5-4
結論から言うと、怪人は見つからなかった。
かわりに見つかったのは、二階ボックス席――シェイラが人影を見たボックス席の床に隠すように置かれていた、エイミー宛の新たな脅迫状。その隣には、同じくぱっと目につかないような場所に、矢を放ったと思われるクロスボウも落ちていたという。
「また、残念ながら怪人は逃してしまいましたが、ふたりの人物を現場付近で確保しましたので代わりに同行をお願いしました」
「私は関係ないと言っただろう!」
淡々と報告を上げるユアンの隣で、舞台監督のデヴィットが憤慨した様子で文句を言う。逃げられないように両側を憲兵隊に挟まれた彼は、さながら捕まった犯人のようだ。そんな監督に、エイミーがゴミを見るような目を向ける。
「うそ……。まさか監督、私にフラれた腹いせで怪人の真似をして……?」
「ち、違う! ほら見たことか。こんな扱いだと私が疑われてしまう。私から離れてくれ!」
そう言って監督は両側の憲兵隊を押しやろうとするが、当然ながらぴくりとも動かない。凄腕ぞろいの鬼神隊相手に一般人が挑んだところで、子どもが大人に挑むほうがましな力量差なのである。
まったく微動だにしない憲兵隊をぐいぐい押す監督の前にラウルは立つと、腕を組んで彼を見下ろした。
「あんた舞台監督だろ。大事な公演のまえに、表でなにをしてた?」
「客席に向かっていたんですよ! ブランとウェイブが座ってたでしょう。仕事のことで話したいことがあったので、彼らのところに行くつもりだったんですよ!」
「監督が見つかったのはどこだ」
「一階の西階段付近です」
ラウルの質問に答えたのはユアンだ。彼はかちゃりと眼鏡を押し上げると、薄いガラスの向こうからデヴィットに視線を投げかけた。
「隊長から指示を受けたあと、私は隊を二手に分け、問題のボックス席に向かわせました。敵が西階段から降りてくる可能性もありましたから……。うち、1階から向かった隊が先に彼に遭遇、2階から向かった隊も情報を受けて西階段を降り、先の隊と合流した次第です」
「つまり彼は、二手にわかれた隊に挟み撃ちにされたと……」
「たまたまですよ! たまたま!」
ふむと考え込むラウルに、デヴィットが抗議の声を上げる。
「怪人を目撃したというのは?」
「彼です」
そういってユアンが指し示したのは、裏方のまとめ役の青年、アランだった。彼もまた両側を憲兵隊に囲まれていたが、監督と違って暴れたりはしていない。大人しく従っているというより、憲兵隊から逃げるなど考えるだけ無駄だと諦めている顔だ。
「2階に向かった捜索隊が、問題のボックス席付近で彼に遭遇しました。彼に聞くところによると、ボックス席から出てきた怪人が西階段を降りていくのを見たと」
「ボックス席前! 怪人はそこからエイミーを狙ったんだろう? 私よりもよほど怪しいじゃないか! だからエイミー、私は決して怪人の真似事なんて……」
「いやっ! こっち見ないで!」
弁明を続けるデヴィットから隠れるように、エイミーがシェイラの後ろに隠れる。しょんぼりと項垂れる監督をラウルは横目でちらりと見てから、今度はアランに質問を投げかけた。
「君も、なぜ2階ボックス席前などにいた?」
「舞台の最終チェックのためです。舞台正面の2階ボックス席が一番見やすい場所なので、照明の当たり具合に問題ないか、一度はそこから眺めるようにしているんです。そこに向かう途中で、怪人と出くわして……」
「そんなことを言って、本当は君が怪人の真似をして、エイミーを狙ったんじゃないか」
自分が疑われた腹いせに違いない。恨めしそうな顔をして、監督がアランも巻き添えにしようとかかる。もちろんアランは、慌てた様子で首を振った。
「違います! 私が犯人だったら、憲兵隊のひとたちが来るより先に逃げ出しています。それに、私はマントどころか、仮面だってつけていません。ちっとも怪人らしくないじゃないですか!」
「たしかに、言う通りです」
はっとして、シェイラは声を上げた。
「暗かったからよく見えませんでしたが、2階席に見えた人影は仮面をしていたし、シルエットの感じからマントを羽織っていたと思います」
「なら、私もありえない! 見てください、私の恰好を。どこにも怪人の要素がないでしょう。いやあ、やはり本物の怪人が現れたのですね。参りましたな!」
言葉とは裏腹に、自らの無実を主張できて監督はとても嬉しそうだ。それを受けたラウルは、再びふむと考え込んでいる。どうやら彼の様子だと、現場付近で脱ぎ捨てられた怪人衣装が見つかった、なんて報告は上がっていないらしい。
つまり、これまでの話を合わせると、次のようになる。
まず怪人は二階ボックス席に現れ、クロスボウでエイミーに矢を放った。そのあとボックス席を出たところでアランと遭遇し、西階段を降りて去っていくところを目撃される。しかし怪人の足跡はそこで途絶える。怪人の代わりに階段下にいたのは監督だが、彼は怪人の姿をみていない――――。
そんななか、ユアンが再び口を開いた。
「実は隊長。もう一名、同行をお願いした方がいます」
「隊が遭遇したのは二名だっただろ?」
「表側ではそうです。残り一名は、関係者エリアにて確保しました。あまりにそれっぽい恰好をしていたので、うっかり捕らえてしまったと報告を受けています」
新たに引っ張ってこられた人物を見て、シェイラは目を丸くした。憲兵隊に挟まれて立つのは、まさにシェイラの知る『怪人』そのものだったのである。
「ひっ!!」
「か、怪人!?」
「バカ!! 俺だ、俺!」
パニックになりかけた劇場関係者を制止して、渋くも甘い、どこか聞き覚えのある声が響く。おやと思っていると、怪人が仮面を外す。下から現れたのは、舞台『天使と怪人』の怪人役、グウェン・ジェラルドだった。
「グウェン……。あなた、まさか本当に」
「断じて違う」
完全に疑いの目を向けるアイリーンに、グウェンが間髪入れずきっぱり否定。続いて彼は、うんざりした様子でラウルに訴えた。
「オズボーン様、頼みますよ。部下のみなさんに言ってください。こんな格好をしているのは怪人役だからであって、俺はれっきとした人間です。探しているゴーストとは別人だって」
「彼はどこにいた」
「舞台袖を出てすぐの、客席側へ通じる道です。舞台裏よりボックス席を目指した隊員が出くわし、格好が格好だけに勢い込んで捕らえたそうで」
ユアンの説明を聞いたグウェンは、ますます迷惑そうに渋面になる。
ここで先に劇場の作りを整理しておくと、怪人が現れたボックス席は西側席のいちばん端にあり、すぐ近くに裏側に通じる扉がある。公演中はセキュリティの関係で内側から鍵かけられているが、準備時間中は開いており、監督やアランのように客席側に向かうスタッフが使用しているらしい。
舞台裏側からボックス席に向かった隊員も、その扉を目指したらしい。そして、グウェンに出くわしたという。
「しかし、あなたはなぜそんな場所に? 楽屋とはまるで逆方向ですし、演者であるあなたが客席に用があるとは思えませんが」
ユアンの至極真っ当な質問に対し、グウェンは若干迷う様子を見せた。けれどもすぐに諦めたのか、ため息を吐いて口を開いた。
「役作りのためですよ。怪人の役に入り込むために、たまに開演前にボックス席から準備風景を眺めるんです。とくに、前日が休みで日が開いてしまうときは、その方が感覚を取り戻しやすくてね」
「なるほど、そういうわけだったのか」
納得したように頷いたのはブラン支配人だ。彼によると、開演前に劇場内を見回っているときに、今回騒ぎになったボックス席付近でグウェンと出くわしたことがあったという。それに対し、よく客席側に行くというアランも、手を挙げて同意した。
「私も何度か見かけたことがあります。といっても通路ですれ違うだけなんで、ボックス席にいたというのは初めて知りました」
「わざわざ言うようなことでもないし、特に話してこなかったからな。それに、変に目立って怪人騒ぎになっちまわないように、出来るだけ暗がりにいるようにしてきた。みんなが知らないのも当然だ」
確かに、もともと怪人の存在を知っていた劇場関係者たちは、怪人姿のグウェンがボックス席にいるのを見たら、本物の怪人と間違えてしまうだろう。彼の習慣を知らなかったなら尚更だ。
「それで? 昨日一昨日は休演だったから、あんたはボックス席に向かった。その途中で、鬼神隊と出くわしたと?」
「ええ……。まあ、これだけの数の憲兵隊が怪人を警戒している中ですからね。今日はちらっと覗く程度にしておこうと思っていたんです。けど、まさか俺が到着するより先に、本物の怪人がお出ましになるとはね……」
やれやれと肩を竦めるグウェンに、なにやらラウルは思案顔。そして彼はごく軽い調子で、「念のために聞くのだが」とアランに顔を向けた。
「君が見た怪人だが、間違いなく彼ではなかったと言えるか?」
「もちろんです」と、アランはすぐに頷いた。
「怪人はもっとこう……ふわっとしていました。あれは間違いなく本物です。グウェンさんを見間違えるなんて、ありえませんよ!」
えっ、と。シェイラは声を出してしまいそうになるのを、なんとか飲み込む。釈然としない想いでラウルを見れば、彼は特に気に留めた様子もない。
――と、そのとき、ふとラウルがシェイラに視線を向けた。そして、まるで深く考えをめぐらしているかのように口元に手を持っていくと、こっそりと人差し指を唇の前に立てた。
(ラウル隊長……?)
「そういや、脅迫状が見つかったと言っていたな。見せてみろ」
目を瞠るシェイラだったが、ラウルは何事もなかったかのように、話題を変えてユアンに向き直る。
ユアンは懐から封を閉ざされた手紙を取り出し、ラウルに手渡す。その表面には、流れるような書体で『親愛なるエイミー・ダーエへ』と記されている。
受け取ったラウルは封を破くと、中の手紙を取り出して読み上げる。
「『これが最後の忠告だ。舞台に紅い花を咲かせたくなければ、自ら舞台を降りたまえ』。……怪人より愛を込めて、だそうだ」
ぱさりと紙を畳んで、ラウルは一息つく。続いて彼が放ったのは、意外な言葉だった。
「ブラン。憲兵隊として要請する。今夜の舞台は中止。以降の公演も、怪人の脅威の排除が確認できるまでは、無制限に休演としてくれ」
「そんな!!!」
悲鳴を上げたのはエイミーだ。彼女のほかにも、演者や裏方スタッフたちの間にざわめきが広がる。けれどもラウルに言われた当人、ブラン支配人は、やむを得ないと言うように己の顔をつるりと撫でた。
「そうするよりほかに、仕方がありませんな。安全の確認が取れるまで当劇場は封鎖。すぐに外に張り紙を出し、お客様方にご案内と返金を……」
「待って! ダメよ、そんなの!!」
シェイラの腕にしっかとしがみついたまま、エイミーが悲壮感を滲ませて首を振る。ブランは眉を八の字にして、見事な腹回りをそわそわと撫でた。
「私だって涙を飲んでの決断だよ。けれど怪人がここまで強行に出てくる以上、背に腹は変えられない。――君も一通目の手紙が届いたとき、舞台を中止にしてくれと私に頼みに来たじゃないか」
「私がお願いしたのは、あの日の舞台だけよ! この先ずっとなんて……そんな……」
「エイミー。あなたのためよ。従いなさい」
それまで腕を組んでなり行きを見守ってきたアイリーンが、有無を言わさぬ口調できっぱり告げる。さすがは主演女優というところだろう。決して声を張り上げていないのに、静かで落ち着いた声音は、ざわついていたひとびとを一瞬で黙らせる。
「私たち役者は、夢を売るのが仕事。その舞台で、本物の血を流すわけにはいかない。あなただって、死にたくないでしょ」
「そう……だけど……」
シェイラの腕を摑むエイミーの手が、ぎゅっと強くなる。
シェイラは、エイミーの気持ちがわからなくもなかった。彼女は先ほど、『天使と怪人』の舞台に全てを賭けていると言った。事実、この舞台を通じて、彼女はその素晴らしい才能を観客たちに証明してきた。
そのような舞台が、間接的とは言え自分が原因となって幕引きしなければならなくなるというのは、どれだけ無念なことだろう。
そのように思っていると、悔しげに俯いていたエイミーが、意を決したように顔を上げてラウルを見た。
「お願い。最後に今日だけ。今日だけは、舞台をやらせて」
「エイミー、正気になるんだ! そこに刺さっている矢をご覧よ。一歩間違ったら、あの矢は君に刺さっていたんだぞ?」
「けど、そうならなかったわ! 隊長さんが、守ってくれたから」
監督の猛反発を受けても、尚もエイミーは食い下がる。彼女は床に深々と刺さった矢を見て一瞬だけ恐怖に顔をひきつらせたが、それでも気丈に主張した。
「私ってば、もう二回も怪人から生き残っているし? こんなにたくさんの憲兵隊が怪人を見張っていて、しかもシェイラもいてくれて。だ、大丈夫よ! 今日一日生き残ることくらい、ど、どうってことないわ! ね、シェイラ!」
「どうかしらね……?」
唐突に話を振られて、シェイラはうろたえる。けれども彼女が何かを答えるまえに、不思議なことにラウルはあっさりと頷いた。
「いいだろう。そこまで言うなら、止めはしない。今夜の舞台は好きにしろ」
「ラウル様!?」
ブラン支配人が仰天して、目を丸くする。ラウルはそれを受けて、「ただし」と付け加える。
「何か異変があれば、我々鬼神隊はすぐに動く。その時はなんであれ、舞台は中止だ。かまわないな?」
「……わかったわ」
エイミーが神妙に頷いたことで、その後の流れは決せられた。中断されていた準備が再開され、当初よりやや遅れたものの、観客の入場も始まる。
――怪人をめぐる一連の騒動の幕引きが、いままさに始まろうとしていた。