5-3
エイミーのあとを付いて――尚、シェイラだけはエイミーに腕を絡めとられたまま、寄り添うように歩くことを余儀なくされている――、一行は『天使と怪人』の公演を控える舞台へと向かった。
念のため警戒はしていたが、道中でゴーストの気配がすることはなく、一行は無事に舞台袖にたどり着く。
やはり本番前とあって舞台の表と裏ではスタッフたちが慌ただしく駆け回っており、機材を運んだり、入念にチェックを重ねたりしている。おそらく、前回のように照明が落ちたりしないように、という意味もあるのだろう。
そんな中、舞台の中央にはひとりの女がたたずんでいる。舞台道具などが前後を行き来するのにも気を留めず、女――王立劇場の歌姫アイリーン・バトラーは意識を集中させるように目を閉じている。ふいに彼女はすっと息を吸い込み、歌いだした。
(すごい……)
何もかも忘れて、シェイラはアイリーンの歌声に引き込まれた。それほどの力が、アイリーンの歌声にはあった。
透き通った音色が高い天井に響き渡り、作業に没頭していたひとたちも思わず手を止めて顔を上げる。清廉な響きは、まるでそれ自体が祈りのようだ。目を閉じたまま、細く白い腕を天に掲げるアイリーンは、天上に歌を捧げる巫女のごとく神々しい。
「嫌んなっちゃうわ」
アイリーンの歌声に夢中になっていたシェイラの耳に、ぽつりと零れ落ちたエイミーの言葉が響く。横を盗み見ると、エイミーは舞台の中央で歌うアイリーンを瞳に映したまま、どこかやりきれない色を顔に浮かべていた。
「スランプになったっていうからチャンスだと思ったのに、すぐに立ち直っちゃうし。おまけにこっちが血反吐を吐く思いでのし上がってきたのに、涼しいところでもっと高いところにいる。……ほんと、火を付けられちゃうから嫌なのよ」
そう呟いたエイミーの目には、決して負けたくないという、ライバルらしい強い炎がめらめらと燃え上がっていた。
『天使と怪人』の終盤の見せ場のひとつ、歌姫が怪人の誘惑を断ち切り、己の歌声で戦うことを決めるシーンの名曲を、アイリーンは歌い上げた。一息ついたアイリーンが目を開けるのと同時に、劇場にはスタッフたちの拍手が鳴り響いた。
「ブラーボ!」
そう叫んで、客席でブラン支配人が立ち上がって手を叩く。公演の再開ということで、様子を見に来ていたようだ。その隣で演出家のウェイブも、朗らかな笑みを浮かべて頷いている。そうした皆の拍手に応えて、歌姫は美しく一礼した。
それらを舞台袖で見ていたエイミーは、武者震いするように体を震わせると、ぐっと両手を握りしめた。
「うー、見てらんない! 行きましょ、シェイラ!」
「どこに? もしかして、エイミーさんも歌うの?」
「もちろんよ!」
エイミーはメラメラと闘志を瞳に宿したまま力強く頷く。そして、景気付けとばかりに先ほどの喉スプレーをシュッシュシュッと口の中に吹き付けた。
「私たち、こうやって本番前に一曲だけ歌いあうの。その日の調子を確かめる意味もあるんだけど、ほとんどライバル合戦みたいなものね。とにかく、アイリーンだけに華を持たせてなんかやらないわ。私の歌、しっかり聞いててね!」
ぱちんとキュートにウィンクを飛ばしたエイミーに、なるほど、そういう文化があるのかと新鮮な気持ちでシェイラは頷く。けれどもエイミーは、なぜか腕を組んだまま、シェイラごとずんずんと舞台に出ようとした。
「ちょっと、エイミーさん? もしかしてだけど、私もつれていくつもり?」
「もちろん! シェイラには一番近くで、私の歌を聞いてほしいもの!」
嬉々として答えるエイミーは、これっぽっちもシェイラを解放するつもりはなさそうだ。ちらりとラウルを見れば、諦めろというように首を振られる。まあ、たしかにこれは本番の舞台ではないから、彼女の警護という意味でも傍にいたほうが無難だろう。
そんなわけで、エイミーに引きずられたシェイラ、そのあとを追うラウルを筆頭とする憲兵隊3名という、計5名がぞろぞろと表舞台へと出ていく。それに気づいたアイリーンは普通にエイミーに場所を譲ってやろうとしたが、一瞬遅れてシェイラを見て変な顔をした。
「エイミー。どうして彼女を捕まえているの?」
「仲良しだからよ。アイリーンは手出ししないでね、私のお友達なんだから」
つんと澄まして、エイミーが答える。けれどもその横顔は、どこまでも得意げだ。それで、エイミーがシェイラに懐いたことを察したのだろう。アイリーンはなんとも言えない視線――どことなく、「迷惑をかけてごめんなさいね」という謝罪を感じる――でシェイラを一瞥すると、今度こそ場所を譲ってくれた。
横目でエイミー一行を見つつ、スタッフたちが作業に戻っていく。先ほどのように聞き惚れて手が止まることはあっても、基本的には開演に向けた準備を優先する方針なのだろう。エイミーもそれをわかった上で、むしろ闘志を燃やして揉み手した。
「さあて、いくわよ。あー、あー、あー。こほん!」
さすがに歌うときは姿勢を正すことにしたらしい。シェイラに絡めていた腕をとき、両手を腹部のあたりに当ててエイミーが目を閉じる。それを見守りながら、シェイラがこの隙にラウルの隣まで離れることにした。
しかし先日も上がらせてもらったが、舞台の上から見る景色は、客席から見るのとまた違って面白い。そんな風に思いながら、豪華絢爛な劇場の内装に目を凝らしたとき。舞台の真横、二階ボックス席の暗がりのなかに長身の人影があるのをうっすらと捉えた。
明りが乏しくよくは見えないが、顔のあたりには白い仮面が浮かんでいた。
「っ! エイミーさん!!」
シェイラが叫ぶのと、ラウルが動くのとがほぼ同時だった。いや、ラウルのほうが一瞬早かったかもしれない。なぜならシェイラが叫んだときには、すでにラウルの手はエイミーの肩を摑んでいた。
そこから先は、まるでスローモーションのように見えた。ラウルが庇うように、エイミーを胸のなかに捉える。それと同時に彼は剣を引き抜き、空中で横凪ぎに振るう。
ガンッという金属がぶつかり合う嫌な音がして、軌道を変えられた矢が舞台端すれすれの地面に勢いよく刺さった。
「いっ、いやあああ……っ」
状況を把握したらしいエイミーが、ラウルの腕の中で顔を真っ青にし、途端にガタガタと震え始める。スタッフたちも騒然とするなか、ぺたりと座り込んでしまいそうになる彼女を部下のひとりに預けると、ラウルは素早く指示を出した。
「お前たちは彼女とシェイラ嬢を保護し、この場で待機だ。ユアン!!」
「はい、ここに」
ラウルが声を張り上げると、客席の扉のひとつが開いてユアンが顔をのぞかせる。そこそこ距離があるのに、鬼神隊の一員たるもの、これくらいは聞こえて当たり前らしい。その証拠に、若干の戸惑いを見せるシェイラに反してラウルはすらすらと先を続けている。
「2階席以上から狙撃を受けた。向きは西側、敵はまだ近くにいるはずだ。客席およびロビーに配置している隊員をすべて向かわせろ」
「2階席です!」
シェイラは思わず声を上げた。視線だけで先を問うラウルに、矢が飛んでくる直前に人影の見えたボックス席を指さし、シェイラは答える。
「怪人がいました。あそこの、舞台横の席です」
「だそうだ」
にやりと笑みを浮かべて、ラウルは再びユアンを見る。
「裏から何名か向かわせる。お前は表から向かえ。猫一匹逃がすな!」
「はっ!」
華麗に身を翻し、ユアンの姿が扉の向こうに消える。残されたラウルも、エイミーの警護に当たるのとは別の隊員たちに手で指示を出した。
走っていく隊員たちを見送ったあと、ラウルはくるりとシェイラのほうに向きなおる。彼はまっすぐにシェイラのもとへくると、身を屈め、耳元に顔を寄せてすばやく何かを囁く。言われたシェイラのほうは、困惑を滲ませて彼を見た。
「は、はい。隊長の言う通りです。おかしいな、とは思ったんですけれど……」
「その答えで十分だ」
獲物を見つけた獣のように瞳を光らせ、ラウルは身を起こす。そして状況が摑めず戸惑うシェイラの肩をぽんと叩いてから、アイリーンら役者や劇場スタッフ、さらには客席にいるブランとウェイブに向けて声を張り上げた。
「見ての通り、怪人が姿を現した。安全のため、一度全員をホールに集める。この場にいる者は、動かずに待機してくれ。――そうだな。強いていえば、万が一にも狙撃されないよう、物陰にいることをすすめよう」
「か、かしこまりました。ほら、みんな聞こえただろう。準備は一旦ストップだ。舞台袖に一旦さがりなさい、ほら早く!」
ラウルの指示を受けて、ブラン支配人がぱんぱんと手を叩いて劇場関係者を急かす。もちろん矢でいられたらかなわないと、自分もいそいそとホールの隅に移動するのも忘れない。
そうして着々と事態が進行していくなか、シェイラは警護に当たってくれている憲兵隊に連れられて舞台裏へと移りながら、エグエグと泣くエイミーを慰める。せっかく気合を入れて整えたのに、彼女のメイクは涙でぼろぼろになっていた。
「しぇ、しぇいらあ……やだよお……死にたくないよお」
「大丈夫、大丈夫だから。ほら、安全なところにいくわよ」
エイミーの背中をさすりつつ、シェイラはちらりと、いまだ舞台の中央に残って指示を飛ばすラウルを見た。
さすがは隊長。当然ながら場慣れをしており、怪人の奇襲という一大事にあっても少しも焦るところはない。地下通路での一件がなければ、ゴースト相手にラウルがあんなに怯えるなど、想像もつかなかっただろう。
と、そこまで考えたところで、シェイラは何か引っかかるものを感じた。
(……ん? 怯える?)
そういえばゴースト嫌いのくせに、今のラウルはいやに頼もしく見える。いや、彼が勇気ある男なのはわかっているし頼もしいのは大変結構なのだが、いま相手にしているのは怪人だ。つまり、ラウルが大嫌いなゴーストだ。
そのとき、シェイラの頭の中に、先ほどラウルに耳元で囁かれた問いかけがリフレインする。その意味に思い当たった途端、チリッと閃く光があった。
(だとすると、怪人は……)
できることなら、今すぐにラウルと話したかった。けれども、多くの目があるなかで堂々と話しかけるわけにもいかない。
仕方なくシェイラはエイミーと寄り添ったまま、ぞくぞくと舞台裏に集まるひとの顔を順番に眺めては考えを巡らせたのであった。