4-1
ぱちりと、シェイラは目を覚ます。
それは見慣れた、自室のベッドの上であった。
「おどろいたのよー。シェイラちゃん、ぐっすりねむっちゃってて、ぜんぜん起きないんだもの」
翌朝、シェイラの部屋を訪れたクリスティーヌが、窓のカーテンを開けながらそう言ってのんびり笑う。すっかり明るくなった陽の光が、目にしみて眩しい。
彼女によれば、シェイラは鬼神隊に連れられて――正確には運ばれて帰宅したらしい。シェイラにそのときの記憶は一切ないが、夜半に一度自室で目を覚まし、いつのまに帰ったのだろうと驚いたことだけは覚えている。
「お医者様にも見ていただいて、眠っているだけということだったから連れてきてくれたみたいだけど……。ねえ、シェイラちゃん。本当に大丈夫? 眠る前に、何かあったのではないの?」
心配そうに顔を覗き込まれて、シェイラは口に運ぼうとしていたフルーツの一欠片を皿に戻した。夕飯を食べずに眠ってしまった彼女を気遣って、クリスティーヌが持ってきてくれたものだ。
深い眠りに落ちる前の最後の記憶を、シェイラは呼び起こす。それは、影のように静かに佇む立ち姿と、ふわりと舞うマントの裾。そして、悲鳴。
そこまで思い出したところで、シェイラははっとしてクリスティーヌを見上げた。
「クリス姉さん。昨日私を運んできてくれた中にラウル隊長はいた? 隊長は、その、具合悪そうだったりしなかった?」
「オズボーン様が? どうかしら。昨日いらしたなかに、あの方はいなかったわ。かわりにご挨拶くださったのは、副隊長の……たしかブリチャード様、だったかしら? とても綺麗なすらっとした方なのに、涼しい顔でシェイラちゃんをお姫様抱っこしてて、すごく絵になってたのよー」
「そ、そうだったんだ……」
頰に手を当てて、ほんわかと微笑む義姉に、シェイラはぎこちなく答える。シェイラは別段太ってはいないが、ずば抜けてスリムかといえばそんなこともない。その自分を、あの中性的な美貌に満ちたユアンに運ばせたなんて、色々と申し訳がなさすぎる。
とはいえ、気になるのはユアンより、昨日姿を見せなかったというラウルの方だ。
単に立場上忙しくユアンに任せたのかもしれないが、彼はゴーストがずば抜けて苦手なくせに、それを押し殺してシェイラと共に地下に入るほど義理堅い。よほどのことがなければ、目の前で倒れたシェイラを部下に任せはしないだろう。
(……やっぱり、私が手を離しちゃったからかな)
少しだけ罪悪感が沸いて、シェイラは頰を指でかく。
ラウルはどうしたわけか、シェイラと手を繋いでいる間だけゴーストを本来の姿で認識できる。それでもゴーストの気配が怖いのは変わらないが、相手の姿がわかる分、幾分かましなのだと話していた。
シェイラが倒れた瞬間、怪人のゴーストは目の前にいた。その存在感は黒猫の姿をしていたときとは、くらべものにならない。――シェイラが手を離してしまったために、異形の姿を目の当たりにしてしまったラウルは、たまらなかったことだろう。
頑張って黒猫の姿を見ようとして気を失いかけたラウルを思い出し、シェイラは胸の前で十字を切る。ラウルがどうか、ショックで寝込んでいませんように。
そのラウル・オズボーンがシェイラを訪ねて屋敷に姿を現したのは、彼女が義姉と一緒にすこし遅めの昼食を終えた頃合いだった。
「どうぞ」
「悪いな。ありがとう」
そう言って紅茶に口をつけたラウルを、向かいに座るシェイラは変な顔で見るよりほかなかった。
彼はまるで当たり前のようにソファに座っているが、これはとても可笑しなことだ。だって、ラウル・オズボーンだ。闇夜に燃え上がる炎のような赤い瞳も、ワイルドな魅力を兼ね備えた無駄に整った容姿も、狭い部屋のなかでは若干ミスマッチ感の否めない堂々とした居住まいも、全てが間違いなく彼だ。そのラウル・オズボーンが、クラーク家の居間にいる。それも私服だ。鬼神隊の制服ならいざ知らず、彼の服装は完全にプライベートのそれだ。
というか何気なく着ているが、彼の身に着けているものはキースやシェイラの父ラッドが着ているものより数段仕立てが良さそうだ。プライベートらしく若干寛がせた首元といい、制服のときとはまた違った色気が醸し出されている。名のあるデザイナーの仕立てなのだろうが、一体全身でいくらかかっているのだろう。
そんな不躾なことを考えていると、ラウルの赤い双眼と目があった。
「よかった。すっかり元気そうだ」
ホッとしたように息を吐いた彼に、シェイラは逆に慌てた。
「私は大丈夫です! すみません。昨日は途中で倒れてしまって……。それより隊長のほうこそ、大丈夫ですか?」
「俺が? 大丈夫って、何がだ?」
「あの後ですよ! 隊長、ゴーストの姿、私と手を離した状態で見てしまいましたよね? 気を失って、倒れたりしていませんか? 頭とか打ってしまったとか……」
「打ってない! 君は俺を、何だと思っているんだ」
いささか心外そうに、ラウルは断言した。
「意識のない女を腕に抱いているんだ。のんきに倒れるわけがないだろ」
「持ちこたえたんですか! すごいじゃないですか! じゃあ、あのあと怪人って、どうなったんです?」
素直に感動したシェイラは、純粋な興味から尋ねる。するとラウルはすっと目を逸らした。奇妙な沈黙が数秒。ラウルはぼそっと答えた。
「記憶は、ないんだがな」
「気失ってるじゃないですか! ていうか、立ったまま!? それはそれですごいですね!?」
憮然と眉根を寄せるラウルの頰は赤い。
彼が白状したことによれば、眠ってしまったシェイラを腕に抱いたまま怪人と対峙する羽目になったラウルは、立ったまま意識を飛ばしたらしい。だが、彼の悲鳴に駆け付けた鬼神隊の面々がすぐにふたりを回収したため、大事には至らなかった。その素早さたるや、近くで作業していたアランたち劇団員がラウルに声を掛けるタイミングを逃すほどであったという。
次に気づいたとき、彼は王立警備隊の本拠地のある王城近くの詰め所に向かう車に乗せられていた。そして、後から詰め所に戻ってきたユアンから、シェイラの体に異常がなかったことと家に送り届けたこととを聞いたそうだ。
「あの野郎に、言わんこっちゃないとネチネチ言われた。苦手なくせに、わざわざゴーストに会いにいくから阿呆だ。結果は最初から見えていたとか、云々かんぬん」
「あ。もしかして、今日私服なのも……?」
「ああ。野郎が一日休んで頭冷やしてこいって、な。ついでに散々迷惑かけた君に、しっかり頭下げてこいとも言われた。ユアンの奴、隊長は俺だぞ……」
クラーク家の居間に、なんとも言えない沈黙が流れる。誤魔化すようにこほんと咳をしてから、彼はあらためて頭を下げた。
「だが、今日ここに来たのは、ユアンに言われたからじゃない。事実、俺が不甲斐ないばかりに、君を危険に晒してしまうところだった。本当に、すまなかった」
「やめてください、色々と不可抗力でしたし……。それに、先に倒れちゃったのは私だもの」
シェイラは慌てて手を振る。それでもラウルは気が済まないのかしかめ面をしてるが、そもそもシェイラが気を失ったことに関して彼に非は何もない。
黒猫の明るいグリーンの瞳。それと目があった途端、強烈な眠気を覚えたことを思い出し、シェイラは考えを巡らせて人差し指を口元に当てた。
「あの時、猫ちゃんと目があったんです。それから立っていられないほど眠くなりました」
「つまり、あの猫……怪人の仕業ということか?」
「確証はありません。けれど、たぶんそう。あれ以上、私たちに後を追わせないために」
「それで念を入れて、君を眠らせた、か」
口をへの字にして、ラウルは腕を組んだ。
「ゴーストって奴は、思った以上に厄介だな。元から好んで関わろうとも思っちゃないが、ますます嫌になる」
「一応言っておきますけど、あのゴーストはかなり特殊ですよ。あんなの、私も会ったことありません」
そうだ。黒猫の姿に擬態していたことも、シェイラの意識を奪って消えたことも、何もかも規格外だ。さすが、王立劇場の怪人と、代々に渡って言い伝えられてきただけはある。
「そんな特別なゴーストが、わざわざ私たちを連れ回し、アイリーンさんやアランさんと引き合わせた。そこには必ず、意味があるはずです。一連の騒ぎに関わる、何かが……」
シェイラはしばらく考え込む。
事の発端は、『天使と怪人』の上演中に本物のゴーストが現れたこと。これは間違いない事実だ。あれが本物のゴーストだったことはシェイラ自身が証明できるし、地下通路でも再び姿を見せたことからあれが「王立劇場の怪人」と呼ばれる存在と一致しているとも推測できる。問題はそのあとだ。
エイミーに届いた脅迫状は怪人によるものなのか。照明の落下はどうか。もし怪人のせいなら、なぜエイミーは狙われたのか。
怪人以外に犯人がいるなら、それは誰か。
おそらくそれらを解く鍵を与えるために、怪人はシェイラとラウルを先導したのだろう。だが、先に挙げた謎の数々と、昨日の探索を通じて新たにわかった事柄がどう結びつくかがいまいちわからない。
アイリーンたちの会話からわかったのは、アイリーンとグウェンが特別な関係にあるということと、アイリーンが仕事とプライベートの両方からエイミーと対立していたということ。アランについては、強いて言うなら、アランは自分のこと以上にアイリーンに疑いの目が向くことを恐れている。
「ゴーストは私たち人間とは違う。意味もなく存在しないし、意味もなく私たちに干渉できない。……ああ、もう! 答えは近くにあるはずなのに!」
髪を掻きむしって悔しがるシェイラを、気がつけばラウルが呆気にとられたように見ている。そうして、彼は不思議そうに眉根を寄せた。
「君は態度を変えないな。俺を、責めたりはしないのか?」
「責める? どうしてです?」
言っている意味がわからず、シェイラは首を傾げる。だが、ラウルは何かを躊躇うように「ああ、いや……」と言いよどむ。ややあってから彼は、渋々口を開いた。
「つまりだ。俺は昨日、散々情けない姿を君に見せた。鬼神隊の隊長として、いや、それ以前に男としてな。こういっちゃなんだが、呆れただろう。俺のゴースト嫌いは身内か隊の者か、ほんの限られた人間しか知らない。だから、その、つまり――――」
「……つまり?」
まるで苦悶するようにしかめ面をして黙り込んでしまったラウルを促して、シェイラは彼の顔を覗き込む。するとラウルは覚悟を決めたように一気に吐き出した。
「つまりだ! 俺はいま、盛大に恥ずかしい。いっそのこと正々堂々、真正面から俺を罵倒してくれ! それと出来るなら、俺のゴースト嫌いは内密で頼む!」
「もしかしなくても、今日の本題そっちですよね!?」
「それは違う!!」
力強く否定した割に、続いてラウルは「違う、のだが……」と視線を彷徨わせた。
彼の様子や性格から察するに、倒れてしまったシェイラを案じ、責任を感じて屋敷を訪ねてきたことは本当なのだろう。けれども一方で、「ゴースト嫌いを他言無用でお願いすること」も、ラウルにとって非常に大事な要件であるらしい。
やれやれと溜息を吐いて、シェイラは正面に座るラウルを見た。そうまでして見栄を張るかと呆れる気持ちもある。だが、彼の気持ちがわからなくもなかった。
なんせラウルはあの鬼神隊のトップだ。鬼神隊の、強さの象徴と権威の象徴でもある隊長が大のゴースト嫌いというのは、いささか締まらない話だ。おまけに彼には男女問わず多数のファンがいる。彼の誰にも媚びない堂々とした様や、貴族の枠にとらわれないワイルドな魅力に憧れるひとたちは、ゴースト相手に涙目となるラウルの姿など見たくないだろう。
仕方ないな。そう肩を竦めながら、シェイラは首を振った。
「言いませんよ。ていうか、わざわざ言う相手もいないから安心してください。ま、そんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないのとは、個人的には思いますけど」
「……恥ずかしいだろ。大の男が、ゴースト相手に形無しなんて」
「大抵の人は、ゴーストを見たら腰を抜かしますよ。それに隊長はそんなに怖いのに、一回も私を盾にしたり、逃げたりしなかったじゃないですか。なかなかできない、勇気ある行動だと思います。だから私は隊長をすごいと思いますし、秘密にしてくれっていうなら約束は守ります」
シェイラがきっぱりと言い切ると、虚をつかれたようにぱちくりと瞬きをしたあと、ラウルは長い人差し指で頰をかいた。
「まあ、なんだ」と、彼は明後日の方向を見たまま続けた。「今のは、なかなかグッと来た」
「はい?」
「お前、思った以上にいい奴だな」
にっと歯を見せて、ラウルが笑う。
「協力者がお前で本当によかった。シェイラ、ありがとな」
まっすぐと正面切ってそんなことを言われ、ぽんっと音がしそうな勢いでシェイラの顔が真っ赤に染まった。慌てて顔を背け、シェイラはばくばくと高鳴る胸を押さえた。
罪の意識をカケラも持たないラウルが恨めしい。なにせシェイラは他人からの感謝に慣れていない。それなのに、こんな混ざり気のないまっすぐな気持ちをぶつけられて、舞い上がるなというほうが無理というものだ。
つまり要約すると、めちゃくちゃ嬉しい。
「そ、そのかわり、最後まで逃げ出さないでくださいよ! 私だって怪人のゴーストのことは気になってるんです! 怖いからやめるなんて言ったら、許しませんからね!」
照れ隠しと、悔し紛れと。精一杯、それだけ宣言すると、ラウルは嬉しそうに「まかせろ」と胸を張った。
「何があっても、俺がお前を守る。鬼神隊の鬼隊長舐めんな」
そう言って真っ赤の瞳を妖しく輝かせた魅惑の鬼隊長に、シェイラはこれまでと違う意味で先行きの不安を感じた。
これだけは断言できる。
社交界の人気者は、無自覚に罪作りである。