決心のさき
はじめまして、目目といいます。
この作品はとてもだいすきだった人に送り続けていた初めての連作小説作品でした。
元々本の言葉に影響されやすい性質で、今回も心屋仁之助さんの『がんばっても報われない本当の理由』を読み、突き動かされやりたいことを見つけ出し、書き直し入れ、ネット上に公開することに決めました。
月に1か二月に1回の更新ペースでむりなくがんばっていく所存です。
どうか彼らの行く末を見守って下さい。
目の前には、果てしない広大な青がある。
平時見る都会の青はてっぺんいっぱいに広がっているが、この青は空にではなく地平面いっぱいに広がっている。
物心がつき初めて見た時の感動を覚えている。二度目もおおろげにながら覚えていた。三度目は忘れていた。それ以降は内輪の行事として毎年のように開催されてからはいつしか薄れて行った。最後に行ったのはこの壮大な青に輝く、きらきらしい光をバックにした彼女の白磁の肌と濃艶で、だけどもあどけなさが残る白い歯を覗かせた微笑みだった。
一頻り、茫洋と空にも繋がって行きそうな濃い青を見遣って懐古の情に溺れた。なんともいえない欠乏感に身も焦げ尽くしてしまいそうな気がした。
しかしその逆に、その青はもしかすると自身が抱えている虚をもさえ埋め尽くしてくれるように思えた。
さざなみの音が聴こえて来る。打ち返しては打ち寄せる波は砂浜を覆った。
二足の革靴は波が打ち寄せないぎりぎりのところで立っている。残暑の残る熱と見渡す限りのスカイブルーに眩暈感を生みだした。
――おいでよ。
そう、まるで誘われている。一歩手前のところであぶく打った泡の波紋が光る。割れたガラス瓶がそれにつられて転がる。私は片足を持ち上げた。持ち上げて退くか進むか迷うようにひとつ足踏みをした。ふたつ、みっつ。いっつ。
波は強さを増し、片方の革靴を濡らした。反射的にもう片方は後ろへ退いた。その刹那。
――おいで。
――おいで、おいで。
――ずっと、まっていた。
目をつぶった。つんとした磯のにおいが鼻について自然に一滴の涙が流れる。拭いもせず頬に滴り落ちて口にしょっぱさが滲んだ。
(行こう)
決心すると、歩を進んだ。両足はすっかりずぶ濡れになっていた。波に逆らい、一歩一歩進む。きっと、地平線の先まで目指せばたどり着ける。そう思うと力が溢れた。きっと待っているのだ。黄金色のひとときがある。あのどうしようもなく渇望していた懐かしい日々がまた帰って来る。膝まで水が浸かった。すると不意に後ろから声がした。
「ねえ!」
二度目の声と共に腕をしっかりと掴まれた。後ろを振り向くと自分より数センチ低い身長の見知らぬ人物が呼びかけていた。
「聞いてない? 津波注意報。今日はこのまま進むと危ないって」
有無を言わさず、元来た方に戻される。みっつ、いっつ、やっつ。咄嗟に声を掛けられた驚きもあったが、握られた強い力の感触にもはっとなるほどに驚き、抵抗もせず従った。砂浜に戻ってくるとなぜか深い落胆と安堵が同時に心にすみついた。
「あー、濡れた濡れた」
と呟き、彼は、否。髪が短いのと上下の黒いユニセックスな服を身にまとっていたから男女の区別を見誤ったが肉体のなだらかなつくりをみると彼ではなく、彼女だった。彼女、――その人は手と足を振り、水を払った。「ちょっと待って」という声にふと反射的に頷いて身体に沁み付いていた精神的なだるさのために、ひとまず石の上に座った。濡れた格好はほんのすこし肌寒かったが気温の影響もあってあっというまに不快な温さになった。じゃりじゃりと砂を踏む微かな音がすると、真っ白いタオルを渡された。そして、年の頃は二十代前半か十代後半のその人は隣の岩に座り込んで健康的な浅黒い肌を拭き、タオルをぎゅっと絞った。
「しょぼくれているね」
私は核心をつかれたようにぎょっと動転した。しかし当てられたくない急所を避けるかのように、その人はよもやま話を持ち掛けて来た。
「この時期だと……遅めの避暑地にでもここに来たの?」
そうだ、と一応頷くと彼女は愛想のいい笑顔をしてわらった。
「何もないところっしょ? あるのは海ばっかしだけ」
その人は両手を広げて辺りを見回した。その人が言う通り辺りは自動販売機と寂れた海の家と駐車場、数メートル先にはハンバーガーショップの店舗しかない。
「ここにはどのくらい滞在する予定?」
私は少し迷った。出会いがしらの人に詳細を述べるのは気が引けたし、その上声を出せないのだ。首を振ると、その人は「おや?」と首を傾げた。
「一週間?」
首を振った。
十日間、二週間、三週間と立て続き、「もしかして決まってない?」とかぶさった。私はこくり、と頷いた。
「こんな辺鄙なところ来てさぁ、暇っしょ?」
その人はなぜか目を輝かせた。その人は突然しゃがみこんで上目遣いに私を窺うように覗き込んだ。
「そっかあ。そうだよね、暇だよね」
私はややむっとしたが、身体全身から篭る気怠さが勝って、静かな小波のように気持ちは収まった。たとえるならその人が発している言葉はまるで映画のフィルムの一部シーンのセリフが映し出されたように、遠い景色から呼びかけているのと同じであった。だから無表情に言葉の意味は解せるが、私とは関係ないところで展開されていると思って受け流した。
「実はさ、あそこのバイト先解雇されたばっかりでさ。次のバイト先探すのに数日要るんだよね。知り合いのツテがくるまで待機中してるの」
その人は数メートル先の飲食店を指した。頭に両腕を組んで、なにがおかしいのか始終笑っている。一見すれば獲物を見つけたような気味の悪い笑みだが、その人の笑い方には人懐っこさが強く表れて不快感は然程感じなかった。
「君さ、ここを連日通っているでしょ」
心臓が跳ねた。
それで、人らしい心地を思い出して嫌悪感を噴き出した。これだ。人間関係の上で七面倒くさい事柄。自分がまだ人としての薄汚れた情動を持っていることをまざまざと突きつけられる。
その人の言う通り私は二週間前この辺りに避暑にやって来て時間をもてあまし、ひねもしていた。いっそ青年と呼びたくなるようなユニセックスを思わせるその人の笑みは深い意味があるのか図りかね、身を強張らせた。
「実はバイトの休憩中、君をよく見掛けていたんだ」
私は返事に窮した。ここのしばらくはこの海岸にしばらく滞在していた。何をするわけでなく、ぼんやりとしていた。たまに自動販売機でお茶を買ったり、手伝いのものに持たされた弁当を持ってきて食べていた。そのくらいしかしていない。そのところにこのその人にはどんな興味を持たれたのだろうかと思いあぐねた。
「実はちょっと心配していたんだよね。もしかして、翌日ニュースに出るんじゃないかってさ」
私は何も言わなかった。いや、言えないのだ。その人はそのことを気にした様子もなく、話を続けた。
「勘違いだったらいいんだけど、気を悪くしたらゴメンね」
私は肯定も否定もせず俯いた。自分の濡れた足元が薄汚く目に映って見えた。すると、同じく砂で汚れたその人の足がぐるりと翻った。
「明日は台風来るし、今日のところは早めに帰ったら?」
彼女はズボンの辺りをもう一度拭くとタオルを絞った。
「それ、あげるよ。じゃあ、また会える日があったら」
その人は手を振って駐車場に向かって行った。くしゃみをする音が響いた。私は途方に暮れしばらく悩んだ後、重い腰をあげて帰ることにした。
○●○
台風の明けた次の日は雲一つもない晴天が広がっていた。ある人を一瞬脳内に思い浮かべ、同じ時刻を目指して私は来た。
頭に思い浮かんだ記憶の映像と一寸のズレもない姿で、その人は一足先に備え付けのベンチに座っていた。ベンチの上には炭酸飲料の缶ジュースがある。その人はそれを飲み干すと缶専用のごみ箱に捨てた。
「よっ、こんにちは」
手を上げて会釈するその人に私は頭を下げた。そして、タオルの入った紙袋を差し出した。
「ああ、いいのに。律儀さんだね」
その人はそれを受け取ると、横に置いた。座って、と隣をぽんぽんベンチの上を叩く。云われるままに座った。なにとなしに距離が近い。退くかそのままでいてもよいものかと迷うと、その人は立ち上がって砂浜の上にあぐらをかいて座った。
「来てくれてうれしいな」
そう言ってその人は破顔一笑したが、私はその人が来ようとも来ないとも此処に来る。まだ混迷しているのだ。俯いた私にその人は手を叩いて、こほんと咳払いをした。
「僕のひいひい……祖母ちゃんからのさ、祖父ちゃんだったかもしれないけど」
とっておきのお話があるんだ、とやや緊張した面持ちでその人は呟いた。
「どっちかというとね、僕祖母ちゃんっ子でね。ええっと関係ないか、そんなことは」
うーんとその人は両腕を組んで唸った。僕という一人称は余計その人のアンバランスなユニセックスの印象を強化させますます、幼い印象を増大し、二十代より若いように見えた。何が始まろうとしているのだろうと私は上の空で空想に耽り、海を眺めた。いつか、あそこへ行こうと心の中で決心した。それがいつ果たせるか。
(もうすこし)
(もう少しだけの時間がほしい)
「自分のお祖父ちゃんの母親だとか父親だとかの年代ってさ、ずっと昔みたいに思えない? それを遥かに越すくらい、むっかしの大昔。ずっとずっと前からさ……遡ると嘘みたいだけどあったんだよ。なんか想像できないけど。そこで、だ。どんな話か知りたい?」
脈絡もつかない話はとんちんかんだ。首を捻り、視線をその人へ向けた。
「お、興味あり?」
見当違いの反応に、私はうんともいやとも返事しなかった。
「目ェ閉じてみ」
怪訝な顔をすると、「ほらほら」と先にその人の方が目を閉じる。後に従って私も目を閉じた。闇が広がる。しんとした空間が瞼内で起こる。心の内で未だに迷っているのはもしかしたら、行く先が今起きている現象のように暗黒に広がっているかもしれないことだ。
「いろんな声しない?」
視覚の現象から聴覚に移すと確かにかすかながら音がした。
「小波とか砂浜の匂いとか、太陽の眩しさとか風の強さとかさ。そしたら、今度は開けてよく見て」
言われたとおりに目を開く。太陽がまぶしくて目がチカチカした。
「ビルひっとつもない見通しいい風景だろ。海を見れば、キラキラ光っている」
私は言われてみてそんなことに気を留めていたかどうか忘れていた。余裕はあっても長い休暇は罪悪感と漠然感だけがあって結局は余裕などなかったのかもしれない。この海岸をある目的の手段としか考えていなかった。
「ここのところ君の様子見ていたんだけど。あ、気を悪くしないでね。見ていたといってもバイト休憩のついでにさ」
気にするなと言われても、見られていたことは落ち着かない。
「で、泳がないし魚釣りするわけでもなくて貝拾いするわけでもないし、なーにしているんだろって気になってさ」
返す言葉もなく口を閉じた。
「自分の地元をそうつまんなそうにしてるのはちょっと不届きに感じちゃうんで。んでもってね。褒められたハナシじゃないけど。前にも言ったけどバイト解約されて暇もてあそんでたんだ」
確かに友達からのツテを待っていると言っていた。
「でさ、――うってつけの物語があるんだよ」
私はまたしても首を傾げた。
「小さい頃に眠る前に絵本の読み聞かせとかなかった?」
私は、あった、と相槌もせずに心内で「そんなこともあったが取るに足らないことだ」と感情を追体験するのを拒否した。それをしてしまえば、記憶が塗り替えられて、幸福な記憶に成り代わってしまう。それが嫌だった。
「遊びたい遊びたいってなかなか寝付かないこどもをあやすために。それが僕の場合、お祖母ちゃんだったんだ。それで……毎日、楽しくて夜が来るのが待ちきれなかったくらいだ」
私の場合、両親が共働きだった上に祖父母は既に他界していたからそのような記憶はない。だが、代わりとなる家政婦がいた。それでもなお、人としての人格が欠けているのはその外部要因もあるかもしれないと、くるくる変わる表情のその人の姿が羨ましく思えた。そういった愛想もできない自分が好きではない。
「だから、あんたもその物語を聞けば元気になる」
何を言わんとしているのかはわからなかったが、その人は物語を語ろうとしているのだろうか。物語。どんな? 一瞬、昭和時代の風景で、公園で行われる紙芝居を思い浮かべたが、その人の手元には何もない。手荷物はなく、後ろポケットに財布が見て取れるくらいだった。
「……まあ、ちょっとだけ付き合ってよ。ただそこで座って聞いているだけでいい。つまんなかったら、立って帰っていいし」
私は何でもいいと思った。そろそろ一カ月して、何もなく、あてもなく迷っているだけなのはきつかった。彼からの申し出を有難く思い、そして同時につまらなかったらその人の言う通りに遠慮なく場所を変えようと心に決めた。
「お喋りナントカかと思った? 会話しましょーっていうノリの」
私は少しだけ頷いた。その人は未だに私が喋らないことを気にした様子はなかった。
「でも、あんたそういうの苦手そうだしなあ。お、気にしている?」
単に無口だと思われているのかもしれなかったが、それはそれで構わなかった。
「だったらさ、別に受け答えいいから、聞くだけ聞いてくれない? 人助けのつもりで」
私はまた頷いた。それならば気楽に聞ける。その人は楽な姿勢をとってと私に言ってから
「あとはこっちの表現力の力量だけどさ。今日は下準備のところだけ話すからつまんないかもしれないけど……」
と頭を搔いた。後ろの太陽が眩しくて目を細めるとその人はそれに気づいて「こっち」と呼んだ。そして初めて会った岩の上で向かい合わせで物語を語り始めた。