3-1
何かがおかしい。
そこはかとなく、そんな気がしていた。
「あ、ついに行くんですね! 頑張ってください!」
「何かあったら叫んでください。自分、駆けつけますんで」
「応援してます! ファイトです‼︎」
「隊長!」
「隊長!」
……これはどういうことなのだろう。前を行くラウルの背中を見上げて、シェイラは内心で首を傾げる。
これからふたりで、怪人のゴーストの捜索を行う。ラウルがそのように宣言してからというもの、通路ですれ違う鬼神隊の面々にものすごく応援される。
それもシェイラではなく、ラウルのほうが。
妙なことはそれだけではない。今度は個別に関係者の話を聞くというユアンと別れたあと、ラウルはものすごく無口だ。鬼神隊の面々に声を掛けられるのも、初めのうちこそ簡単に返事をしていたものの、いまとなってはすっかりだんまりだ。
なぜ、ゴースト捜索がシェイラとラウルのふたりだけなのか。
ラウルは、事件の全てがゴーストの仕業だと思っているのか。
聞きたいことは山ほどあるが、うっかり声を掛けられない気迫がいまのラウルにはある。結果的にシェイラまでだんまりを決め込むことになり、ふたりは無口のままもくもくと暗い通路を歩く。
すると、ふいに石造りの円形の部屋にたどり着いた。
部屋の反対側には螺旋階段があり、その先は地下へと続いている。近くにいくとひんやりとした風が足元から吹いてくる。わずかに湿り気を帯びたそれは、あまり心地よい風とは言えない。
「いまから向かうのは、王立劇場の地下空間だ」
こわごわ階段を覗いていたシェイラは、ふいにラウルが話し出したのでその場で飛び上がる。そんな彼女を気にするでもなくラウルは近くの台に置かれた燭台に手を伸ばすと、マッチを擦ってろうそくに火を灯した。
「ウェイブも言っていたが、王立劇場の怪人は普段は地下にいると伝えられている。……君はゴーストを追うとき、連中の気配を辿ると言っていたな。そのとき、灯りは邪魔になるか?」
「いえ、それは大丈夫です」
「よかった。地下通路は、地上の光がほとんど届かない。手元の明かりもなしに歩くのは厳しいだろう」
ラウルの言う通り、階段の先はどんどん闇が濃くなっていき、途中からは完全に影に飲まれてしまっている。まるであの世に通じるかのような底の見えなさに、シェイラはごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、ラウル隊長? 本当にふたりで行くんですか?」
「ああ。何か問題があるか?」
蝋燭を手に階下を覗き込んだまま、ラウルが答える。鬼神隊の隊長らしく、その横顔はきりりと引き締まっている。
(……がんばって、て。何のことだったのかしら?)
道中、やたらといろんな隊員に応援されていたラウルを思い出し、シェイラは首を傾げる。だが、せっかくここまで来たのだから、あとは前に進むしかあるまい。引っかかるものがありつつも、シェイラは一旦それを頭の隅に追いやることにした。
そうしてふたりは、いよいよ地下通路へと足を踏み入れた。
あらかじめ聞いていたように、地下通路は狭く入り組んでいて、おまけにどの道も似たような造りをしている。ところどころに小部屋があって、舞台道具やら備蓄やらが仕舞われているのが確認できるが、それさえなければ自分がいまどこにいるのか、すぐに方向感覚を失ってしまうだろう。
「隊長も、ここに来るのは初めてですか?」
地上と違い、じめじめとした薄闇のなかでの沈黙に耐え切れず、とりあえずシェイラは前を行くラウルに呼びかける。その声は静かな回廊に反響して、二重に聞こえた。
「いや」と、足を止めずにラウルも答える。
「朝に一度、劇場関係者……さきほどの中にいたアランという男に案内を頼み、軽く見て回った。といっても、入り口周辺を見ただけだ。あとは、これを頼りに歩いている」
そういって、彼は上着のなかから折りたたんだ古紙を取り出した。なんでも、王立劇場の地下通路をもっとも詳しく描いた地図らしい。彼が差し出すので受け取って開いてみれば、黄ばんだ紙に細かい文字と線がびっしり書き込んであった。
「一通り、内容は頭に入れてある。地図によれば、さっきの階段以外にも出口はあるし、最悪奥まで行き過ぎたとしても抜け道を通って劇場外に出てしまえば問題なさそうだ」
「……こんなの、よく覚えましたね」
「これくらい、訓練すれば誰でも出来るようになる。ゆっくり目を通す時間があった分、普段よりよほど良心的だったぞ」
さらっとすごいことを言いながら、ラウルは再び地図をポケットのなかにしまう。さすがは鬼神隊。基本スペックが、一般人とは多少ずれたところにあるらしい。
と、そのとき、シェイラの視界の端に青白い光が映り込んだ。はっとして右側を見れば、小さな蝶が脇道に入った数メートル先に浮かんでいるのが目に入った。
「ラウル隊長……!」
「――こっちか」
えっ?と、シェイラは息を呑んだ。ラウルが、シェイラが何か言うより先に蝶の浮かぶ脇道へと足を踏み出したからだ。だが違和感の正体を確かめている暇はなかった。
「おい、奴がこの先にいるんだろ。案内してくれ」
「は、はい!」
ラウルに急かされ、シェイラは急いで蝶を追って先を急ぐ。といっても燭台を持って先導をするのはラウルだから、彼にぴたりと寄り添って蝶のいる方角を告げるだけだ。
けれども、そこでもまた違和感は大きく膨らんだ。なぜならラウルは、シェイラに方角を告げられるより先に、そちらに足を向けることが何度かあったのだ。
(このひと、やっぱり……)
あの夜と同じく、膨らむ好奇心と期待に、シェイラの胸はどきどきと高鳴った。
思い出されるのは、『天使と怪人』の幕間に階段でラウルと鉢合わせたときのこと。彼はあのときも、何かに導かれるようにして階段の踊り場に姿を現した。
その何かは、子犬のゴーストだったのではないだろうか。
いや。もはやそうとしか思えない。絶対そうに決まっている。
そのとき先導していた青い蝶が道を曲がり、ある小部屋へと吸い込まれていった。おそらく怪人は、部屋の中にいるのだろう。そのように踏んだふたりは、壁にぴたりと身体を寄せて中を窺った。
「ついに奴の正体がわかるかもしれんな」
ラウルが囁く。それに力強く頷いてから、シェイラは期待を込めてラウルを見上げた。
「そうですね。色々とわかるかもしれません。その、色々と」
一瞬あと、ふたりは同時に部屋に飛び込んだ。もちろん、先陣を切るのはラウルで、その背中に隠れるようにして飛び入ったのがシェイラだ。
「私はシェイラ・クラークです! お願いです、逃げないで話を……!」
とにかく怪人を引き留めなくては。その一心で叫んだシェイラだったが、すぐにぱちくりと瞬きをして口を閉ざした。
そこにいたのは、怪人ではなかった。
代わりにいたのは、緑色の目をした真っ黒の猫のゴーストであった。
「ねこ……?」
「どうだ!? 奴は何をしている!? どうなんだ!?」
シェイラの呟きを遮り、ラウルが叫ぶ。驚いて彼を見れば、ラウルは部屋に飛び込んだときと同じに、いまだ警戒の体制をとっている。――それどころか、いつの間にか燭台を足元に置いて腰に下げてあった剣を抜き、まっすぐに切っ先を猫へと向けている。
「あの……ラウル隊長?」
「奴は何をしている? そうだ、会話は成り立つのか? っ、下がれ!!」
ぐっとラウルに肘で押され、シェイラは呆気にとられつつも後ろに下がる。ちょうどそのとき、のんびりと伸びをしていた猫がすたすたと部屋の隅へ歩いていき、そこにある古いクッションに身体をこすりつけて遊び始めた。
すると、ラウルはそちらへと剣の切っ先を向けなおし、正確に猫のいる方向を追いかける。それだけなら、彼が猫を視認したうえで剣を向けていると思うだろう。
――ラウルが瞼をぎゅっと固く閉じ、思いっきり顔を背けていなければ。
「隊長、ラウル隊長」
よく見れば剣先を小刻みに震わせているラウルの服の裾を、シェイラは二度ほど引く。そして彼女は、彼の耳に間違いなく届くようはっきりと告げた。
「そこにいるの、怪人じゃなくて猫のゴーストですよ」
それを聞いた途端、ラウルはその場にぐったりと座り込んだのだった。