5-2
前回訪れたときより、王立劇場は賑やかだった。それもそのはず、2日休演をしていた『天使と怪人』が復活するので、演出の再確認や舞台装置の最終チェック、俳優たちの着付けとてんやわんやなのだ。
そんななか、シェイラはラウルに連れられ、当初の予定通りエイミーの楽屋を訪れていた。
「ミス・ダーエ。君のことは我々憲兵隊が全力で守る。安心して我々に任せてほしい」
「ゴースト相手に、安心なんかできるわけないじゃない」
「だろうな」
ぼそりと不満げに答えたエイミーだったが、ラウルは気を悪くすることなく、平然と頷く。それから彼は、一歩後ろで控えていたシェイラの腕を引いてエイミーの前に立たせると、シェイラの背中を軽く叩いた。
「たしかに俺たちはゴースト専門じゃない。しかし、我々には彼女がいる。霊感令嬢シェイラ・クラークだ。ゴーストのエキスパートである彼女の『勘』と、俺たち鬼神隊の力が合わされば、怪人相手だろうが無敵だ。大舟に乗った気でいろ」
「……頑張りましょう!」
いくらなんでも盛りすぎだ。そう指摘したいのは山々であるが、不安を感じているだろうエイミーを勇気づけてやらねばならない。なのでシェイラも、話を合わせて力強く握りこぶしを作る。
そんなシェイラと、ラウルたち鬼神隊をうさん臭そうに見てから、エイミーは鏡台へと向き直った。
「私、準備があるの。見ての通りメイク中だし、衣装にだって着替えなきゃ」
「わかっている。本番前だしな」
「なら、出てってくださる? それとも、そこで見ているつもり?」
白粉用のパフを手に持って、エイミーが鏡越しにじろりと男性陣を睨む。
結果としてエイミーの準備が整うまでの間、楽屋の中にはシェイラだけが残り、ラウルをはじめとした鬼神隊のメンバーは扉の外を守ることになった。
しかし、気まずい。
熱心に舞台メイクを仕上げていくエイミーを横目で見ながら、シェイラは少し離れた場所で腰掛け、息を潜めていた。怪人のターゲットに選ばれているから無理もないが、エイミーは非常にピリピリしている。迂闊に邪魔をして怒らせるのは面倒である。
しかし意外なことに、室内の沈黙を破ったのはエイミーのほうだった。彼女は鏡に顔を近づけてアイシャドウを塗っていたが、ちらちらとシェイラを盗み見て、最後には「ちょっと!」と声を上げた。
「ぼーっとしていないで、ちゃんと見ててよ! 急にあいつが出てきちゃったらどうするのよ」
「見ていますよ! それに、ゴーストが出るには前兆があります。私だったら、絶対に前兆を見逃しません」
カチンと来て、ついシェイラも強気に言い返す。するとエイミーは「ほんとにー?」と疑わしそうな顔をした。
「なら、いいけど。……ほんと最悪! 死ぬ気で舞台を摑んだっていうのに、なんで怪人に殺されかけなきゃいけないのよ。私が何したっていうのよ」
ぶつぶついいながら、エイミーはメイクを再開しようとする。――否、しようとした。けれども、彼女の手は震えて、メイク道具の蓋を上手く開けることが出来ない。
「もう……もう!」
苛立ちをあらわにするエイミーだが指先の震えは止まらず、よく見れば顔も蒼白である。どうやら強がっていただけで、やはり彼女は怯えていたようだ。シェイラは見かねて立上り、傍に行って手を伸ばし、蓋を開けてやった。
「……ありがとう」
「いえ。――やっぱり、怖いですよね」
「怖いわよ! 当たり前でしょ!」
尋ねた途端、エイミーはくわっと目を見開き叫ぶ。それから新鋭の歌姫は、涙目になって視線を逸らした。
「ほんと、なんで私がこんな目に合うのよ……。せっかく大きな舞台を摑んだのに、『ふさわしくない』って何よ。実力じゃないって言いたいわけ? 怪人までそんなこと言うの、ふざけないでよ……」
「そこ、私もずっと気になっていたんですが」
ハンカチをエイミーに渡してやりながら、シェイラはせっかくなので気になっていたことを尋ねてみることにした。
「『お前は王立劇場にふさわしくない』。脅迫状に、そう書いてあったんですよね? 以前、相手が人間なら、やっかみを受けてもおかしくないって言ってましたけど……怪人がそんなことを言う理由に、何か覚えはありませんか?」
「……あなた、ゴーストの専門家なんでしょ。憲兵隊と同じことを聞くのね」
化粧が崩れないように目元を軽くハンカチで押さえながら、エイミーがじとっとシェイラを見る。それに対し、シェイラは軽く肩を竦めてみせた。
「怪人の性質上、筋が通らないなって気になっていたんです。だって怪人は素晴らしい歌姫の前に姿を現す、いわば音楽の精霊みたいなものですよね。その怪人が、エイミーさんを攻撃する理由がわかりません。だってエイミーさんの歌声、本当に素敵だったもの」
「あ、あら、そう? まあ、当然よね。なんたって、私だもの」
途端に気をよくしたのか、エイミーはまんざらでもない顔。別におべっかを使ったわけではなく本心だったが、シェイラはしめしめと思いつつ、さらに踏み込んで尋ねる。
「何か、怪人の倫理に反するようなことをした覚えはないですか? ちょっとズルしちゃったかな?ぐらいのことでも良いんですけど……」
「訂正するわ。あなた、憲兵隊よりすごいこと聞くのね。あと、ストレートに聞きすぎじゃない?」
ふたたびエイミーは、ジト目でシェイラを見る。けれども相当参っているのか、やけくそ気味にパタパタと白粉をはたきながら、「ないわよ!」と強い口調で否定した。
「まあグウェンの言う通り? ちょっと、監督に気に入られちゃっているけど? けど、神に誓ってあんなオジさんに色目なんか使わないわ! ひどいのよ、私がデヴィットと寝て、役を射止めたなんていう輩もいるの。うー、考えただけで鳥肌が出る!!」
「じゃあ、グウェンさんはどうですか? エイミーさんがちょっかいを出した、という話を小耳に挟んだのですけど」
「誰がそんな話したの!? ていうか、ほんと、質問がストレートすぎない!? あなた貴族のお嬢さんよね!?」
ぎょっとして、エイミーが目を剥く。けれどもそんなこと言われたって、社交界にあまり顔を出さないシェイラに貴族的な腹の探り合いは出来ない。尋ねたいことは真っ向から聞く。つまりは直球勝負である。
エイミーも諦めたらしく、疲れたように溜息を吐く。そして頬杖をつき、「知らなかったのよ」と唇を尖らせた。
「アイリーンとグウェンのこと……。劇場のみんなにとっては公然の秘密だったらしいけど、誰も教えてくれなかったし? それに、グウェンって素敵じゃない? いいなあって……。けど、そんな殺されちゃうほど悪いことした!?」
またしても涙目になるエイミー。このままでは、せっかくの化粧が崩れてしまう。仕方なくシェイラは彼女を宥めるために、背中をさすってやった。しかし、なぜかそれが逆効果になったのか、ついにエイミーはエグエグと泣き出してしまう。
「……ひどいわよ。頑張っているのに尻軽女って覚えもない後ろ指さされるし。イケてる男にフラれた上に、相手はライバルの女と付き合っているし。おまけにゴーストに祟られる? なんで私ばっかり、こんな目に合うのよぉ……」
「あー……、つらいですよね。よしよし。大丈夫ですよ、落ち着いてください」
何がなんだかわからないが、シェイラはよしよしと背中をさすりながらエイミーを慰める。要は、彼女は負けん気が強く、もしかするとちょっとばかり性格に難ありかもしれないが、言うほど悪いひとでもないようだ。
しばらくして、エイミーはずびっと鼻をすすりながら赤くなった目元を拭った。
「……ありがと。あなた、優しいわね。霊感令嬢なんて変な肩書ついているから、どんな妙ちくりんな子がきたのかと思っていたけど」
「大丈夫です。その肩書が変だと思っているのは、私も同じですから」
真顔で頷くシェイラに、エイミーは吹きだす。少しだけ気が紛れたのか、エイミーは自分のハンカチを取り出してチンッと鼻を噛んだ。
「さっきの思い当たる節はないかって質問の答えだけど……強いていうなら、一時期、アイリーンがスランプ気味のときがあったのよ。まだ公演前だったんだけどね。いま思えば私がグウェンにアプローチしてた頃なの」
「じゃあ、もしかしてアイリーンさんはそれを気に病んで?」
「わかんないわよ、本人に聞いたわけじゃないもの。けど、怪人がそう判断しないとも限らないじゃない。私のことを、お気に入りの歌姫を邪魔する悪い女だって」
泣いたために、少しだけ掠れた声でエイミーはそう話す。気を取り直すように頬をぱちんと軽く叩くと、彼女は香水瓶に似たおしゃれな小瓶を取り上げて、口を開けて喉のなかにシュッと拭きかけた。
「これね、喉にいいハーブウォーターなの。お母さんに作り方を教わったのよ、とっても効くの……。それで、なんの話だった?」
「怪人によく思われていないかもって話です」
「そう。私、怪人に嫌われているのかも」
助け舟を出すと、エイミーは頷く。喉に手を当てて「あー、あー、あー」と調子を確かめてから、エイミーは改めて憤慨したようにシェイラに向き直った。
「けど、こんなことで舞台を降りるなんて冗談じゃないわ。怪人の贔屓はアイリーンかもしれないけど、私だって女優よ。人生全部賭けて舞台に立っているのに、ちょっと、その――人外のパトロンの気分を損ねたからって、遠慮なんかしてやるもんですか!」
「その意気ですよ」
だんだんとエイミーに同情しはじめていたシェイラも、勇気づけるように頷く。
「まずは今晩の舞台、ばっちり成功させちゃいましょう。そのために、私もラウル隊長も、エイミーさんのことしっかり守りますから!」
「~~っ、シェイラちゃんー」
えーんと声を上げて、エイミーがシェイラに抱き着く。そして彼女は、驚いて声も出ないシェイラにすりすりと頬をこすりつけた。
「私の味方はあなただけね。お願いよ、ぜったいに見捨てないでー」
「ちょ、ちょっと! わかったから止めて……こら!! やめい!!」
ぎゅうと強くしがみつくエイミーと、それを引き剝がそうとするシェイラ。不毛な争いを繰り広げながら、シェイラの頭の片隅には疑問がよぎる。
本当に怪人のゴーストはアイリーンを贔屓して、同じく才能に溢れた歌姫であるエイミーを傷つけるようなことをするだろうか、と。けれどもその問いは誰に向けられるでもなく、思考の海のなかに静かに溶けていったのであった。
「……部屋の中でなにがあった?」
エイミーの準備が整い、楽屋の外に通じる扉を開いた時。シェイラたちを見たラウルは、開口一番そのように言い放った。
それもそのはず。シェイラの腕にエイミーがぴったりと腕を絡め、甘える猫のように身を摺り寄せていたのである。怪訝そうな様子で眺める鬼神隊メンバーのまえで、エイミーは上機嫌に声を弾ませた。
「何って、仲良くなったのよ。ねー?」
「このひとが離してくれないだけです。隊長、助けてくれませんか?」
ラウルたちに見せつけるように頬を寄せるエイミーを指さし、淡々とシェイラは事実を述べる。けれどもエイミーは「もう!」と頬を膨らませるだけだ。
「シェイラったら! 私たちの仲じゃない」
「仲って、勝手にあなたが懐いただけじゃない」
「あん、冷たくしないで! 私、同性の友達っていないの。シェイラだけが頼みの綱なの!」
「だからってベタベタしなくていいでしょ!?」
ぎゃんぎゃんと言い合う――いや、ひとりはそうなのだが、もうひとりはひどく楽しそうである――ふたりの女に、ラウルは軽くこめかみを押さえる。ややあって呆れた様子で赤い双眼で見下ろした彼は、くいと後ろを指し示した。
「なんでもいいが、出てきたからにはどこかへ行くつもりなのだろう? 開演にはまだ時間があるが、どうするんだ」
「決まっているでしょ。戦場に向かうの」
シェイラの腕にしっかと捕まったまま、エイミーは打って変わって挑戦的な笑みを浮かべる。堂々とした舞台女優としての片鱗を見せる彼女を後押しするように、廊下の奥から微かな旋律が響いて聞こえた。答えを待つシェイラたちに、エイミーは悪戯っぽくウィンクをした。
「私たち役者の戦いの場――舞台の上に、決まっているじゃない」