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1-1



 時はさかのぼって、数日前のこと。


 オーケストラの演奏が止み、変わって割れんばかりの拍手が王立劇場のホールに満ちる。第一幕の締めを彩る名曲を歌い上げた歌姫は、赤い垂れ幕がその姿を隠す刹那まで、観客の声援に応じて恭しく頭を下げた。


 その中で、オペラグラスから目を離したシェイラも、思わず感嘆の溜息を洩らした。


「さすが王立劇場が誇る歌姫、アイリーン・バトラー! 由緒ある舞台の看板を張るにふさわしい歌声よね‼︎」


「そーか、そーか。そりゃあ、良かった」


 あくびをしながら答えたのは、シェイラの兄キース・クラーク。シェイラと同じ赤みがかった髪で妹としての贔屓目なしに綺麗な顔立ちをしているが、芸術への感性を持ち合わせていないのが玉に瑕だ。


 そんな兄に憤慨して、シェイラはこんこんと説明する。


「いい? アイリーンは4年前に舞台に上がってからずっと、劇場のトップであり続けているの。王立劇場でそれは、とてもすごいことなのよ! そして今日の演目『天使と怪人』は、彼女の唄声に惚れ込んだ劇作家が書き下ろした新作なんだから!」


「なんで、そんなに詳しいんだよ。めったに舞台なんか観に来ないだろ?」


「これぐらいの予習、基本でしょ」


「真面目か!」


 まあ、そういう奴だけどさ、と兄は呆れたように肩を竦める。


 シェイラは凝り性というか、マニア気質だ。興味を惹かれたことは、とことん調べつくして情報を集める。一方で興味のないことについては一切の関心を示さない。つまりは両極端だ。


 今回は、もともと彼女が本の虫であれこれ物語を嗜んでいることもあり、観劇に乗り気だったのが幸いした。せっかくの機会はとことん楽しみつくすことを信条とするシェイラにとって、主役を張る歌姫や作品のバックボーンを調べることなど、当たり前なのである。


「兄さんもちゃんと観ておかないと損よ。チケット代だって馬鹿にならないんだし……。クリス姉さんも一緒に来れたらよかったのにね」


「仕方ないよ。席が取れそうなのは今夜しかなかったし、クリスが今日の都合が悪いのもわかっていたしな」


 うーんと身体を伸ばしてから、周りのひとたちに倣ってキースが立ち上がる。第二幕が始まるまで時間があるため、観客たちはバーカウンターなどに行って思い思いに楽しむのだ。ホールの外へ向かう兄の背中を、シェイラも追った。


 クリスというのは、キースの妻、クリスティーヌだ。しっかり者の出来る嫁で、キースのことも尻に敷いている。兄はどちらかというとお調子者で抜けたところもあるから、バランスの良い夫妻と言えるだろう。


 最初に舞台を観にいこうと言い出したのは、実はクリスティーヌだ。それに、観劇に興味がないはずの兄が乗ってきた。


 その理由が、観劇の目的が、幼馴染との婚約がダメになってしまった妹を元気づけようとしてのことだということを、シェイラはちゃんとわかっている。


 ――幼馴染のレイノルド・ミラーとの婚約が破談となったのは、一か月ほど前のことだ。


 シェイラとレイノルドの縁組は、まだ7歳のときに決められた。父親同士が仕事上で付き合いがあった、というのが表向きの理由。しかし本当は、ある〝特殊な事情〟を抱えたシェイラの相手を早く決めたい、という両親の切実な願いがあったのだろう。


 ひと昔前ならいざ知らず、最近は貴族界でも恋愛結婚が主流であり、シェイラたちのように親の約束で婚約が結ばれるのは稀だ。とはいえ、あまりに早く決まったためにシェイラが当時それを不満に思うことはなく、成長してからも「そんなものか」ぐらいに考えていた。


 それが崩れたのが、シオン家の令嬢カトリーヌとレイノルドの出会いだ。


 成長をして年頃となったレイノルドは、それはそれは麗しい貴公子となった。色素の薄い銀の髪はきらきらと陽光に輝き、線の細く整った面立ちの中、薄水色の瞳がまるで夢を見ているかのように柔らかな視線を投げかける。


 神秘的な美しさ、という言葉がこれほど似合う男もいない。当然、レイノルドはちょっとしたスター張りに女たちの注目の的となり、出会った女すべてを狂わせる美男子〈白銀の君〉として瞬く間に人気を博した。


 この成長を、純粋に喜びきれない人物がいた。レイノルドの父親である。


 彼は息子が社交界で注目の的となったことで、シェイラ、すなわちクラーク家との縁談を「はやまった」と考えるようになった。実際、ミラー家にはクラーク家よりもずっと上の家柄の令嬢から、日々、恋文が届いていた。


 とはいえ、中流貴族同士ではあるが、家の格はクラーク家のほうがミラー家に勝る。さてどうしたものかと頭を悩ませていたときに、ちょうどカトリーヌ・シオンが現れた。


 シェイラは社交の場にほとんど顔を出さないため面識はないが、カトリーヌは麗しの令嬢として名高い。加えて、シオン家は大成功を収めているこの国一の豪商で、最近は政治に関わる人間をも輩出している。


 そのカトリーヌが、ある夜会でレイノルドと出会い、恋をした。


 それからというものの、カトリーヌは茶会、夜会いとわず積極的にレイノルドにアプローチした。彼女が末娘で、上の娘たちがすでに良縁を結んでいたこともあり、シオン家も娘を諫めるどころかその恋路を後押しした。


 これに、レイノルドの父はすっかり舞い上がり、小躍りをして喜んだ。否、実際に彼が小躍りしたかは知らない。「奴は小躍りして喜んだに違いない」とシェイラの父が憎々しげに吐き出しただけである。


 とにかく、カトリーヌの恋心をこれ幸いとばかりに、彼はさっさとクラーク家に婚約破棄を打診してきた。愛し合うふたりを引き裂くことはできない、シオン家の令嬢が相手なら尚更だと――。


 シェイラとしては、別に構わなかった。

 それどころか祝福の念すら浮かんだ。


 レイノルドとは幼い頃からの付き合いであり、気を使わない相手という意味では楽だ。だがいくら幼馴染だとしても、白銀の君ともてはやされるレイノルドと自分が釣り合っているとは自分でも思わない。


 それに直接聞いたわけではないが、彼もカトリーヌ嬢を憎からず思っているのだろう。多くを語らないところもミステリアス!などと言われているが、基本的にレイノルドはぼんやりしていて、他人に対して無頓着だ。その彼がちゃんと誘いを受けていたというのだから、これは大きな進歩だ。


 幼馴染の幸せを祝いこそすれ、憎む気持ちはこれっぽっちもあらず。


 こういった具合で本人はケロッとしている。だが不思議なもので、彼女の周囲、特に両親などは、このままでは「打倒ミラー家」を家訓に据えそうな勢いである。


「ほれ。お前の分」


 バーテンから受け取ったグラスを、キースが差し出す。礼を言って受け取ってから、ふたりは乾杯をする。細いグラスのなかで、薄金色の液がきらりと揺れた。


 ふたりが今いるのは、王立劇場のラウンジだ。周囲ではふたりと同じように酒の入ったグラスを手にしたひとびとが、談笑にふけったり、絢爛な造りの劇場を堪能したりと寛いでいる。


 ここにいるのは、ほとんどがクラーク家と同じ中流貴族。ほとんどが商業的な成功などにより力をつけた、いわゆる新興貴族だ。


 彼らの上には、さらなる上流階級がいる。古くから続く、由緒ある生粋の貴族の家だ。同じ貴族であってもそこには明確な階級差があり、古参の、それも上流貴族ともなれば、豪商として成り上がったシオン家であっても相手にすらしてもらえないのだ。


 上流貴族たちは区切られた個室で観劇するのが常であり、ラウンジも彼ら専用のものが別にある。古参からは眉を顰められているが、シオン家もそちらに出入りをしていると聞く。だから仮にカトリーヌ嬢がレイノルドを伴って訪れていたとしても、鉢合わせする可能性はほとんどない。


(会ったら会ったで、別にいいけどね……)


 そんなことをぼんやりと考えながら、シェイラはグラスを傾ける。すると、周囲からヒソヒソ声が漏れ聞こえてきた。


「あの子が例の……」


「ああ、レイノルド様に捨てられた。てことは……」


「おい。聞こえてんぞ、ゴラ」


 キースがジロリと睨むと、ぴゃーっと悲鳴がしそうなほどの素早さで令嬢たちが逃げていく。尚も噛みつきそうな剣幕で凄む兄の袖を引っ張り、シェイラは首を振った。


「はい、ストップ。やめなさいよ、恥ずかしい」


「はあ⁈ 聞こえなかったのか? あいつらが話してたのは……」


「放っておけばいいの。いちいち相手したらキリがないんだから」


 だって、なぁと、キースは腑に落ちない顔。その隣で、やれやれとシェイラは眉を下げる。なんだってクラーク家は、自分を除いて血の気の多い人間しかいないのか。


 そのようにシェイラが嘆息していたときだ。


 彼女の視界の端をきらきらと光る小さな蝶のようなものがよぎる。それに気が付いた途端、シェイラは中身を飲み干し、グラスをバーカウンターへと戻した。


「ごめん、兄さん。先に席に戻ってて」


「あ、おい! もうすぐ二幕が始まるぞ!」


「大丈夫! それまでに間に合わせるから!」


 そう叫んでシェイラは後ろ手にひらひらと手を振る。そのまま彼女は、蝶が残していった青白い光の影を追って駆けだしたのであった。




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