1 『理不尽のはじまり』
――再び目を開けると青い空が広がっていた。
「……はぁ?」
寝そべっている背中に感じるのはゴツゴツとした石の感触。ついでじんわり染み込む湿り気は剥き出しの地面のそれだ。鼻を突くほどの土と草、そして柑橘系のような不思議な匂い。
「なんだ? いつの間に外へ運び出された?」
まさか処置のしようがないから外へ放り出されたわけじゃあるまい。
いつまでも途方に暮れているわけにもいかず、グッと腹筋に力を入れ――
「うぉお!?」
想像以上の力に体が前のめりに傾く。まるで想像以上に馬力のある車のアクセルを踏んだような錯覚。何事かと驚くのも束の間、戸惑いのままに視線をあげた先に見えてきたのは……
「…………はは、勘弁してくれ」
見渡す限りに草、草、草。だだっ広い草原が広がっていた。
なんだここ、映画のセット? ニュージーランドあたりならとっても有名な指輪の物語の聖地だ。こんな風景の一つもあるだろうが……ここって日本だぞ?
飛び交う疑問符に翻弄されつつ振り返ると、背後にはとんでもなく深い森が広がっていた。しかも木の一本一本が太い。昔教科書で見た屋久島の縄文杉みたいな木々が鬱蒼と立ち並んでいる。当然背丈も仰ぎ見たところで頂上は見えず、太陽の光すら遮断していた。
どうやら俺は、このだだっぴろ草原とトンデモ森の境界線で倒れているらしい。
「なんだってんだチクショウ」
現状は理解できない……が、思いのほか冷静な自分もいることに気づく。
なんのことはない。理解できない理不尽には馴れている。思考がついて行かないだけでギャーギャー取り乱すには歳を取り過ぎだけのことだ。
とりあえず立ち上がって体を確認。朦朧とする意識の中、医者の心臓どーとかいう言葉が聞こえていたが、傷らしい傷は見当たらない。しいて言うなら地面に直接寝そべったせいで染み込んだ水やら土が制服を汚し――……制服だと?
慌てて服装を確認し気づく。俺は少しくたびれているが紺色の制服に身を包んでいた。見慣れない……ことはない。記憶の底でひっかかったのは昔使っていた高校時代のブレザーだった。
おいおい、三十五のオッサンが制服コスって誰得だよ。
そう思ったのも束の間。さっきから妙に軽い体と充実した精力に、手で顎を触り頬に触れてお腹をプニプニ。
「……マジか」
ぶっちゃけ周りの光景以上に度肝を抜いた。
触れた顎には無精ひげがなく、こけていた頬は心なしつやつやしていた。極めつけがこの六つにわれた腹筋。とてもお腹だけ膨れたビール腹だったついさっきとは比べ物にならない。
こんな理想的マッチョ体型だった時期は、あとにも先にも二〇年近く前しかない。あの頃が人生の黄金期だった俺にとって、勘違いするわけがない。……ってことはまさか、
「高校生の頃に戻ってる?」
馬鹿げた話ではあるが現状を顧みるとそうとしか考えられない。
とりあえず鏡がわりになるものを探してポケットをまさぐってみる。
「ガラケーって、こりゃまた懐かしい……」
世界に誇った日本の変態技術の結晶がスマホに駆逐されてはや数年。いまじゃご老人ですらスマホでこの折り畳み式携帯は久しぶりに手に持った。とりあえず画面を暗くして鏡がわりにしてみる。……よく見えないが、やはりどこか輪郭が若々しかった。
つまり俺は、死の淵からどこか違う場所に飛ばされただけでなく、二〇歳近く若返ったってことになる、のか?
……いやいやいや! ねーだろそんなファンタジー!
「高校生ってことは十六? ……いや、この制服のヨレ具合、高三ってところか」
と言うことは十八歳あたり。
十八歳、それは人生において最初にぶち当たる人生の分岐路。
就職か進学か、進学ならばどんな大学に行くのか。自分の夢を現実にするにはどの選択がいいのか。そんなことを本気で考える年齢だ。
そしてそれは、俺にとって転落人生への分岐点でもあるわけで。
夢を追うために鍛えた体。それすらも失った三十五の自分への片道切符。
まさかもう一度選択肢しなおせっていう神様のお達しか? だとしたら……こんなふざけた話はない。
『お兄ちゃんならとれるよ! 金メダル!!』
はじめて現実に打ちのめされ、唯一心の底から祈った時ですら無視したくせに。散々人の運命を弄んだ挙句、まるで慈悲でも下すかのようなこの所業。こんなもの傲慢と言う以外なんという。
握った携帯が軋む。
「バカバカしい。それより考えるべきことがあんだろ」
生産性のない思考を頭を振って払いのけ、ガラケーをポケットへ突っ込む。とりあえず持ち物を確認。制服を上からペタペタ触っていると、胸ポケットからガマ口の小銭入れが出てきた。
所持金、しめて九十六円。
……わびしすぎんだろ高校生の俺。
缶ビール一本すら買えるか怪しい所持金に途方に暮れる。これではホテルに泊まるなど夢のまた夢。こりゃ本格的に野宿という可能性が出てきた。
「まぁ温かいし雨風なら森にはいればなんとしのげそうだし、そこまで悲観的になる必要なないと思うけど」
できることならベッドで横になりたい。我儘を言えばお風呂にも入りたい。最低限に文化的な生活をおくってきた標準的日本人ならそう考えるのは当然だろう。
見上げた空の太陽はちょうど頂点に昇ったばかり。日が暮れるまでまだ多少時間はある。とりあえずどこかで落ち着いて状況を整理できる場所が必要だろう。
そう結論つけ森へと足を向ける。
深い森はやはりと言うべきか、数メートル先すら見えない闇に閉ざされていた。一歩踏み込むたびに下がる気温が、肉体的な意味だけでなく精神的にも肌寒さを感じているのではないかと錯覚する。
ぶっちゃけ怖い。めっちゃ怖い。
当時の俺を考えれば人間相手なら遅れはとらない……と思いたいところだけど、この闇にはもっと原始的な恐怖というものがある。なんというか、幽霊が出る心霊スポットにいる感覚が一番近い気がする。
「こりゃまた、雰囲気あるなぁ……」
もしこれが映画のセットとしてもどれだけお金をかけたんだよってレベル。いまでこそ日が高いのでいいが、とてもじゃないけどここで夜を迎えたいとは思えない。
さっきから鼻を突きぬける土と草の匂いはさらに濃くなっていた。これほどのリアルなセットが人口物であるとは考えにくい。と言うことはやはりここって――
「……あれ?」
そこでふと何か見落としている予感。
さっきまでもう一つ何か匂いがしていたような……と考えながらさらに森へと一歩踏み出した時だった。
シャッと、耳元を何かが通り過ぎる風切り音。すぐにタンッと叩く鈍い音が背後から響く。瞬きを数回。油切れしたブリキの玩具よろしく振り返ると、木に突き刺さった棒が一本目に飛び込んできた。
何の気なしに掴んで引っこ抜いてみる。
なんですかねこれ? 形状だけなら現代人の俺でもよく知るものと酷似していた。突き刺さったのは鋭利に尖った木の芽、反対側のは細く薄い葉が三枚羽根のようについている。
弓だ。それも鉄や鳥の羽は使っていない、自然とそういう形に成長した一〇〇%木製。
ひっくと頬が引きつるのがわかった。
「ここで何をしているんだい?」
不意に、矢の飛んできた方向から声をかけられ、半ば機械的に振り返る。
俺に声をかけてきたのは白いマントで全身を覆ったコスプレ集団だった。数は三人。みな布まで顔を隠していて性別は分からない。だがそんなこと気にならないほど目を引くものが二つ、布の隙間から顔を覗かせていた。
「尖った耳?」
「……それはエルフ族を『尖り物』と揶揄しているのかな?」
何か癇に障ってしまった気配。でもそんなことを気にする余裕はなかった。
森、弓、尖った耳、そしてエルフだって? まるで絵に描いたようなファンタジー要素じゃないか。どうなってんだよリアル! ……いや、待て。もしかして逆なのか?
にわかに現実味を帯びていくある種の予感に、背骨へ氷水を流し込まれたように煮だった頭が覚めていく。
「もしかしなくてもここって異世界ってやつ?」
あり得ない、とはもう言い切れないだろう。
なにせ目の前の現実がどこまでも非現実を肯定してしまっている。
「黙っていないで答えてくれないかい? 君は誰で、ここに何をしに来たのかな?」
うるさい、ちょっと黙れ。
こちとらいきなりわけのわからん状況に放り込まれてパンク寸前なんだよ!
だってしょうがないだろ? エルフだぞ? はいそうですかと納得するには非常識がすぎる。と言うかペラペラ日本語をしゃべってる時点で現実味がない。いや、アメリカ語もままならない俺にとってはありがたい話しなんでだけど。
……と、本当なら文句の一つも言ってやりたかった。
だがそうもいかないのだろう。エルフを名乗ったこいつらはあからさまな不信感を隠そうとしていない。奥の二人なんて油断なく弓を引いている。友好的とはお世辞にも言えない状況だ。下手な挑発は命取りだろう。
ならば、この状況で俺の取れる道は多くない。
そこまでわかれば次の行動に移るまで早かった。俺は直立の姿勢から膝を曲げ跳躍、芸術的な円の軌跡を描いたバク宙を決めると、空中で両膝を合わせて膝と掌、そして額の三点で見事に着地。
「すいません、大人しく出て行きますの命だけはお助けください!」
我ながら額に入れて飾っておきたいほど見事なフライング土下座だった。
若さを取り戻した分、キレが一味違う。頭の上ではエルフたちの戸惑いの気配がした。
ふっ、何を驚く。こちとら夜間道路工事のクレームやらなんやらで頭なんて下げ馴れているのだ。プライドが安くなること、それすなわち大人になる異なり。いや、見た目は十代の若造だけど。
ただ今回に限って言えばその安いプライドが裏目に出てしまったらしい。
「その身軽さ、やっぱりウルフ族の奴隷みたいだね」
いくつかの聞き慣れない単語が聞こえたと思った直後、土下座する上から押さえつけられ鼻をしたたか地面で打つ。目の前で鼻血と昼の星が飛ぶ中、今度は胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。拍子にかおる柑橘系の香り。
ここでやっと思い至る。目覚めてから漂っていたのは彼女の香りだったのかと。
「答えろ。事と次第によっては命がないと思うんだね」
すぐ眼前、顔を覆う布の奥で爛々輝く翡翠の瞳に宿るのは明確な敵意――いや、それすら生ぬるい。たぶんこれは、つい最近にも突きつけられたものと同種。俺をボコって殺した大学生たちと同じかそれ以上に凶悪な物。俗にいう殺気と言うやつだ。
――マジかよ。
顔面を鼻血で染めてやっと理解した。この場面ですべきだったのは適当に流すことでも、命乞いすることでもない。後先考えず逃げるべきだのだ。
相変わらず俺の人生は選択ミスの連続だ。こうして着実にBAD ENDに繋がっていく人生を、俺は嫌ってほど味わってきた。
また繰り返すのか?
そう考えると頭が真っ白になっていく。恐怖とか混乱とか怒りとか。様々な負の感情が嵐のように駆け巡る。心の警告灯がひっきりなしにがなりたて、渇いた喉が引きつりを起こす。
「――ッ!」
言葉にできない気持ち悪さが身体を走り抜け、気が付くと俺の両手は二〇年近く前――高校生の頃に染みついた一つの動きに従い行動していた。
掴まれた胸ぐらを上から抑えるように捌き、間合いを詰めるように体を寄せ、民族衣装の胸と襟付近を掴む。さらに一歩、膝立ちで相手を押すように立ち上がった次の瞬間――
――一気に背中で背負い込むようにしてエルフを投げていた。
「え?」
呆けた声を残し一拍おいて地面に叩きつける。受け身を取らなかった衝撃で肺から空気の抜ける音が鼓膜をかすめ、顔を覆っていた布が宙を舞う。大きく脳を揺さぶられたエルフの体は、電源を落とすように沈黙し、大木の足元で力なく崩れた。
「ッ! しまった!」
我に返って自分がしでかしたことに後悔する。条件反射だったとはいえ手をあげてしまった。これでは事態がさらにややこしくなる未来しか見えてこない。案の定、抵抗らしい抵抗もできず呆気なく投げ飛ばされる仲間の姿を見て呆然としていた残り二人が、我に返って殺気だつ気配が膨れ上がる。
ヤバいヤバいヤバいヤバい!
本格的な命の危機を前に、無駄と思いつつせめて目の前のエルフだけには弁明しようと口を開き、
――息を飲んだ。
「そんな……バカな……」
俺の両手から力が抜ける。生まれたての小鹿よろしく震える足腰で立ち上がり、されど支えるには震えが大きすぎて、背後の幹によりかかる。
俺の手から仲間が離れたことで、他の二人が誤射を恐れてか弓は使わず駆け寄ってくる気配。それでも俺の視線は『それ』から外れはしなかった。
俺が投げ飛ばしたエルフは美しい少女だった。
地面に叩きつけられ意識を失っていたが、それでも彼女は綺麗だった。
歳は『今の』俺と同じくらい。スッと伸びた鼻先、色づく桜の唇はどことなく幼い。だが名工が丹念に掘り出したような精緻な造形も相まって大人っぽい印象も受ける。その危ういバランスが泣きたくなるくらい懐かしくて。でも、記憶との唯一の齟齬である晩秋に実った稲穂ような黄金の髪が、その既視感が幻である現実を突きつけた。
それでも、パーツ一つ一つが物語る。
――嗚呼、あいつが順当に成長したらこんな感じだろうなぁって。
茫然自失な俺だったが、その終わりはすぐに訪れた。
後頭部を鈍器で殴られる衝撃。そのままグニャリと歪む視界の中、駆け寄った他のエルフがナイフの柄を振り下ろした姿が見えた。遠のく意識の中で思い出したのは、向こうの世界で最後に考えた願い事。
『妹の――沙紀の顔を見たかった』
「そりゃ意味がちげぇーよ、神様」
記憶に刻まれた妹と瓜二つなエルフの少女を見つめたまま、人の願いを捻じ曲げるヘンクツな運命の神様への愚痴を最後に、
俺の意識は暗転した。