3-3
また長くなりました。
シェイラたちは改めてゴースト捜索を再開した。
その、はずなのだが。
「――なぜ、俺たちはあの猫を追っているんだ?」
そう言って小首を傾げたのは、ラウル・オズボーンだ。その左手は、しっかりとシェイラの右手を包んでいる。尚、再出発する前に、本当に手を繋がなければ駄目かとラウルに確認してみたところ「もう限界なんだ、頼む」と勢いよく頭を下げられてしまった。よほど、ここまで怖い思いを隠しながら歩いて来たとみえる。
「あの子が、ついて来いっていうんですもの」
答えるシェイラは左手に持つ燭台を掲げ、ふたりを先導する黒猫のあたりを照らす。念のため、いつでも剣を抜けるようにラウルの右手を空けているため、必然的にシェイラが明かりを持つ係となったのである。
そして黒猫はというと、ちゃんと後ろに付いてきているかを確認するようにときどき立ち止まり、まん丸の瞳でふたりを見上げている。
トテトテと歩く黒猫に、後に続くふたりの妙齢の男女。おまけにその手はしっかと繋がれているといった具合。
事情を知らないひとが見たら、景色のロマンチックさは欠けるものの恋人同士ほのぼのとした散歩光景にしか見えないし、相手がラウル・オズボーンともなれば社交界で嫉妬の嵐が吹き荒れることだろう。当のシェイラは、怖がりの幼子の手を引いてやってる保護者の気分なのだが。
さて、黒猫を追うシェイラたちは、かなりの距離を歩いていた。地図を頭に叩き込んだラウルによれば、あともう少し先まで行くと王立劇場の外へと通じる抜け道につながってしまうらしい。
「ついてこい、な……。俺には、単に俺たちで遊んでいるようにしか見えないが」
「ちがいますよ。あの子はちょっとかまっただけじゃ消えませんでした。何か、ちゃんと伝えたいことがあってこの世に残っているはずなんです。あ、角を曲がった! 急ぎましょう!」
黒猫の長いしっぽが曲がり角の向こうへ消えていったのを見たシェイラは、ラウルの手を引いて走り出す。ラウルは釈然としない顔をしているものの、無理を言って手まで繋いでもらっている手前、大人しく相手に従うことにしたらしい。さりげなくシェイラが躓いてしまわないよう気を配りつつ、黙って後ろをついてくる。
角を曲がると、黒猫がとある部屋の前にある柱の陰に隠れて顔だけをのぞかせていた。そのまま猫が動こうとしないので、シェイラは柱へと近づき膝を屈めた。
「どうしたの? ここに、何かあるの?」
「ここも確か、地上に続く階段があるはずだな……。っ、しゃがめ!」
「きゃっ!?」
薄明りが射す部屋の奥を見つめていたラウルが、ふいにシェイラの肩を摑み、強引に柱の陰にしゃがませた。続いて驚くシェイラの口を素早く右手で塞ぐと、彼はふっと息を吹きかけ、シェイラが持つ蝋燭の火を消してしまった。
「突然どうしたんですか?」
「静かに。誰か降りてくる」
ラウルが手を緩めてくれたので囁くと、柱の陰から部屋の中へに真っ赤な瞳を鋭く向けたまま、ラウルが素早くそのように告げる。
ふたりで同じ柱の陰に隠れているため、自ずとぴたりと身を寄せる形となってしまう。息を潜めて部屋の中を伺う横顔は、ゴーストを前に真っ青になっていた人物と同じとはとても思えない。とはいえ、こんなときですらちゃっかりシェイラの手に己のものを重ねているのはご愛嬌である。
ややあってからラウルの言う通り、奥にある石造りの階段を降りる誰かの足音が聞こえてきた。その人物は階段を降りたあと、慣れた様子で壁のほうへいき、くぼみに置かれた蝋燭に火をともした。
明りに照らされた顔は、怪人役のグウェンだった。
彼はシェイラたちの隠れている柱のほうをじっと見つめたあと、階段のうえにいる誰かに向かって呼びかけた。
「大丈夫。やっぱり、こっちまでは来ていないみたいだ」
すると、階段をもうひとり降りてくる音がした。カツカツとヒールが石を打つ音がするから、相手は女のようだ。そう思って見ていると、グウェンに続いて光に照らされたのは、主演のアイリーンだった。
「いいの? 憲兵隊のひと、怪人を探して地下にいるんでしょ。ここで話していたら、うっかり聞かれるかもしれないわよ」
「さすがにこんな端までは来ないさ。たぶん、連中がいるのは舞台の下のあたりだろうよ」
その言葉に、シェイラは申し訳ない気持ちになった。たしかに黒猫のゴーストと出会ってなければ、シェイラたちは怪人の現れた舞台の下を中心的に捜索していたに違いない。偶然が重なった結果とはいえ、これでは単なる立ち聞きである。
といって、ここを離れようにもぴったりと体を寄せたラウルが許してくれそうもないし、下手に動けば立ち聞きしていたことがばれてしまう。どうしたものかと悩んでいる間に、グウェンは明かりを灯した壁の近くにある椅子へとアイリーンを促し、そこに並んで腰かけた。そして、まるで恋人のようにアイリーンの手に自身の手を重ねた。
「やめて」
そう言った彼女は、どこか苦しそうだった。
「あなたのことは愛している。けど、今は舞台に集中したいの」
「わかっているさ。だから、これ以上は求めない。――ただ、教えてほしいんだ」
アイリーンを真摯に見つめるグウェンの真剣な表情に、シェイラは驚いた。おどけた調子で仲間を順番にやり玉に挙げていたときの彼とは、まるで別人のように見えたからである。
そうしてグウェンは、意を決したように口を開いた。
「お願いだ、アン。正直に話してくれ」
「なんのこと。言っている意味がわからないわ」
「いいや、賢い君はわかるはずだ。もしも君であるなら、俺は君のためなら肩代わりすることだってかまわない」
「呆れた。あなたは私を疑っているの?」
ぱっと立ち上がったアイリーンが、グウェンを見下ろし睨む。続いてグウェンも立ち上がり、彼女の肩に手を添えた。
「俺は怪人もゴーストも信じない。手紙も照明の落下も、誰かのせいじゃなきゃおかしいんだ。……狙われたのは、エイミーだ。正直、ウェイブ以外、誰が犯人だっておかしくないよ。けど、もしも君が犯人なら、俺は君を助けなきゃ。だって俺は」
「あなたはどうなの?」
アイリーンに遮られ、グウェンは虚を突かれたように言葉を飲み込む。そんな彼に、アイリーンは冷たく告げた。
「エイミーを脅したのは、自分に言い寄る彼女が邪魔になったから? それとも、あなたを遠ざけた私への遠回りな嫌がらせ?」
「何を言い出すんだ。俺は……っ」
「あなたが先に言い出したことよ」
彼女は肩に置かれた手を振り払うと、毅然と身を翻した。
「私はアイリーン・バトラーよ。見くびらないでちょうだい」
来たときと同じくヒールの音を鳴らし、彼女は振り返ることなく去っていく。残されたグウェンはもどかしげに頭を掻いたあと、蝋燭の灯りを吹き消した。
そうして暗闇の中を足音が遠ざかっていき、完全なる沈黙が訪れた。
「いまのはつまり?」
「アイリーン・バトラーとグウェン・ジェラルドは少なくとも以前は恋人同士で、さらにエイミーも絡んだ三角関係だったということだな」
シュッと擦れる音が響いて、マッチの光がラウルの頬をオレンジに染める。それを蝋燭に灯して、ラウルは立ち上がってぱんぱんと膝を払った。
「ついでにいえば、グウェンはアイリーンが犯人であることを危惧している……。たしかに、舞台の上でライバルとして張り合ってる上に、プライベートでも恋人にちょっかいを出されたとなれば、あまりいい気はしないよな」
「今更ですけど、立ち聞きはあまりいいことじゃないわ」
「捜査なんて、そんなもんだ。おかげで有益な情報も得られたろ?」
身もふたもないことを言いつつ、ラウルはごく自然にシェイラと手をつなぎ直した。どうやらまだ、地下通路の捜索を続行するつもりらしい。すると、それまでお利口に座っていた黒猫のゴーストも、立ち上がって尻尾を一振りし、ふたたび歩き出した。
それを見て、ふたりは顔を見合わせた。
「これは、またついて来いってことか?」
「たぶん。どうします? そろそろ、ちゃんと怪人を探さなきゃですよね?」
どうしたものかと悩んでいると、足を止めた黒猫が、まるで早くしろと急かすようににゃあと鳴く。それで、ラウルも「仕方ない」と肩を竦めた。
「ほかにゴーストの気配もないし、いまはこいつの後を追おう。こいつのおかげで、グウェンたちの会話を聞けたしな」
再び歩き出した黒猫は、さらに奥へ向かうのではなく、もと来た道を戻り始めた。後を追いながら、この子は一体なんだろうと、シェイラは改めて首を傾げた。
黒猫はまるで、アイリーンたちが地下に降りてくることをわかったうえで、シェイラたちをここまで連れてきたようだ。怪人のゴーストといい、王立劇場には少し変わったゴーストが集まるのだろうか。
そんなことを考えていると、黒猫はとある階段に差し掛かったところで軽やかに地上へと駆け上っていった。てっきり地下をずっと行くものだと思っていたふたりは虚を突かれつつ、同じく階段を上って行く。
すると、地上にでたところで裏方スタッフのまとめ役の青年、アランと出くわした。なにやら大きな荷物を抱えていた彼は、シェイラたちと目が合うとびっくりしたように立ち止まった。
「あれ? オズボーン様と、先ほどの? ああ、そっか。怪人を探して見回りしているんでしたね。この倉庫の中にも入りますか?」
すぐに納得したらしいアランは、荷物を一度地面に置いて、倉庫の中を振り返る。部屋の中ではほかにも数名の人間が、大きな荷物を動かしたりと忙しく働いていた。
こっそりと黒猫を伺えば、先ほどアイリーンたちの会話を立ち聞きしたときと同じように、ラウルの足元に大人しく座っている。おそらくラウルもそれを確認したのだろう。ちらりと下を見た後で、首を横に振った。
「いや、とりあえず今は大丈夫だ。必要があれば、またそのとき確認させてもらう。それより、そっちも大変な騒ぎだな」
「舞台もキャンセルになってしまったし、せっかくなので倉庫の整理をすることにしたんです。こういう時でもないと、まとまった時間も取れないので。あの、ところで」
何かを言いかけたアランが、言葉を飲み込んでぱちくりと瞬きをする。その目が、うっかり繋いだままになっていた手に向けられていることに気づき、シェイラは「ひゅっ」と変な悲鳴をあげた。
「ちがうんです! これは、その」
「彼女が!」
慌てて振りほどこうとした手をがしりと摑み、ラウルが言葉を被せる。そして彼は、まさしく王都の安全を守る憲兵隊といった頼もしい笑みとともに、きっぱりと告げた。
「彼女が、怪我をしないように、な。君が教えてくれたように、地下は場所によっては地面がデコボコして歩きづらいな」
「ああ、なるほど! さすがオズボーン様ですね、女性への気遣いがばっちりです。あ、まだ手を繋いだままのほうがいいですよ。片付けの途中で、廊下まで散らかってますから」
「有益な助言をありがとう。ぜひそうさせてもらうよ」
「な?」とシェイラに呼びかけたラウルの目は、頼むから合わせてくれと訴えていた。
「……はい、お願いします」
仕方なくシェイラは頷く。まあ確かに、鬼神隊の鬼隊長がゴーストに怯えてひとりで歩けないというよりは、シェイラの身を気遣ってエスコートしていたことにした方がよほど信じてもらえるに違いない。
「それがいいです。足元には気をつけてくださいね。ああ、それで、お尋ねしようとしたことは怪人のことなんです。どうです? 何か、手がかりは見つかりましたか?」
「いいや、残念ながら。やはりそう簡単には見つからない。人間と違って、相手がゴーストだと面倒だ」
「そうですか。はやく騒ぎが収まればいいんですが」
そう言って眉根を下げたアランだが、何かを悩むようにその場でもじもじと落ち着かない様子を見せる。やがて彼は、意を決したようにラウルを見た。
「まさか信じてないですよね? 怪人じゃなくて、私たちのなかに犯人がいるだなんて」
シェイラはそのあまりに直球な問いかけに目を丸くした。けれども、彼の問いは、シェイラも気になっていたことだった。だから答えを待ってラウルを見上げれば、彼は否定も肯定もせずに、やれやれと肩を竦めた。
「何か勘違いしていないか? 俺たち憲兵隊の目的は、昨晩、このホールを混乱に陥れた〝怪人〟の行方だ。奴が人間にとって脅威となるか、ならないか。なるのであれば、どうやって排除するか。興味があるのはそこだけだ」
「そう、ですよね。昨日の怪人は、どう見たって本物のゴーストです。どんな舞台技術だって、あんな風に何もないところにぽんと人間を出すことはできません」
「なるほど。君は舞台装置のエキスパートだ。怪人ではなく人間の仕業と考えるなら、真っ先に疑うべきは君だ。だから、怯えているわけか」
「違います! そりゃあ自分のことが気にならないと言えばうそになりますけど、私なんかより……」
言いよどんで、アランが目を逸らす。彼が、自分以上に気に掛ける人物。それが誰なのかはまったく見当がつかなかったが、動機の面ではアランよりもよほど怪しい人物ならば頭に浮かぶ。それでシェイラは、当てずっぽうながら試しに聞いてみることにした。
「アランさんが気にしているのは、アイリーンさんのことですか?」
途端、アランは弾かれたように顔を上げた。
「あの人は! あの人は、犯人じゃありません。あんなにも高潔で素晴らしい人が疑われること自体、間違っています!」
はっと口に手を当てて、動揺してしまったことを取り繕うようにアランは目を泳がす。それから彼は、無理やりに笑みを作って荷物を持ち上げた。
「すみません、立ち話をして引き留めてしまいました。怪人の捜索、がんばってくださいね」
そう言って、アランはそそくさと作業に戻っていく。それに合わせて、ラウルの足元で丸くなっていた猫も立ち上がって伸びをし、明るい緑の双眼でシェイラを見上げた。
そのときシェイラは、唐突に強い眠気を感じた。
「ったく、どいつもこいつも……。ん、どうしたんだ?」
アランの背中を見ながら何やら呟いたラウルだったが、シェイラの異変に気付いて首を傾げる。だがシェイラは、取り繕う余裕もなく急速に瞼が重くなっていく。すぐに立っていられなくなりふらついた体を、ラウルがたくましい腕で支えた。
「おい! どうした、しっかりしろ!」
「……すみ、ません。その、眠い、だけ、で……」
「シェイラ・クラーク!」
間近にラウルに顔を覗き込まれ、必死な表情も決まっているなあと薄くなる意識のなかでシェイラはぼんやりと思う。だが、彼との間を遮るように、青白い蝶が目の前を横切って行ったので、彼女は目を丸くした。
彼に支えられたまま、シェイラは顔を横に向ける。すると、青白い蝶は黒猫のほうへとひらりひらりと飛んでいった。
蝶は昨夜と同じく、一羽ではない。四方から次々に現れる蝶たちが、黒猫の元へ飛んでいき、艶やかな体の上で羽を休める。まるで美しい一凛の花のように蝶たちに囲まれながら、黒猫はまっすぐにシェイラたちを見ていた。
「なにが、おきた……?」
ラウルも異変に気付いたのだろう。彼がどこまで見えているかは不明だが、黒猫のほうを確認した彼の声が堅い響きを帯びる。そうして固唾を飲んで見守るふたりの目の前で、蝶に包まれたまま黒猫の体が青白い光を帯びた。
そのまま青白い光は膨らみ、ラウルと同じくらいの高さにまでなる。光は徐々にひとの形となり、手足がはっきりとしていくなか、ふわりとマントが閃いた。
そして、『怪人』が、その場に姿を現した。
「なっ……!?」
「――――見つ、けた」
シェイラは彼を捕まえたくて、怪人に手を伸ばす。けれども、そこまでが限界だった。視界が真っ暗となり、意識が遠のく。手から力が抜け、ぱたりと落ちた。
深い眠りのなかに沈み込んでいく刹那、シェイラは暗闇の向こうから、ラウルの悲鳴を聞いた気がしたのだった。