3-2
「小さい頃から、ゴーストが苦手なんだ」
そのように項垂れているのは、鬼神隊の鬼隊長ラウルだ。今の彼は、その勇ましい二つ名にはおよそ似つかわしくなく、小部屋の片隅で膝を抱えて小さくなっている。
「どうやら俺も、『勘』が強い質らしい。ただ……昔、ちょっとトラウマになることがあってな。以来、まともに連中を直視できないんだ」
「へえ……」
「これでもましになったんだ。本当に幼いときは連中の気配を感じると身体が震えてまともに立ってられないほどだった。そんな自分の弱さを直したくて、夢中で体を鍛えたよ。おかげで剣の腕は相当あがった。未だに完全には連中を克服できてはいないが……」
「なるほど、そうですか」
「昨夜だってそうだ。何かとんでもないものがいるのはすぐにわかった。憲兵隊として皆を安全に逃がさねばと、どうにか事態を見極めようとした。だが、どうしても。どうしてもヤツを見ることが出来ず……」
「おやおや、まあまあ」
「おい!」とラウルが叫んだ。
「そいつはいつになったら消えるんだ!」
そのひとことで、シェイラはようやく顔を上げる。その膝の上では、ラウルの言うところの『そいつ』――黒猫のゴーストが、しなやかなしっぽをゆらりと揺らしてにゃあと鳴いた。
シェイラは甘えてじゃれつく猫をあしらいながら、頑なに顔を背けているラウルに答えた。
「それがおかしいんですよ。この子、さっきからたくさんかまっているのに、全然消えてくれないんです」
「この程度のゴーストなら、すぐに満足して消せるはず。そう君が言ったんだろ!」
「ふつうはそうなんですよ! おっかしいなあ。ねえ、なんで消えないのー」
最後は、猫に向けた言葉であった。だが黒猫は、シェイラの疑問などものともせず我が物顔でシェイラの膝の上でころころと転がっている。
怪人のゴーストの代わりに、黒猫のゴーストを見つけたあと。
シェイラはまず、黒猫のゴーストをあちら側におくるべく、猫を見つけた小部屋で猫と遊んであげていた。その間、ラウルはいくらか離れたところに小さく縮こまり、ゴーストを視界に入れないようにずっと明後日の方向へ顔を向けている。どうやら彼は、ゴーストが怪人だろうがかわいい猫だろうが、正体と関係なしに彼らが苦手らしい。
だが、すぐに消えるだろうと見込んでいたシェイラの思惑とは裏腹に、黒猫は一向に消える様子がない。大抵の場合、動物のゴーストはすぐにあちら側へ送ることができるので、これにはシェイラも随分と首を傾げた。
「なにか不満があるようには見えないんだけど……。だよねえ、黒猫さん?」
「どうせ消えないなら、よそにやってくれないか? そろそろ限界だ」
幾分か青ざめた顔で、彼は心底嫌そうにぎゅっと眉根を寄せて言う。
「顔を背けていても、気配だけはびんびんに感じるんだ。そこにいるのが猫だと頭ではわかっているが、全身がぞわぞわする……」
ぶるりと肩を震わせたラウルに、シェイラは溜息をひとつ吐いた。
「あのですね。そんなにゴーストが苦手なら、怪人捜索は別のひとに任せればよかったじゃないですか。なんで地下に来ちゃったんです?」
至極真っ当な疑問をぶつけられて、ラウルは「ぐっ」と気まずそうに呻いた。
舞台上でユアンとラウルが言い争っていたのも、鬼神隊の面々がやたらとラウルを応援していたのも、おそらくゴースト嫌いな隊長のことを気遣ってだろう。あんなに心配されるぐらいなら、部下のひとりに簡単に代わってもらえたはずだ。
けれどもラウルは、「他の人間に任せられるわけがなかろう」と口をへの字にした。
「俺が連中への恐怖心を克服していたなら、ゴースト捜索は俺ひとりで事足りたはずだ。君を巻き込んだのは俺の責任……。自分の弱さのためにひとを巻き込んでおきながら、自分だけ安全な場所にいることが出来るか!?」
「けど、その調子で側にいられても、足手まといになりかねませんが」
容赦なくぶつけられた正論に、おそらく自覚していたラウルが再び短く呻く。
「……剣には、自信がある。君を守ることも、それなりに……」
しりすぼみになっていくラウルの言葉に、やれやれとシェイラは首を振る。どんなにラウルが強かろうが、ゴーストに物理攻撃は効かない。これは絶対的な真理である。
とはいえ、彼の責任感が強いのは理解した。部屋に飛び込むときは自分が先陣を切り、そのあとも一切うしろに引かずにシェイラを庇うなど、本気でシェイラを守ろうとしてくれているのもよくわかった。
「わかりました」と、猫を膝に乗せたまま、シェイラは深く頷く。
「とにかくいまは、このまま怪人の捜索を続行しましょう」
「――つくづく、君にはすまないな。ありがとう」
「ただし!」
顔を背けたまま、ほっとラウルは肩を落とす。そんな彼にぴしりと人差し指をつきつけ、シェイラは宣言した。
「目をつむっているせいで転び、怪我でもされたら非常に困ります。私の体格では、隊長を外に運び出せませんので。だから、一度チャレンジしていただきたいのです」
「チャレンジ?」
「そうです。一度で構いません。目をちゃんと開いて、猫ちゃんを見ていただけませんか?」
「なっ……!」
明らかに強張った様子で、ラウルが絶句した。
けれどもシェイラも、勝算がないわけではない。話を聞く様子では、ラウルがゴーストを見れないのは過去のトラウマによるものだ。一方で、おそらく彼はそこそこの『勘』持ち。怖がって顔を背けているだけで、ちゃんと見れば、ふつうのゴーストは無害で恐ろしくもなんともない存在だとちゃんと認識できるはずである。
幸いここには、ひどく無害で見た目も愛くるしい猫のゴーストがいる。この子を見て自信をつければ、この先の捜索をよりスムーズに行えるのではないかと、シェイラは考えたのだ。
「さあ、どうしますか。この子を見ますか? それとも、諦めて地上に戻りますか?」
さあ!と迫ると、重苦しい沈黙。ややあって、ラウルは深く長く息を吸い込んで吐き出したあと、「……いいだろう」と重々しく頷いた。
「条件を呑もう。だが、心の準備がしたい。ほんの少しだけ待ってもらえないだろうか?」
「いいですよ。好きなだけ、心を落ち着かせてください」
「助かる。それと申し訳ないのだが、俺の視界に嫌でもそいつが入るように、こっちに来てそいつを目の前に掲げてくれないか。……俺からそちらに行く勇気はなくてだな」
「もちろん、お安い御用です」
ラウルがしっかり目をつむっていることを確認して、シェイラは黒猫の体を包むようにそっと手を添え、胸の前に抱き上げる。そしてラウルのすぐ正面へと移動し、そこに座りなおした。
シェイラがゴーストと共に近くに座ったのを感じたのだろう。彼は表情の険しさを深めつつ、胸に手をあてて大きく息を吸い込み、吐き出した。ラウルはそれを二度三度と繰り返し、ようやく覚悟を固めたようにぎゅっと拳を握りしめた。
「カウントを取らせてもらう。――5、」
「4、」と、シェイラも声を合わせる。
「3、2、1、」
「ゼロ!」
シェイラが叫んだ瞬間、カッと目を見開いて、ラウルが勢いよくこちらを見た。それはそれは鬼隊長の呼び名にふさわしい、恐ろしい気迫をもった視線である。事情を知らない者が見たなら、ラウルがシェイラに鋭い刃を突き立てるつもりかと勘違いし、震え上がったことであろう。
けれども、その一瞬あとに、彼は「ヒュッ」と声にならない悲鳴を上げた。
「ななななんだ、その化け物は!?」
「え、化け物?」
「真っ黒な影に、禍々しい緑の目のような光! まるでモンスターだ!」
なんとラウルには、この愛くるしい生物がそのように見えるらしい。
さらに悪いことに、ラウルはショックのあまり、気が遠くなってしまったようだ。もともと青ざめていた顔が蒼白となり、すっと眠るように意識が飛ぶ。そのまま彼の身体が横にかしぐのを見て、シェイラは慌てて手を伸ばした。
「ら、ラウル隊長!!!!」
ぱしりと音がして、ラウルの手をシェイラの手が摑んだ。その衝撃で、ラウルは意識を取り戻したらしい。はっと目を見開くと、急いで体を立て直した。
「すまない! 俺としたことが取り乱してしまった」
「い、いえ! 私が無理をさせてしまったから」
「いいや、いくらそいつがモンスターだからと言って……」
そこで、ラウルはふいに口を閉ざし、視線を下へ向けてじっとそちらを見つめた。彼の視線の先にあるものをみて、シェイラはぎょっとした。ラウルを助ける際にシェイラの腕の中から抜け出した黒猫が、いつの間にか彼の足の上で寛いでいたのだ。
ラウルはじっと黒猫のゴーストから目を離さずにいる。
黒猫は呑気に毛づくろいをして和んでいる。
もしや、ゴースト(それも、よくわからないモンスター形態)を間近に見たせいで、彼が凍り付いてしまったのではないか。そうシェイラが心配しだしたとき、ラウルが「猫」と呟いた。
「猫だ。……猫がいる」
「見えるんですか!?」
耳を疑い、シェイラは仰天して目を丸くする。するとラウルは、何度も頷いた。
「あ、ああ! だが、なぜだ。なぜゴーストの姿が鮮明に……?」
そこで、何かに気づいたようにラウルは言葉を切ると、繋いだままになっていたシェイラの手をぱっと離した。そして、間髪入れずにすぐにぎゅっと手を摑みなおした。何度かそれを繰り返したあと、彼は唇を震わせた。
「――君と手を繋いでいる間だけ、ゴーストがちゃんと見える」
「……はい?」
「君と手を繋ぐと、ゴーストが鮮明に見えると言ったんだ」
思わず聞き返したシェイラに、ラウルはもう一度はっきりと繰り返す。そして彼は興奮したように顔を上げ、きらきらと瞳を輝かせた。
「すごいぞ! これなら俺も、無駄に怯えずゴーストを捜索できる!!」
はっきり言って、意味がわからない。
だが、長年の苦痛から解き放たれた喜びだろう。ラウルは至極嬉しそうであり、つい今しがた彼の苦手を打ち明けられたばかりのシェイラであっても、じんと胸が熱くなる。
「おめでとうございます! よかったですね!」
「ああ! こんな晴れやかな気持ちは初めてだ!」
しばらくそうやって、ふたりは呑気に祝福しあう。そこでふと、シェイラは大切なことに気が付いた。
「あれ……? じゃあ、このあとの捜索って……」
「すまない。謝罪なら、あとで十分にさせてもらう」
非の打ち所のないきりりと引き締まった顔で、ラウルはきっぱりと頷く。そして、鬼神隊の鬼隊長は潔く頭を下げた。
「シェイラ・クラーク、追加の協力依頼を申請する。平手打ちでもなんでも、地上に出たあとで受け入れよう。この先、俺と手を繋いで行動してくれ!」