15 『後悔の咆哮』
気づかなかった――いや、違う。意識しようとしていなかっただけだ。
どうしてここに来れば助かると楽観視した。
どうして俺たちだけが襲われたんだと思い込んだ。
目の前の、人が絶望する姿を楽しむ死神が、このくらいのことをやってのけないとどうして予想できなかった!
生物としての本能が警笛を流す中、視野が広がった俺の目がリエリーの足元の地面につき立つナイフを見つける。光を反射させ紫色を浮かべる刀身は、リエリーが持つものと同じ形をしていた。ただ、違ったのは、
「うっ」
その刃には滴る赤い粘液――血が付着していたこと。
付着して時間はたっていないのか、まだ赤々としたそれは、昔テレビで見た豚の解体現場で振るわれる鉈を連想させた。てらてらとまだ滴る液体の付着したナイフと、リエリーが持つナイフを見比べ、血の気が顔から引くのがわかった。
「おまえ、そのナイフはいったい何本目だ?」
「あ~ら、遠回し、ずいぶん遠回しな質問ね」
「いいから答えろよ! いったい何本ここで使い捨てた!!」
「そ~ねぇ」
言いながら足元のナイフを蹴りあげ、器用に持っているものと合わせて二本を持つ。見比べるとよくわかった。血濡れた方はすでに、まるで何度も硬いものを斬ったように刃こぼれをおこし、刃物の体裁かろうじて維持している程度の代物だ。
それがなににたいして使い込まれたのか、わからないほどバカじゃない。
「一〇本、ええ一〇本から先は数えていないわね~」
「リエリィイイイイイイ――――――ッッ!!」
爆発した気配とともに叫んだニーフの体が光り出す。
色とりどりの光源が宙に浮き、七色の軌跡となってリエリーへ殺到した。地面をえぐり、炎を散らし、空気を震わせ。圧倒的な破壊をはらんだ光がリエリーを飲み込む。
「――あはっ」
でも、そんな攻撃に身をさらしながら、リエリーの動きもまた常軌を逸していた。
タタンとステップでも踏むように次々ナイフを振って光の線を叩き落していく。地面を叩き割れた破片を足場に舞台を空中にうつし、途中でナイフが砕ければどこからともなく抜いた次の一閃で迎え撃つ。それはあたかも一つの剣舞のようでもあった。
「あ~ら、ご立腹、ずいぶんご立腹みたいね。悪魔の子がなにを怒るの?」
「黙って!」
「あなたは迫害されていた、ええ迫害されていたはず。あなたに彼らの死を怒り悲しむ必要はない、必要なんてないはずよ。む~し~ろ~」
「黙れってるんだよ!」
「喜ぶ、そう喜ぶべきだわ。あなたが言う言葉はこうのはず、『ざまぁみろ』」
「黙れって言ってるんだよぉおおお!!」
七つの光源がニーフの眼前で丸を作りスクリュー音をがなり立て回る。
次第に回転は速くなり虹色の円となり、臨界を迎えるがごとく前方へ破壊の光線を生む。
迎え撃つのはリエリーが二本のナイフを交叉させて振るった十字の飛ぶ斬撃。
二人の間で激突――轟音が轟き土煙が立ち上がる。びりびりと空間の振動する感覚に、俺は思わず地面に手をついた。
「う、おぉ! すげぇ!」
ニーフの周りに浮かぶ光には見覚えがあった。下級精霊たちだ。おそらくスカーのいない今、彼女が使える唯一の攻撃手段なのだろう。
ふと思い出すのはスカーに言われた脅し文句。たしかに下級だろうとこれほどの力を向けられて、生身の生物が生きていられるわけが、
「――素敵」
声が聞こえたと同時に、土煙ぶち破ってリエリーが飛び出してくる。褐色の肌には大きな裂傷がいくつもあって、俺からすれば満身創痍と言っていい状況だ。なのにその顔に浮かぶのは愉悦に歪んだ不気味な笑み。
咄嗟に反応できたのはほとんど奇跡だったと思う。握ったままにしていた手を引き寄せると、ナイフは容赦なくニーフの首があったところを通過して行った。
「そんな……さっきのでもダメなの?」
助けたニーフはしかし、茫然と目の前で生きているリエリーを見つめていた。その目に浮かぶ感情が怒りから恐怖へかわっていく様を、俺はたしかに見た。
「あ~いい、いいわあなた。すごくいい表情、そそられる表情をしてる」
カタカタと、握った手を伝いニーフの震えが伝わってくる。その様に至極ご満悦な様子のリエリー。
支えがないといまにも崩れ落ちそうな体を自分の体で隠しながら俺は、
「な~のに、ボーヤ、嗚呼ボーヤはまだ抗うのね。いいわ、素敵よ。この状況でまだなにを考えているのかしら!」
次の手を考えながら燃える集落へ走り出した。
突然の奇行に、ニーフはつんのめりなが声を張る。
「ま、待て! いったいなにを――」
「なにを考えてるとか聞くなよマジで! 実際なんにも考えてねぇんだからな!!」
ふざけるな、こんなところで終わってたまるか。
あれだけの火力があっても倒れない敵とかどんなけだよ! 異世界転生してチート持ちが敵とかちょっと性格歪みすぎじゃないですかね運命の女神様!
こんなものまともに戦えるわけがない。だったら逃げるしかない。
死にたくない、生きていたい。
ただその一心でがむしゃらに走った。リエリーの斬撃が来れば転がって避けて、崩れた家を障害にしてみたりもして。それでも掴んだ手は離すまいと足を動かす。それでもニーフの手を離さなかったのは半ば意地だったと思う。
あてもなければ目的もない。ただ徒労と言っていい足掻きを繰り返す。いつか間違いなく訪れる死を遅らせるだけの逃走。
そんな繰り返しに、はじめこそは楽しげだったリエリーもつまらなさそうに、
「……退屈、これは退屈よボーヤ?」
あの狂人が呆れるようにため息を漏らす。
どうやら俺の生き汚さは彼女ですら辟易させるレベルのようだ。
「はっ! 楽しませてるつもりなんてさらさらないんでね!」
強気な態度は崩さないつもりで声を張ったときだった。
ふいに足がもつれて地面に倒れ込む。いままで話さないようにしていたニーフの手も剥がれてうつぶせに地面へ熱いキスをした。
やっべ! こんなときにドジッ子発動とかシャレにならない! 慌てて腕に力を込めるが再び顔面から崩れ落ちる。……力が入らない。その事実にはじめてこれが偶然でないことを自覚する。
「なに、が?」
「ちょっと! 大丈夫なのかい!?」
心配する声がすぐ近く聞こえる。
でもそれに答える余裕がなかった。
なんだこれ、なんだこれ! 倒れた姿勢のまま指すら動かず、心臓の鼓動ばかりが早くなる。恐怖に体が震えることすらできず、まな板の鯉が料理人の包丁を待つかのように、焦りだけが心を支配する。
「あ~、やっと、やっと回ったのね」
ニーフが慌てる一方でリエリーは呆れ顔を再び楽しげに歪めた。
「あれだけ走って、全力で走り続けて。よくいままで体がもったわ。ええ、そういう意味でも、とても楽しかった、楽しかったわよボーヤ」
「……ッ! なにを、したっ!」
「ふふ、薬草、この森にはいろいろな薬草があるのね~」
――薬草。その言葉に体をマヒさせる草の存在を思い出す。どうしていまその名前が? 疑問はすぐさま確信に変わり、思わず頬に手をやろうとしそれすら叶わない体に愕然とする。
まさか、この野郎っ!
「ナイフに、塗ってやがったのかッ!」
投げナイフで負った傷。もしその薬草とやらがナイフに塗られていたとしたら、
「こんの……野郎、こうなるってわかってたから……」
「ど~う、諦めないで、ずっと諦めないで走っていたけど、最初から無駄だったと知って。無駄、そう無駄だったの! 詰み、これが詰みよ? 詰み詰み詰み詰み詰み――――ッッッ!! さぁボーヤの諦める顔を見せて、見せて頂戴! ボーヤ悲壮に、悲壮に満ちた首を、あなたのお肉を削がせて!」
狂人が狂弁をのたまう。
スカーは……まだ現れない。エルフたちの力を借りて打ち勝とうとするもすでに人の子一人いない。傍にいるのは集落を焼かれた動揺からまだ立ち直れていないニーフが一人と、マヒで体の動かない俺……勝ち目なんてあるはずがない。
足掻いて足掻いて足掻いてみたけど、結局は全部この女の掌の上。
ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう――
すらりと持ち上がったナイフの刀身に、ニーフの絶望に歪んだ顔が映るのが見えた。
「ボーヤ」
と、手が止まる。リエリーに浮かんだのはこの日はじめての動揺の表情だった。
「どうして、ねぇどうして。まだそんな目ができるの?」
刀身に映るニーフのすぐ横で、まだ必死に睨み続ける自分の顔が映っていた。
我ながら少し驚く。よくぞまーこんな状況でまだそんな顔ができる物だと。
「プライドは安いけど意地は高いんでね。おまえの思った通りの反応なんてしてやるか」
捨て台詞のつもりだった。
ただまぁ体に染みついた生き汚さがまだ残っていたのだろう。マヒして動けない体で、それでも活路を探す。歯をむき出しにし、顔を燃え堕ちる集落の地面にこすり付け、
「だ~め、このまま裂く、裂いちゃうなんて面白くない。ええ、とっても面白くない。でも、これ以上どうすればボーヤは絶望してくれるの?」
心底困ったという風に、それこそ子供のわがままにどう対応していいのかわからない言った調子で首をかしげるリエリー。
その仕草をスキと見たのか、集落を燃やされた恨みの炎がまだ燻っていたのか。
掌に四つの精霊の光を宿し、ニーフが掌を振るう。
金髪を振り見出し、翡翠の瞳で怨敵を睨みつけ、いま切れるカードで必殺の一撃。
「――勇敢」
「きゃ!」
だがその攻撃はあっさり避けられ手首を掴まれてしまう。関節でもきめるられたのか鈍痛で集中を乱したニーフの手から光が消える。
「ニーフッ!」
このとき俺に考えがあったわけじゃない。
ただ目の前でニーフが――妹に似た少女が悲鳴をあげた。
そのことに過剰な反応をしてしまった、声を張ってしまった。ただそれだけのことだ。
――そしてそれは、この世界に来た激動の二四時間で、もっとも大きな、痛恨のミスだった。
「あ~ら~?」
チシャ猫みたいに死神が笑う。やっと見つけた食材の調理法を前に容貌を歪める。
次の瞬間には、リエリーはニーフの後ろ首にナイフの腹をぶつけ当て身を加え気絶させていた。そのまま彼女を肩に背負うと、
「おい、おい待て! どこ行く気だよ!?」
背を向け去っていく姿に、俺はがむしゃらに手足を動かす。動かす……つもりが、指先すら動いていない。ただ這いつくばって、去っていく背中を見ているしかできない事実に愕然とし、せめて震える喉だけ張り上げる。
「そいつは関係ねぇだろ! 追いかけっこなら俺がいくらでもして――」
「ボーヤ、嗚呼ボーヤ。さっきの表情はよかったわ、ええ最高だった」
「なっ!」
「でも足りない、ええ足りないの。ここまで趣向を凝らしてあの程度は割が合わない。だ~か~ら~、もっと、もっと苦しんで。――この子を奪われた苦しみに苦しんで」
「――」
そのとき俺がどんな顔をしていたのかわからない。わからないけど、リエリーが恍惚とこちらを一瞥したことからもどんな顔をしたのか想像がついた。
そして確信させた。ニーフはどうやら利用価値がありそうだと。
死神が跳ぶ。気を失ったニーフをその腕に抱いたまま去っていく。
哄笑をあげて、這いつくばる俺を見世物に奪っていく。
その姿が見えなくなるまで、俺ができたのはただ見つめることだけだった。
「ッ! ――~~ッ!!」
気づけば俺は絶叫していた。世の不条理にでも、理不尽にでもない。
望めば誰かをまきこむ。そんなこと痛感してきたくせに。
傍にしすぎれば情が移る。そんなことわかっていたくせに。
俺に俺以外へ手を伸ばす余裕なんかない。そんなことわかりきっていたくせに。
巻き込んだ、巻き込んでしまった俺自身のバカさ加減に。
なにを勘違いしていた。若返って、新しくやり直せる環境で、しかもある程度うまくいき始めてて、さっそく自惚れていやがったのか? 三十五年も一人で生きることを貫いていたくせに、今頃なにを望んでやがんだ俺はッ!
自分への愚かさに、不甲斐なさに、
燃え堕ちる集落の中心で、俺は感情を声にかえて叫び続けていた。