょ、ラウル隊長!?!?」
声が先細って小さくなり、ラウルはすっと眠りにつくように意識を飛ばすと、シェイラにもたれかかって倒れ込む。慌ててシェイラは彼を抱き留めるが、当然彼女が支えきれるはずもなく、ラウル共々座り込んでしまう。
「だ、だれかー! だれかー!」
気を失ったラウルを放りだすわけにもいかず、シェイラはいまだ進行中の劇の邪魔にならないよう声を殺して助けを呼ぶ。傍からみれば恋人が抱き合っているように見えなくもないが、体格のいいラウルを支えるシェイラは必死である。
そうしてシェイラは、異変に気付いたユアンが戻ってきてラウルを運び出すまでの間、安心したように眠るラウルを抱える羽目になったのであった。