藤の誘惑②
「と、とれたぁ…」
何回やったのか、最初のうちこそ数えていたものの、千円使い果たしてしまった頃にはすっかりやめてしまった。ようやくとれた可愛らしい人形を目の前にして、妙な達成感と共に言いようのないむなしさが込み上げてくる。
「はい!」
「…先輩、お金…」
「いいのいいの!途中から私が勝手にむきになってやっただけだし」
そう。そうなのだ。
昔はあんなに簡単に取れていたのに、ブランクがあるとコツさえ忘れてしまった。それが悔しくて悔しくて、後輩君の為とかすっかり忘れて最後は意地でやってしまった。
「…ありがとうございます」
人形を抱えながら小さく頭を下げる後輩君。
こうして感謝されただけでも飛んで行ったお金達は報われるだろう。
「何かお礼を…」
「本当に気にしないで!私帰宅部だし、特にお金の使い道なんてなかったし!」
実際、お金なんてユリカと遊ぶ時や、何か欲しいものがある時以外あまり使わない。こうして一気に使うことなんて滅多にないので、これはこれで人生経験だ。
「でも…」
「じゃあ私そろそろ帰るね」
「…」
じゃあ、と言ってその場を立ち去ろうとすると、背後から名前を呼ばれた。その声は明らかに後輩君とは違った声で、私はとっさに後ろを振り向いた。
「みつき。こんなところで何してんの?」
後輩君の背後から私の名前を呼ぶ声。
葵君だった。
「葵君」
「こんなところで何してんの?」
二度目の質問に私は少し違和感を覚えた。
いつもと変わらない爽やかな笑顔なはずなのに、声のトーンは少し、ほんの少しだけいつもより低くて、微かに心臓が跳ねた。
(…なんか機嫌悪い?)
葵くんの機嫌が悪いところなんて見たことなかった。そのくらい葵君はいつも優しくて、怒ったところなんて見たこともなかった。もし、彼の機嫌を変えるものがあるとすれば、それはサッカーだと思う。それほど彼はサッカーに情熱を注いでいる。
(…部活で何かあったとか?)
そういえば葵君が帰宅しているということは、クレーンゲームに熱中してからどれくらいが経ったのか。あまりに夢中過ぎて気づかなかったが、学校を出たときにはまだ空に合った太陽が、今はすでにほとんど身を隠してしまっていた。
(時間って過ぎるの早い…)
そんなことを頭の片隅で考えていると、葵君はつかつかと近寄ってきて、強めに私の腕をつかんだ。葵君からふわりと爽やかな制汗剤の香りが漂ってきて、少しだけどきりとする。
「え、な、なに?」
「おくるよ」
「え?」
「危ないだろ」
「そ、そんなことないよ。大丈夫!」
「遠慮しないで」
そう言いながらぐいぐいと腕を引っ張る葵君。葵君はちらりと後ろにいる後輩君に視線を走らせたかと思うとすぐに前を向いた。私はつんのめりながらただただ葵君に引っ張られるだけ。今の状況についていけてない。
「…柊、ですからね」
「え?」
「名前。覚えておいてくださいね」
小さく呟かれた言葉。
しかしそれははっきりと耳に入った。それと同時にほんの少し強まる私の腕を握る葵君の手。
(私が名前を覚えていないことに気づいていたんだ)
少しだけ申し訳ない気がした。
しかし目まぐるしく変わっていく周りの人々に不安が募っていくばかりだった。
繁華街から歩いてだいぶ人気のないところに来た。葵君は私の家を知っているのだろうか?振り向かず、何も話さない葵君の背中に私の家は…と問いかけてみると、知ってる、と少し固い声音でただ一言だけ返事が返ってきた。
なんで知っているのだという質問は禁句だろうか。
(まあユリカあたりから聞いたのかなぁ…)
手首を持たれたまま、葵君に引っ張られるがままについていくと、うちの近くの小さな公園に差し掛かった。葵君はぴたりとそこで立ち止まると、公園へと足を踏み入れた。今の時間帯、ちょうど子供が帰ったばかりなのか誰もいない。座って、と促されて私は葵君の隣に腰かけた。ペンキがはがれかけたベンチが軋む。
「…」
なんて声をかけたらいいものなのか。
葵君の考えていることも分からず私は口を開けなかった。
「…楽しい?」
「…え?」
「女王様の生活は」
「!」
ドクリと心臓が跳ねた。
どうして葵君がそのことを知っているのだろう。
「なにいって、」
「しらばっくれるなよ。男にちやほやされて嬉しいんだろ?」
「!!」
葵君から飛び出した言葉とは思えないほど、それは冷たく固かった。普段の葵君からは微塵も想像できないほど。まるで別人のような言葉だった。
「そんなわけないじゃない…」
喉が震えて、言葉まで情けなく震えてしまう。ドクドクとうるさく嫌な音を立てる心臓。ぐるぐるといろいろな気持ちが混ざり合って吐き気すら覚えた。
怖くて顔を上げられず、ただ目の前の地面しか見つめられない。横から葵君の視線をひしひしと感じるけれど、私はそれにこたえることはできかった。
「…夢で見たんだ」
「…っ、」
葵君はじっと俯いたままの私に向かってそう言った。
「なんか絵本を読んでいるみたいな夢だった。どこかにミツバチの遺伝子を持っている人間がいるって」
「…」
「女王様の遺伝子と、オスのミツバチの遺伝子。持っている者同士はひかれあうんだって」
それは初めて聞いたことだった。
つまり最近態度が変わった人達は皆、私のなかの女王様の遺伝子とやらに惹かれたというわけなのだろうか。
「面白いことに、結構大勢の人間の中にミツバチの遺伝子って眠っているらしい。それが開花するのは稀なことらしいけど」
その言葉に私は少しだけ反応してしまった。
それじゃあ私はその偶然、本当に偶然で稀に開花してしまったというのか?…冗談じゃない。
「…じゃあ葵君達の遺伝子も偶然開花したというの?」
「んー…それはいろいろ条件がありそうだけど」
「条件…?」
「ただの俺の憶測」
よく意味が分からなくて眉を顰めるも、葵君はそれでさ、と話を続けた。
「それでさ、オスが女王様に、つまり俺がみつきに候補の一員として認めてもらうには一つしなきゃいけないことがあってさ」
「…しなきゃいけないこと?」
「この前のデートでしたこと」
いつの間にか葵君の顔を捉えていた。目が合うと葵君はいつもみたいな柔らかな笑みを浮かべた。先ほどみたいな冷たさは一切ない。至って普通の葵君。
「女王様にキスしなきゃいけないんだ」
「…キス」
それをきいて不意に思い出す。
確か帰り道に、葵君に手の甲にキスをされた気がした。まるでお姫様みたいだってドキドキしたのに。
(…あれはそういうことだったの?)
「…じゃあ葵君は候補になったの?…私の、」
何の候補、なんて口に出して言うことはできなかった。生物界で言うと子孫を残す為らしいけれど…人間界でもそうなのだろうか?そうなると私はその候補の中から選ばなきゃいけないの?もし選ばなかったらどうなるの?いくらなんでも勝手すぎる謎な決まりに私は混乱していくと共に、怒りすら沸いてきた。
「そうだよ。…でもそれが問題じゃない」
「?」
「…他の男にもされただろ?…キス」
そう言って葵君はすっと目を細めた。まるで咎めるようなそんな視線だった。
葵君らしからぬ、ひやりとした瞳に恐れを覚えながらもふと思い出す。
(…そういえば棗と藤先生にも…)
棗には首筋。
藤先生には額。
どれもその時は流れに押されてしまっていた私だけれど、今思えばそういうことだったのか。
(…藤先生と棗も、もし知っていたのならば…)
あれは候補の一人になる合図だったのか。
軽く肌が泡立つ。
私が知らないところで、事は進んでいたーー?
青ざめていく私に葵君はそっと距離を詰め、上目がちに私をのぞき込んだ。そして、柔らかく口角を上げた。
「怖がらなくていいよ。俺が守るから」
「…え?」
「みつきは俺が守る。いつでも頼ってよ。クラスメイトなんだからさ」
「…葵君」
言葉はすごく優しいのに、なぜだかわからないけどその言葉は素直に私のなかに染みわたってこなかった。理由はわからないけれど、なんとなく、葵君本心の言葉ではないような気がしてならなかった。薄い茶色の瞳をすっと細めると、葵君は私の右頬に手を添えて、柔らかく笑った。
「…それで俺を選んでくれたら嬉しいんだけど、な」
「…」
私は何も言えずに、ただ葵君を見つめ返すことしかできなかった。今は何も答えられないから。
そのあと、葵君は私の手を引いて自宅まで送ってくれたけど、どうやって帰ってきたのか、そのあとなにを話したのかよく思い出せなかった。
(…頭が混乱してる)
私はこれからどうすればいいのか。
何もわからないけれど、渦中にいるのは間違いなく自分だということだけは理解していた。