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僕と亀の話。

勤勉で真面目な僕と、愚図で不真面目な亀の話。

作者: 冴野一期

冒頭を残して、一時削除中です。

8/9追記 復旧しました。

「私は、この閉ざされた世界を飛びだして、もっと様々なことを経験したいのだ」

 ペットショップにいた亀が、人間の言葉を喋っていた。四方をガラスで囲まれた水槽の中、緑色の甲羅から首を伸ばし、曇りのない瞳で、僕をじっと見上げている。

「人間は羨ましい。無限の可能性に満ちている」

「……そんなの、一握りだよ……」

 ガラスを隔てた向こう側へ、せせら笑った。

「君は、なんだか、とても眠たそうな目をしているな」

「そうさ……僕には、可能性なんて、とっくにないからな。毎日、なにもせず、眠っていたいぐらいだよ。これから先のことにも、期待なんてしてないし……」

「今からでも、その為の努力をすればいいのではないか?」

「簡単に言ってくれるなぁ」

 僕はまた、せせら笑う。

「……それができりゃ、苦労しないんだよ……」

「私も苦労はない。新しい世界を知ることが、許されぬ身であるからな」

「……そういう意味じゃ、ないんだけど……」

 僕はあきれる。水槽の中にいる亀は、自信たっぷりだった。

 もし、大人になってもその自信を保ち続けているようならば、人間なら、きっと、いつも前を向いて歩くような奴なんだろう。僕とは逆だ。同じ人間だったら、友達どころか、知り合いにもなれない。強いて言うなら、上司と部下にはなれるんだろうけど、ゴメンだな。

「まぁ、どうでもいいよ。じゃあな……」

「待ってくれ。私は、人間になりたいのだ」

「そうかい、勝手に頑張ってくれ。僕には関係ない」

「話を聞いてくれ。提案がある」

「提案? なんだよ」

「我々の身体を、入れ替えてみないか」

「……は?」

「私は人間となり、世界を知るために、勤勉に働く。君は亀となって、特にこれといってなにもせず、一日、のんびりしていればいい」

「いや、意味がわからないし……」

 思ってしまった。それから、ついうっかり、口にでた。

「……もし、その話が本当だとしたら……。最高、だけどさ」

「そう思うなら、提案を受けてもらえるだろうか」

「……騙されないぞ」

「騙す? どうして、騙す必要があるんだ?」

「……お、おまえのような奴は、まっ先に、僕みたいな〝使えない人間〟から切り捨てるからだ。だから、無条件で生活を保障してやるなんて、そんなこと、ありえない」

「うむ。仮に私が人間で、同じ組織に属していれば、そうするな。君は見るからに、ダメ人間というやつだから」

「は、ハッキリ言うな、この野郎……」

「私は嘘をつかない。正直者だ」

 亀は相変わらず、ゆっくりと頷いた。

「そのうえで、君に告げる。おたがいの身体を入れ替えることを、了承するならば。私はすべてにおいて、君の世話を優先する。最低限、不自由に思うことのない環境を整えるべく、私は働く。要求があれば、その都度応える。どうかね?」

「だから待てって。そんな……都合の良い話が、あってたまるか」

「うむ。そこで、私からもひとつ、条件を付けさせてもらう」

 人の言葉を喋る亀は、言っているのだ。

 僕に、一日なにもしないで、水槽の中にひきこもる、ニートになってもいいぞ、と。

 正直なところ、生きることがなによりも億劫に感じている僕にとって、こんなに嬉しい話はない。

「その顔は、話に乗り気であるように見えるがね」

「ま……まぁ、一応、聞いておいてやるよ。おまえの条件というのは、なんなんだ」

「うむ。元の身体に戻れるのは、年に一度だけ、ということだ」

「? どういうことだ?」

「私は先ほど、君のために奉仕する、願いは大体聞き届ける、という話をしたわけだがね。もし、君が元の人間に戻りたいと要求しても、私は年に一度しか、その要求を受付けない」

 亀は変わらず、のそのそと。けれど不思議と耳に残る、響きの良い声で口にした。

「……悪い。ぜんぜん意味がわからない。その条件は、おまえにとって、どういう得があるって言うんだ?」

「直接的な損得はない。ただ、私は人間になることができれば、亀の姿に戻る気はないということだ。繰り返すが、私は、この箱をでて、新しいこと、様々な経験を積みたいと願っている。その中には、君の世話という案件も含まれる。しかし、君が頻繁に〝やっぱり人間に戻りたい〟と言えば、それも、ままならなくなるのだよ」

「あー……自分の、やりたいことの時間が取れなくなる、ってことか?」

「そうだ」

「というか、一度入れ替えた後も、元の身体に戻れるのかよ」

「可能だ。なんの支障もない」

 亀は言いきった。だったらどうして、おまえはいつまでも、こんな場所にいるんだと思ったけど、僕の感情は、すぐに、損得を判断する方へ向かっていた。

「うーん。けど、それは、なんていうか、ずいぶんと……僕の方にだけ、条件が良いような気がするぞ……」

「それぐらいの条件でなければ、君は、身体を交換しようとは思わないだろう?」

「僕が、ずいぶんと高望みをしているように言うんだな」

「違うのか?」

「ぐっ」

 言葉に詰まった。とっさに、不平不満の言葉がでる。

「……そ、そこまで言うんだったら、べつに、相手が僕じゃなくてもいいだろ……」

「私もできれば、そうしたいがね。どうも、君でなくては駄目らしい」

「なんでだよ」

 言葉を返した時に、すぐ後ろから、ひそひそと、囁く声が聞こえてきた。


 ――あの人、亀の水槽に向かって、さっきから、ひとり、ぶつぶつ言ってない?


 全身から、冷や汗がでた。

「私の声が聞こえるのは、どうやら、君だけのようでね」

「……さ、先に、先に言えよっ、そ、そういう、ことは……っ!」

「まぁ、わざわざ説明する必要もないだろうと」

「おまえ、ムカツクなぁ……っ!」

 僕は憤った。けれど亀は変わらずに、こっちをまっすぐ見ているだけだった。

「で、どうする」

「……ど、どうするって……」

「私と身体を入れ替えるかね? あぁ、一応聞いておくがね。私一匹と、飼育セットの一式を買う所持金を持っていなければ、また日を改めてくれてもいいぞ」

「……ば、バカにするなよ……おまえが、いくらだって言うん、だ……?」

 僕はそこで目をそらし、亀のいる値札を見た。

「おい、ゼロが四つもついてるぞ。ふざけんな、僕の一月の家賃より高いぞ」

「君の立場では、私の命を買うのは、少々苦しい値段かね?」

「そ、それはそうだろ。お、おまえを買うぐらいなら、コンビニのチキンカツ弁当を、えぇと、ひの、ふの、しのご……」

「決断が遅いぞ。不審者扱いで店員を呼ばれる前に、判断したまえよ」

「お、おまえのせいだろ! この亀が!」

 自分の人生を、コンビニ弁当の何日分であるかを逆算し、秤に置く。

 僕はその程度の人間で、実際よく分かっていた。自分は、どうしようもない、クズだって。


 ※


 一年後。今日ものんびりと、静かな浄水器の音を聞きながら、快適な空間で過ごしていた。

「……あー、ちょーっと冷えるか、なぁ……」

 そう思えば、ゆったりと、手足を動かす。暖かい熱を発するヒーターの上まで進み、そこでじっと、手足を引っ込める。

「……ぬくい……」

 いつも眠たい瞳で、部屋を見渡す。ゴミひとつ落ちてない、隅々まで、掃除の行き届いている部屋がある。亀と出会う前は、足の踏み場さえ見つからないほどだったのに。

 亀のやつは、食事を一日三食、きちんと自分で作って食べた。ここ最近は、明らかに血色もよくなった。毎日、運動もしているようだから、身体も一回り、たくましくなった気がする。それから近頃は、毎日、スーツを着て、アイロンをかけたネクタイを締めて、家を出ていく。

 背筋もしゃんと伸びていた。颯爽と「では行ってくる」とか言う様は、本当に、まったくもって別人そのものだった。

 正直、僕も結構、格好良かったんだな。とか思ったぐらいだ。

「……なんだかんだで、人間は、中身なんだなぁ……」

 のんきに思う。今は冬のまっただ中で、外はきっと寒いのだろうけど、そんなことは露知らず、常時、ぬくぬくと過ごす。

「ふあぁ……眠いな……寝るか……」

 じっとして、身体が暖かくなると、眠たくなってくる。

 今日も目を閉じていく。誰からも、文句を言われることはない。なにもせず、なにをしなくとも良い毎日が過ぎていくことに。どこまでも、得難い幸福を覚えるばかりだ。


 ある夜、家に帰ってきた亀は、僕に言ってきた。

「明日は〝契約の日〟だが、どうするね」

「……うーん……」

 明日はちょうど、僕らが入れ変わった日にあたる。それは、亀の告げた〝元の身体に戻る条件〟となる一日だった。

「一応、聞いてみるけどさ。条件の繰り越しって、できないよな?」

「繰り越し? つまり今年戻らなければ、来年は、二日分、入れ替われるかと聞いているのか?」

「うん。他にも、好きな一日にだけ、変われるとか」

「却下だ」

「即答かよ……」

「当たり前だろう。それでは条件をつけた意味がない」

 亀はあきれ顔になった。ガラスケースの向こう側。以前とは、内と外の入れ替わった境界線。亀は今、料理を作りながら、僕と話をしていた。エプロンを付け、ピーラーを片手に、野菜の皮を剥きながら言う。

「元の身体に戻れるのは、一年に一度だけ。そして、その決定権は、すべて君にある」

「じゃあ、もし、戻った後で。僕が亀に戻りたくないって言えば、どうなるんだ?」

「戻りたくないのか?」

「……いや、それは、その……」

 戻りたいです。っていうか、人間に、なりたくない。

「まぁ、向き、不向きがあるからな」

 僕の考えなど、すべてお見通しだと言わんばかりだった。包丁に持ち変え、手際よく具材を切り分けていく。

「私は人間で、君は亀である事が相応しいのだ。君だって、そう思っているのだろう?」

 心の内は、すっかり見透かされていた。亀は平然と料理を作り続ける。

 去年はすっかり錆びついてしまったコンロは、今は新しい物に変わっていた。青い炎が灯り、その上に乗せられた鍋からは、人の食欲を誘うだろう、微かな匂いが漂いはじめた。

「君も、腹が減ったろう」

 そして自分の食事を作る間に、僕のエサ箱にも、赤や緑のパレットを追加した。

「……ありがとう」

 毎日の反復行動のように、僕はそちらに向かう。もしゃもしゃと咀嚼する。人の金で食べるエサは、なにより美味かった。

「明日はちょうど、日曜だ。私も少々無理を言って、付き合いを断らせてもらった」

「無理もなにも、普通は休みの日じゃないか……」

「そんな道理が通じるのは、子供の内だ」

 言われ、ムッとした。すぐに言い返した。

「そうかよ。じゃあ、おまえの言う、大人の会社も、ずいぶんと法律を無視した、ブラック企業だよな」

「うむ。労働基準法は守ってないな」

「……言い切るなよ。社畜じゃないか……」

 僕はエサを食べながら、飼育ケースが置かれた棚上から、部屋の壁の時計を見やる。短針は「11時」を指していた。朝と昼の時間帯に、亀がこの家にいることは、基本ない。カーテンの向こう側の空も、すっかり暗くなっているはずだ。

「今日だって、土曜だろう。けど、おまえが家に帰ってきたのは、ついさっきじゃないか。朝の八時には家を出て、帰ってくるのは二十二時。それが基本的に週六で。日曜も、時々は会社に顔を出さなきゃならないって、それじゃ、なんの為に――」

 生きてるんだよ。言いかけて、僕はその言葉を噤んだ。

「問題ない。今の私にとって、労働は、それだけで意味のあることだ」

「……仕事が好きなんだな、羨ましいよ」

「あぁ。日々充実しているよ」

 亀は、ふたたび僕に背を向けた。煮込んだスープを下味しながら、ゆっくりとかき混ぜる。

 胸の奥がチクチクした。僕のちっぽけな嫌味なんかは、亀のまっすぐな返答に、一切れにやられてしまう。ふと、自分の情けなさ、みっともなさを思い出した。

(……いやだ。忘れろ、忘れろ、忘れるんだよ……)

 ただ、食べるために存在する口を動かして、考えるのをやめる。


「よし。良い具合だな」

 料理の出来に満足したのか、亀は鍋の火を止めた。食器棚から皿を取り出し、炒めていた野菜を盛り付けて、居間の方に運んだ。

「いただきます」

 正座して、しっかりと手を合わせる。その背中は、かつての僕よりもずっと頼もしく、一日だけ戻ったところで、今の自分になにかできるなんて想像もつかない。

「あ、あのさ……」

「どうした?」

「お、おまえは、その……」

「うん?」

「明日の、入れ替わりのことだけど……。ぼ、僕に、こうして欲しい、とかいうの、ない、かな……」

「私はなにも答えんよ。決定権は君にある」

「……でも、ほら、もし、万が一、入れ替わった後、外で事故にあったりしたら……」

「同じことだ。私が外で事故に会い、死ぬ可能性は十分にある」

「そ、そうだけどさ……あ、そうか、そういう可能性もあったのか……」

 今更ながら、そのことに気がついた。

「一応、遺書は書いている」

「い、遺書?」

「そうだ。君のご両親に〝亀の面倒を頼む〟と添えたものを、通帳の入った引き出しと共に入れてあるから、見つけてもらえるだろう」

「そ……そこまでしてたのかよ……」

 今度は逆に、亀の生真面目さっぷりに、がっくり来た。

「……だったら、本音を言えよ。もう一日だって、元の姿に戻りたくないんだって。条件なんて、無視したいんだろ?」

「さっきも言ったぞ。四の五の言わず、君が自分で決めたまえ。他に責を求めてはいけない」

「うぐ……」

 正論だった。亀はいつも、正しいことを告げてくる。僕はいつも、子供の時から、同じ過ちばかり繰り返していた。

「……わかったよ……。日付が変わるまでには、決める、から……」

「そうしてくれ」

 後は、亀は黙って食事を続けた。やがて「ごちそうさま」を言って、片付けを終え、すぐに風呂を沸かしはじめた。

 どこまでも、まっとうに、生きていた。


 ※


 久しぶりにあたる外の風は、冷たすぎる。

 二本の足で歩くのも不安に過ぎた。フード付きのコートを着て、猫背の体で、おっかなびっくり進んでいくのがやっとだ。正直、すぐにでも両手を地面に下ろして、這って進みたい。でもそうするには、背中の軽さが気になった。

「……っ!」

 僕の隣を自動車が通っていく。まだ住宅の側だったから、時速は五十も出ていないはず。なのに、ささやかな風圧にすら、ぎょっとした。

「ろ、路上って、こんなに狭かったっけ……? ぶつかったら、死んじゃうって……」

 見れば反対側の道を、小学生ぐらいの男の子が、元気いっぱい自転車をこいでいた。それすら、まともに直視するのも辛いレベルだ。今すぐその危ない物から降りろ、と叫びたくなる。

「な……なんて危険な世界なんだ、ここは……」

 戦慄した。僕はこんな世界で生きていたのか。

(うぅ、やっぱり無理だ……。はやく帰って、せめてこたつの中に、ひきこもろう……)

 一年の間、人間をやめていたブランクは重たい。

 そのことに気づいてなかった昨日の僕は、たいして深く考えず、せっかくだから、という理由だけで、人間に戻ってしまった。

「さむい、寒い、寒い……甲羅が欲しい……」

 ひさしぶりに服を着て、携帯と財布を持って外にでた。二本の足で向かう先はコンビニだ。去年まで、一日に食べるものの大半といったら、そこにならぶ弁当だと相場が決まってた。

「……あの亀は、なんで食いもんの買い置きをしてないんだよ……っ!」

 人間に戻ったのはともかく、外にでた理由は、単純に腹がへったからだ。

 家にあるのは亀のエサのみ。カップ麺すら置いてない。空腹にたえかねて、普段のエサを口にしてみたものの、ハッキリ言って不味かった。

 台所の流しで吐いていると「買いだしに行けばいいだろう」と、しごく真っ当な答えが来たわけだ。そこは僕の定位置であるはずの場所だった。

「……だいたい、あいつは、真面目すぎるんだ……。料理だって、ちょっとぐらい作り置きしたって、手抜きでもないだろうに……」

 亀は言うなれば、完璧主義者だった。食材の余りすらだしたがらず、備蓄という観念を捨てている。その日に食べるものは、必ずその日に消費する。そんな具合に堅苦しい自分ルールを厳守した。

「そう……真面目、すぎんだよなぁ……」

 だけど、悪い奴じゃない。むしろ、

「……良い奴、ではあるよな……」

 少し変わってるけど、根はとても真面目で、良い奴だ。

 思い、そんな風に評価してしまったら、なんだか照れた。

「は、はやく、コンビニ行って帰ろう……」

 親子じゃない。血もつながっていなければ、親戚でもない。哺乳類と爬虫鋼とかいう、なんの接点もない生き物だ。

「僕が、あいつと逆の立場だったなら、入れ替わった時点で川にでも流したろうな……」

 僕はそのまま、見たまんま、不真面目だ。そのうちに後悔する。人の社会で、上手く生きられないことに。自分の能力の多くが、他の人たちよりも劣っていることに、気づく。

「……どうして……」

 つくづく、悲しくなる。

「……僕が人間で、あいつは、亀に生まれちまったんだろう……」


 毎日、どうして生きてるんだろうって、思ってた。

 最後の仕事は、交通整備のバイトだった。大学を卒業して、最初の会社に入って一年を持たずに辞めた後、転々と、いろんなバイトをしてみるも、結局長続きしなかった。

 亀と出会った去年も、ショッピングモールで、車の誘導をしていた。今みたいに、たった一台の自動車におびえることもなくて、はやく今日も終わってしまえと、ぼんやり適当に働いていた。

 午後の六時には仕事が終わり、社員の部屋で着替えていると「おまえ、もうすこし真面目にやれよな」と、先輩から叱られた。これで、今月の給料をもらったら、いつも通りに辞めたらいいやと思えた。

 そうやって、なにも面白くない、いつもの一日が終わりかけていた。

 家に帰ってもやることはない。弁当を食って、たまにテレビを見て寝るだけだ。通勤に使っていた自転車は、僕と同じようにくたびれて、あちこちの金属は錆びつき、フレームもすっかり曲がっていた。

 そろそろなんとかしないと。そう思いながら、結局は壊れていくのに任せていた。

『――誰か、私の声が聞こえる者は、いないだろうか』

 錆びついた自転車の鍵に、手を添えた時だった。不思議に良く響く、声が聞こえた。不思議と、それが人の声ではないと理解した。けれど、恐ろしい気持ちも覚えなかった。

『――私を、この場所より解き放ち、共に語り合える存在はいないだろうか』

 駐輪場と、ペットショップはすぐ隣にあった。客が、玄関の自動扉を抜けた時に、妙に透き通った感じの声が、また聞こえた。

『――誰か。いないだろうか。私の願いを叶えてくれるものは、いないだろうか』

 普段は、気にも留めていない、その店に入った。

『――誰か。側にいたら、返事をしてほしい。お願いだ』

 僕は、誰にも、必要とされない。そんな人間には、逆立ちしたって、なれやしない。

 いつからか、強く。その事を信じ、その度に口にした。


「あ……死にたい……」

 歩いていた二本の足を止める。コートのポケットから、なんとなく携帯を取り出した。

「……えぇと、ど、どうすりゃいいんだ、ボタンがないぞ……?」

 亀は、使い慣れた古いガラケーから、最新のスマートフォンに切り替えていた。生意気だ。

「えぇと、こうか? アドレス帳はどこだろう……」

 自分でもなにを考えていたのかは、よく分からない。ただ、気晴らしに、余計なことをして気持ちを落ち着けたかったのかもしれない。

「くそ、なんだこれ、わけわかんねー」

 寒い木枯らしが吹く。道に困り、右往左往する老人のように。一本の指で、キズ一つない画面を指で叩いたり、弾いたりを繰り返す。

「これかな……?」

 そうしてやっと、アドレス帳らしいものを見つけた。もう一度、指で突っついて開くと、連絡先の一覧は増えていた。

「え、なんで、いつのまに……」

 ふらふらと、目的もなく生きて。すべてを失っていく僕とは反対に。この一年の間だけで、見違えたように、連絡先を預かってくれる人たちが増えていた。

「あー……そっか。僕ってもう、必要ないんだなぁ……」

 というか、最初の入れ替わりを除けば、一度だって、必要とされたことはない。当たり前の記憶が、なんだかやっと現実味を帯びてきて、じわじわと心の中をむしばんできた。

(……あー、きたよ……。これだから、イヤなんだよ……)

 僕の中からひっきりなしに、声がする。

「〝死ねば?〟」

 すぐ側を、また別の自動車が通る。声は一方的に告げる。

「〝部屋は綺麗になったろう? 見られて恥ずかしい物も消えたろう? 遺書まであるぜ?〟」

 騙し騙し使っていた部品が、とつぜん、ボキンと音を立て折れる。

「〝今なら、悲しんで、惜しんでくれる人も、少しはいるんじゃないか?〟」

「……っ!」

 自動車が通る。足を踏み出す。亀のおかげで、生きることへの未練が、消えていた。


 僕は、満足に履歴書の一覧を埋められないような生き方をしていた。新卒に比べると、もう若くもないし、どう頑張ったところで、就職なんて無理だと思っていた。なのに亀は、ある系列の子会社に入社した。ただ、その会社はハッキリ言ってしまうと、ブラックだった。

 仕事が滅茶苦茶に忙しいのは、水槽の中にいるだけの僕にも、よくわかった。

 それでも亀自身は、自分の不満や、不平さ。憤り、あと誰かに対する悪口の類を、一切こぼさなかった。しんどくないんじゃない。つらくないんじゃない。ただ、我慢強いのだ。


 ――日々、充実しているよ。


 それまでが、耐えがたい程の、地獄だったから。

「……う、あ……」

 僕は、使い方のよく分からない、真新しいスマートフォンを握りしめる。自動車が、目の前を、次から次へと走り抜けていく。いつまで経っても、二本足は動かない。

「……おまえは、社畜なんだぞ? リア充、とかいうのでもなくて……、元々の友達なんて、もういないし……、社会の、歯車の一部で……っ!」

 呪いかけるように、ぶつぶつ、口から文句が垂れた。でも分かってた。亀にはそういう〝流行り言葉〟は、効かない。というか相性が悪い。平然と返すだろう。こんな風に。

「で? ……それが、私の日々が充実していることと、なにか関連性があるのかね……」

 あいつは、ただ、狭い飼育ケースから、外に出たかった。

 それが叶ったから、日々の不満なんて、ちっぽけなものに感じる。

「し、ねない」

 死にたいけど。これからも、なんの役にもたてず、負担をかけるのだと知っているけれど。

「……あいつには、この身体が必要だから……」

 この期に及んでも、誰かに責任を預けようとする。

 自分の左胸に手を置いた。生まれた時から変わらず、脈打っているものがある。でも、これはもう、僕のものではない。もっと相応しく、使える奴がいる。

「〝これ〟は、あいつの許可なく、無くしちゃダメだ……」

 そして結局、ずるずると。みっともなく。僕は一年を生き延びた。


 ※


 さらに翌年、僕はもう、身も心も、すっかり怠惰な亀になりきっていた。

 十二月に入ると、最近はまた寒くなってきて、水槽の中には、藁を敷いた寝床の他に、オレンジ色のヒーターが再登場した。

「……うーん、暖かいね。いいねぇ……」

 その上をさっさと定位置にして座り、亀と言葉を交わした。

「最近、マスクをして家を出ることがあるけど、調子が悪いのか?」

「私は今のところ、大丈夫だがね。ただ、今年の風邪は、中々性質が悪いらしく、気を付けている」

「そうか。ま、僕には関係ないな」

「君も、どこか悪いところはないか?」

「大丈夫。毎日ストレスなくて、のんびりやってるさ」

「なによりだ」

 ゆるゆると応じると、亀は相変わらず、即座に言いきる。

「ところで話は変わるのだが、今年の正月はどうする。君も、実家に連れて帰ろうか?」

「は、なんで?」

 僕もまた、即答した。

「なんでって、君は家族に会いたいとか、思わないのかね?」

「いや、だからその辺の面倒なのは、おまえがやってくれんじゃん?」

「……まぁ、それはそうなんだが……」

「いいって、それよりさ、三日まで帰ってこないんだろ? だからその日は、飯と水、たっぷり用意しといてくれよ」

「了解した」

 もはや、僕はヒトにあらず。〝契約の日〟にも、人間に戻るつもりは毛頭ない。

 この飼育ケースこそが、僕の城だ。自宅警備員ならぬ、飼育ケース警備員。このクズが。という奴はいるかもしれないが、この生き方こそ、僕のようなクズにとっては『人生の勝ち組』なのだ。亀だけど。

「だいたいさ、おまえのおかげで、両親も泣くどころか、大喜びだろ?」

「それは否定しない」

 ほらね。クソ真面目に頷かれたよ。

「君の母親に至っては、こんなに立派になってと崩れ落ち、父親に至っては、これで俺も安心して墓にいける。と言っていたぞ」

「あー、まぁ、そうだろうなぁ……」

 元人間であった僕が、どんだけ無能でドクズであったか、窺い知れよう。しかし僕はもう、死にたい、とは思わない。

「亀よ、今日もがんばって働いてきてくれ。僕の、安全快適な生活のためになっ!」

「承知した。では行ってくる」

 これでよいのだ。日々の生活の一切を完璧にサポートする、元亀の社会人は、今日も充実しているのだから。


 さらに一年が経った。

 俗に言われる、ブラック企業に入社した亀は、一人だけ会社に残った。

 今年は部下を任されて昇給もしたそうだ。ほんのわずかだが、その会社の業績も上昇したらしい。そのおかげか、大きな仕事も任せられることになったとか。はぁ、なんというか、もはや、マンガや小説でありそうな、出世街道まっしぐらな有様だった。羨ましいですなぁ、そんな亀の恩恵に預かれる、この僕の立場が。

 もはや、知能ある哺乳類としての矜持の一切が失せた僕は、のんべんだらり、その日も、亀が帰ってくる足音だけを感知した。

「ただいま」

「んー、おかえりー」

 僕らはガラスケースの窓を隔て、挨拶を交わした。定位置の時計を見ると、短針は一時を回っている。

「……今日も遅かったなー」

「ん、まぁ、暮れも近くて、忙しいのでな」

 相変わらず、日を跨いでから帰ってくるような、そんな仕事を続けていた亀だったが、

「なぁ、おまえさ……」

「うん?」

 付き合いの長さ所以だろうか。まぁ、なんというか、亀の言動に、違和感みたいなものを感じていた。

「僕に、なにか隠してるだろ?」

「い、いや? 別に、なんだ、なにも……」

「普段は真面目な奴ほど、分かりやすいよな」

「……すまん」

 亀は、上着のスーツを脱ぎながら、ひとつ、ため息をついた。

「実を言うと、現在、付き合っている女性がいる」

「だと思ったよ。まぁいいんじゃないか、よろしくやっててくれよ……」

「いいのか?」

「そりゃね……。毎日のエサと飲み水、週に一度、この飼育ケースを掃除してもらえるだけで、僕は満足に生きてるからな」

「そうか。では今後、君にかける時間がいくらか減ってしまうだろうが、構わないかね」

「なんだよ。やっぱ迷惑にでも感じてたのか」

「いや、そんなことはない。むしろ、良い気晴らしになっていたよ」

「えっ……あ、そう……?」

 てっきり、いつものように「当たり前だろう」ぐらい返されると思っていた。ので、これは想定外だ。

「君ほど、独り言をするのに適した相手はいないだろうな」

「余計なお世話だ」

 亀は言って、僕には出来ない風に、シニカルに笑った。


 それから二週間が過ぎたころ。

 年末も近づき、人の世間は忙しくなったからか。それとも別の理由があるせいか。ある夜に帰ってきた亀の眉間に、珍しく皺が寄っていた。

「ただいま」

「お、おかえり。どうした」

「……まぁ、忙しい」

 タイを外し、クローゼットを開く時の音も、心なしか乱暴だった。

「食事を作る」

「あ、うん……」

 どこか投げやりに言ったとき、充電器に刺した携帯が震えた。亀の動きが一瞬、ぴたりと止まったけれど、悩んだ様子で、結局は向かっていった。

「またか」

 はぁ~、と。

 亀がひどく疲れた感じにため息をこぼすところを、初めて見た。

「なぁ。もう日が変わってるのに、電話?」

「少し静かにしててくれ」

「わ、わかったよ……」

 こんなに機嫌が悪い亀を見るのは、初めてだった。電話の方も、一見すると、おだやかな対応に思えたけど、かなり手短に叩き切った感じもある。そして会話してる内容から、どうも、相手は女性らしくて、

「……あのさ、今の相手って、もしかして、おまえの付き合ってる女性じゃない、よね?」

「違う。今取りかかっている、合同プロジェクトの、相手側の重役だ。どうも、好意を持たれてしまったらしい。私にその気はまったくないのだが」

「そっか。そりゃ、迷惑だね」

「正直言うとな」

 亀は言った。それから幾分か足を止め、じっと僕の方を見た。

「……ま、まだ、なにか?」

「君、ちょっと聞いてもいいか」

「な、なにを?」

「どうして、私が迷惑してると思ったんだ?」

「へ? どうしてって……。いや、普通に……おまえ、しんどそうじゃないか」

「そうか」

 さっぱり意味が分からない。どういうこと、と尋ねてみると、

「いや、実は同僚からな。今電話した相手の親は、かなりのキャリア組だとかでな。彼女自身も、かなりの資産家で、逆玉が狙えるぞ、なんて言われてしまってな」

「へぇ、美人だったりするの?」

「かなりな。正直、内側では妬みも買っていて、苦労してる」

「ふぅん。でも、おまえ、さっき言った、逆玉とか、そういうのは、端から興味なさそうだよね」

「どうしてそう思う?」

「いや、それは、だから……。こ、言葉にするのは難しいけど……」

「できたら、頼みたいところだが」

「えっ、えーと……」

 僕はひたすら、エサしか食べない口をもごもごさせる。亀が静かに、こっちを見ていた。

「……僕は、基本的に、劣等感だらけの奴だったろ……。だから、そういう、階級社会みたいなのは、自分が惨めになるから、嫌だったけど……。おまえの場合は、なんていうか……そういうんじゃなくて、まずは等しく見てるだろう。本当に、まずはざっくり。人間か、どうか……その辺りから、だから……」

 久しぶりに、たくさん、物を喋った。口の中がカラカラに乾いた気がして、飲み水のタンクを頭で突っついて、水を含んだ。慣れない事は、するものじゃない。

「ぼ……僕は、こう思うんだよ……。おまえは、たぶん。自分が〝きちんと生きてる〟っていう実感を得るために、毎日、頑張ってる。毎日、耐えること、そのための仕事を頑張れる奴なんだ……。でも、最近は、なんていうかちょっと、さすがに、無理してない? って思ったりするよ……」

 僕が、そんなことを言える立場じゃないのは、承知の上だったけど。

 素直に思ったことを口にした。自分の発言で、相手がどういう反応をするか、気になるなんて。もう、どこか遠い彼方の話だった。ずっと、忘れていた。

「そうか」

 亀は、どこか静かに呟いた。

「私は、割とギリギリのところに立っているのだな」

 それは、かつての僕のように、悲観的な物言いじゃなかった。

 ひとつの到達点に辿り着き、また、新しい未来を見据えられるといった、前向きな人間の、期待と強さに満ちた現れだった。

「感謝するよ、君。今後はしばらく、自分の仕事量を増やすのは気をつけるとしよう」

「あ、うん……」

 感謝する、と言われた。そのことに、飛び上がるぐらい、驚いたのと同時に。

 亀の仕事量には、僕という存在が含まれている、こっちからはもなにも返せずに、ただひたすら、恩恵だけを受けている身の上だから。素直に喜ぶべきか、どうなのか、分からない。

(いや……本当なら、喜ぶ必要も、そうでない必要もないはずだ……)

 僕はもう、人間をやめた、亀なのだから。

 飼育ケースの中で、一日エサを食い、ぐっすり眠る。それだけで満足するんだ。なのに、やっぱり、まだ、どこかにいるのだ。

(……未練がましい、人間の僕が。どこかに、残ってるんだな……)

 それを消し去るべきか。いや、消すって言っても、方法なんて分からないんだけど。

 浮かぶのは、二つの想い。


 ――どうして、僕は生きているんだろう。

 ――僕は一体、なにが欲しかったんだろう。


 もし、人としての未練があるならば、なに一つとして、答えが出せなかったからなのか。

「君、今後の予定について、ひとつ、提案があるのだが」

「……あ、うん、なに?」

「来週のイブの日に、私の彼女を、この家に連れてきても、いいだろうか」

「え、あ、それは、まぁ……どうぞ」

「感謝する。さて、それでは簡単な炒め物だけ作って、寝るとしよう」

「そ、そうだね……」

 ここまで疲れていても、料理を作ろうというのが、なんというか、相変わらずだった。そんな堅物が、美人で金持ちのお嬢様に振り向きもせず、好きになった相手は、どんな人なんだろう。

「なぁ、亀」

「なんだ?」

「おまえが、その……連れてくる、彼女さんに、会うの、少し、楽しみ、かも……」

「珍しいことを言ってるな」

「うん。自覚はあるよ……。僕にもまだ……なにか、いろいろ〝残ってる〟みたいだ……」

「そうか。うむ、君は、今更だが〝悪くない人間〟だな」

「なにそれ、善人ってこと?」

「どうだろう。素直にそう言ってしまうには、君は、不真面目すぎる」

「……知ってる……」

 そして、エサ箱に入れられた亀のエサを、僕はまた、ゆっくりと味わった。


 ※


 クリスマスイブに、亀の言っていた女性が家にやってきた。時刻は夜の八時で、普段の亀からは、ずいぶんと速い帰宅になった。

「おじゃまします」

「どうぞ」

 家にあがってきた女性は、細身で、小柄な感じの人だった。二人とも、さっきまで仕事をしていたのか、そろってスーツを着たままだった。手にはビジネスバッグの他に、スーパーの買い物袋と、ケーキの箱を、分担して持っていた。

(……見た感じ、普通の人だなぁ)

 僕は女性を観察した。率直に言って、普通だった。亀のことだから、もしかしたら、すごい美人を連れてくるんじゃないかという気もしていたが、違った。

「あ」

 女性は、水槽の中にいる僕と目が合うと、いきなり「こんばんは」と言ってきた。亀以外の人から声をかけられるのは、実に久しぶりの事だった。

「こちらが、おっしゃっていた、亀さんなんですね」

「そうだ」

「名前は、ないんでしたっけ?」

「ない。亀の方も、そういったものを望んでない」

「どうしてですか?」

「肩書きというものを、面倒に思っているからだよ」

「あぁ、わかります。私も時どき、人間やめたくなっちゃうんですよね」

 おかしな会話だった。

 亀が今夜、彼女を連れてくることは聞いていた。だけど、もちろん、僕の正体が人間であることは伝えていないのだと思っていた。だから試しに僕は、女性に向かって言った。

「……こ、こんばんは……」

「……」

 反応はなかった。ただ、亀の方も、もしかすると、という期待があったのか。彼女の方をじっと見ていた。

「あの、私の顔、なにかついてます?」

「いや、なんでもないよ。居間の方に座っていてくれ。お茶でも煎れよう」

「手伝いますよ。食材の袋は、中出して、流しの上に置いちゃってもいいですか?」

「あぁ。ありがとう」

 そうして二人は、なんだか〝らしい〟感じに戻った。二人とも、てきぱきと作業を進め、亀がお茶を煎れたあと、女性は「お手洗いをお借りします」と言って、扉を一枚隔てた向こう側に消えていった。

「彼女、君に、少し似ているだろう」

 亀はスーツの上着を脱ぎながら、小声で言った。

「……どこがだよ」

「必要以上に、この世に悲観的なところだな」

 亀はクローゼットを開き、ハンガーにスーツをかけた。代わりに厚手のスウェットを上から着る。取り出したもう一枚は彼女の分だ。

「だが、彼女は君と違い、表向きはとても真面目なんだよ。仕事もよくできる」

「あ、そうなんだ」

「そうだとも。しかしその分、普段は押し隠しているがね、実に〝脆そう〟なんだ」

「精神的に脆そうってこと?」

「そう。君と同じだな。彼女は、これといった〝幸せ〟を望んでいない」

 僕は、その言葉を聞いて、どきっとした。

「……そんなわけないだろ。だって、あの人、おまえの事が好きなんだろう?」

「かもしれん」

「いやいや、絶対そうだろ。少なくとも、その、これまでだって、してるわけだろ?」

「あぁ。だが、それは彼女にとって〝死んではいけないから生きる〟という手段のひとつに、同義かもしれない。私もまた、どうすれば彼女を満たせるのか、答えがない」

「まて。ちょっと待て、意味が分からないぞ」

「君は、不真面目で、彼女は、真面目。しかし根っこの部分は同じ、ということだ」

 亀が言った時、トイレの方から水が流れる音がした。扉が開く音を聞いて、僕たちも会話を中断した。


 二人の男女が食事を終えて、ほんの一時、なごやかな感じの雰囲気になった。亀になる前は、散々〝空気の読めないやつ〟と言われてきた僕も、さすがに察した。

 水槽の中にある、藁を敷いた小屋の中に入る。頭と手足を引っ込めて「後はよろしくやってくれ」とばかりに目を閉じた時だった。亀のケータイが鳴った。

 こんな時間に誰だよ、空気よめよ。とさすがの僕も突っ込みかけたのだが、

「ちょっと、すまない」

「はい」

 真面目な二人は、電話を無視する、という選択肢が浮かばないらしい。

 いや、べつにね、聞き耳を立ててるわけじゃなく、仕方なくね。

 ともあれ亀は席を立ち、こっちの方へとやってきた。ケータイの充電器は、僕の水槽から伸びた、電気ヒーターへの供給との関係上、同じ棚の上に置いてあったのだ。

「………………」

 それから、亀が苦い顔をする気配を察した。見てもいないのに、なんで分かるんだと言われたら、それは、この数年の間、僕は亀と二人で暮らしていたからだ。それ以外の世界を、なんら見てこなかったからだ。

「はい、こんばんは」

 亀が電話に出た。

「え……今からですか? いえ、申し訳ありませんが、本日はちょっと……は? ウチに来る? あの、ですね、待ってください。失礼ですが、今酔われてますよね? え、今この家に誰か……いえ、それは、その……」

 珍しくどもっていた。つまり、相当に焦っていた。最初こそ、なにか上司的な相手から連絡が来たのかと思ったが、相手はどうも、例の女性らしかった。

(なるほど。空気を読むのではなく、ブチ壊しに来たわけか)

 僕のゆるい頭でも、理解できた。

(修羅場だ、これ……)

「えぇ、それでは、はい。失礼いたします。また明日」

 言って、電話を切った。空気は、ぴしぴしと冷え切っていく。

「今のって、ウチとお付き合いのある、取引先の〝あの人〟ですね?」

「そうだ」

「こんな時間に、よく電話してくるんですね?」

 案の定、いい雰囲気はブチ壊しになってしまった。

「いや、それは……あぁ、以前にも、確かに同じことはあったが……」

「そうなんですか。二股かけてたんですか」

「違う。それだけは、断じてない」

 亀は馬鹿正直に答えていく。

「でも、仲がよろしいんですね?」

「……そうだな、プロジェクトが円滑に進むぐらいには、上手く意志疎通がいっていると思っている」

「お、おいこら亀っ!」

 さすがに黙っていられず、僕にしては、これ以上なく素早く、のっそり這い出した。

「おまえって奴は……、違うだろ、ちゃんと説明しろよっ!」

 のっそりと、首を出して、ガラス窓を隔てた向こう側へ、頑張って叫んでみる。

「今の相手って、あれだろう。おまえが珍しく愚痴る感じで言ってた女性だろ。こちらにその気はないのに、言い寄られて迷惑してるとかなんとか、格好つけた感じで言ってたじゃないか!」

「――あの人が来るなら、私、帰った方がいいですね。家柄が、ちょっと違い過ぎますし。あなたの出世的にも、向こうの人がいいでしょう」

 しかし、僕の声は届かない。人間だったころの、惨めな気持ちが、湧きあがってくる。

 かすれた地響きのみたいな声で、どうにかならないか、と思ってしまう。

「……あのですね……」

 僕は、亀の助けになりたくて、つい、言った。

「この亀は、バカ正直で、融通とか変な形で利かなくて。僕にニート暮らしを保障してくれる、これ以上ない便利な奴なんですけどね。でも、女性に二股をかけるような甲斐性は、ハッキリ言って皆無ですから。それだけは保証します」

 僕の声は、ガラス窓を通じて、部屋中に響き渡るぐらいに聞こえたはずだった。

 意味がない。そう知りつつ、勢いに任せ、続けた。

「こいつは、だからその……ちょっと変わってるところは、あるんですけどね。根がすごく真面目で、良い奴なんですよ。貴女にも、それはよく分かってると思います。でも、ハッキリ言って、それは僕の方がよく知っている。これまで、無駄に生きてきて。……い、今だって、無駄に生きてるかもしれないけど……。でも、そんな生き方してる中で、たぶん、この先も、こいつ程の〝良い奴〟を、僕は見つけられないと思うんです。だから……」

 女性は、僕の方を、ちらりと一瞬、煩しげに見ただけだった。なのに、


「ありがとう」


 だというのに、亀は言った。真面目に一言、言いやがった。

「……なにが、ありがとうなんですか?」

「違う。君じゃない。この亀に言ったんだよ。彼は、私が二股などしていない人間だということを、保証してくれた」

「おい、ちょ、バカ! おまえは黙ってろよっ!」

「あの……、私のこと、バカにしてるんですかね? それとも、そこの亀さんが、本当に人間の言葉を喋ってるとでも?」

「その通り。そこの亀は、人間の気持ちを解している。私の友、というのは少し違うかな。強いて言うなら、大切な〝腐れ縁〟だ。バカになどしていないよ。ただ私はね。気持ちを正しく理解し、代弁してくれた相手がいることに、思わず礼を贈ってしまっただけだ」

「……あの、ちょっと、なにを言ってるか、わからない、ですよ……」

 女性は、すっと冷めた表情に変わった。僕もまた、同じ気持ちだ。

 熱が冷えた後に残るのは虚しさだけが集う。


 ――僕は、どうして余計なことをしてしまうんだろう。


 人間だったころの、一番、惨めな記憶。

 良かれと思って、軽率に動いて、大きなお世話になった過去。

 だったら、最初から、なにもすべきじゃなかったのに。

「帰りますね」

 どうしてだろう。どうして、いつも、こうなるんだろう。

 人間すらやめたのに。なんで。どうして僕は、いつもこうなんだ?

「送っていこう」

「いりません」

「ではせめて、タクシーを」

「いらないって言ってるでしょっ!」

 女性は叫んで、涙をこらえた顔になる。亀が貸していたスウェットを脱ぎ捨てて、壁にかけていたスーツの袖に、乱暴に手を通す。それから速足で、玄関の方へ歩いていった。その間、亀はじっと動かない。その場に留まって、素直に女性を見送るだけだ。

 扉が乱暴にしめられる。マンションの階段を足早に降りる音が、遠ざかっていく。

「……ごめん……」

 僕はつい、口にした。

「……忘れてた。僕は無力なんだって……」

「まったくだ。しかし、私も承知して返事をした。お互い様だよ」

「いや、でも、おまえなら。あの状況でも、フォローとか、出来ただろう……?」

「かける言葉は想定していたよ。だが、その前にはもう、君が、中々熱のこもった発言を繰り返していたからな。私が言葉を挟む余地は無かったよ」

「……」

 それは、あきらかな嫌味だった。初めて見るほどに、ひどく苛立っているのを察して、僕は、なにも言えなくなる。

「仕方ない。とりあえず、片づけるとするか」

 食べ終えた、ケーキの空箱と皿。それを片そうと機械的に動き出す姿。その様子は、とても機敏とは言えなくて、うす鈍かった。

 いつも、別人のように見えていた〝自分〟。なんだ、結構格好良かったんだなと、内心で褒めていた〝自分〟。そいつが、その時だけは、いつかの、どうしようもない、自分自身に重なった。

「……あ、あのさ……」

「悪い。今、話かけないでくれるかね」

「あきらめないで、くれよ……」

「なに?」

「彼女を、追いかけるんだよ……。だって、そうすべき、だろ?」

「無理だ。もう遅い。どんな言葉をかけても、通じるとは思えない」

「無理、とか、そういうんじゃ、ない……」

「なにが言いたい?」

「お、おまえは……僕の、僕の……ある意味での、理想の姿なんだよっ!! だから! やれ! さっさと彼女を追いかけろっ!」

「……貴様なぁ……今更、都合の良いことを抜かすなッ!」

「そうだ! 僕の都合だ! だから言ってやる! 早く、行けぇ!!」

 僕は怒鳴った。そして亀もまた、怒鳴り返した。

「そこまで言うなら、貴様がやってみせろッ! この、役立たず、死に損ないの、クズニートがッ!」


 僕は、クズだ。

 人生の主役でもなく、二枚目でも、三枚目でもない。もし、小さな舞台が用意されたとしても、すぐに飛び降りて逃げだす様な人間だ。

 能力は微塵もない。苦労して伸ばす気もさらさら無い。

 失敗しても学ばず、不平不満を述べる口だけは達者だ。それでも時どき、ふと「誰かの役に立ちたいな」と、思ってしまうことがある。

 普段から、そう心がけてない、なんの努力をしてこなかった奴が、そんなことを思うと。まず間違いなく裏目に出る。大火傷する。

 炎は周りに広がって、べつの誰かが巻き込まれる。その火消しに働かされるのは、その、別の誰かなのだ。

 僕は、クズだ。そこにあるだけで燃えて広がる、只の火種だ。

 なにもしない方がマシ。でもいつか、喉が渇き、腹が減るのと共に。僕の口はまた、味気のないエサを運ぶ。それだけに変わり果てる。


 ――どうして、なんのために、生きているんだろう。


(死にたい! 誰か! 助けてくれ!)

 月も、星も、まともに見えない雲の浮いた夜道を、僕は二本の足で駆けていた。ほとんど条件反射で、町の大通りの方へと通じている道を走っていくと、彼女の後ろ背が見えた。

「ま、待ってください!」

 相手が振り返った。立ち止まった。その間に、僕は空いた距離を詰めることができた。けれど、そこからが、無理だった。

「なんですか」

「あ、あの……」

 まともに、相手の顔すら見えない。挙動不審に目をそらして、必死に言葉を探すけれど。でも、そんなものはひとつも浮かばなかった。

「わたし、帰ります。ついてこないで」

 相手が踵を返して歩きだす。僕はとっさに、両手で、彼女の手を握った。

「放して!」

「す、すみません! でも、あの……!」

「いい加減にしてもらわないと、人を呼びますよ」

「それは、その、困ります!」

「だったら、放してくださいっ!」

「それ、それも困る!」

 伝えると、女性はまったく無視して、もう片方の手でスマフォを取り出そうとする。

「け、ケーサツはやめよう! ね!?」

「だったら、手を放して……放せって、言ってんですよっ!」

「っ!」

 街灯が照らす夜道の中、僕はなにひとつ持っていなかった。

 彼女を引き留める術なんて、知るはずもなかった。

「こ、後悔します!」

「はい?」

 だから、僕ができることは、伝えることだけ。

「〝僕〟は、誰よりも、君のことが好きなんだから!」

「あぁ、そう、です、かっ!」

 彼女は思い切り、腕を引っ張った。僕も抵抗する。亀が毎日、僅かな時間で鍛えた身体は、力だけで言えば、華奢な女性など、足元にも及ばない。

「いいか! よく聞いてくれよ!」

「今更、なにを聞けっていうんですかね」 

「自慢話を、聞いて欲しい!」

「は?」

 彼女の頭の上に、はてなマークが浮かぶ。僕は気にせず、肺活量に任せて押し切った。

「〝僕〟は、クッソ真面目な奴なんです! たまに融通が利かないところはあるけども、だからって、人付き合いのできない奴じゃないんだよ! なんでかっていうと、とにかく我慢強いからっ! たとえ無茶なことを言われても、それを受け止めて、失敗したら、素直に頭を下げてやり直すんだ! 相手がどんなクズ野郎であってもそう! それと、知ってるかな! 〝僕〟は今でこそ、料理のレシピが三百を超えているけれど、最初はカレーを作るのに、たくさん指を切ったりしてたんだよ!!」

「知らないわよ! っていうか、いきなりなんなの!?」

「いいから、頼むから聞いてくれ! 〝僕〟は、ハッキリ言って、頭が良い方だ! 最初は失敗も多いんだけど、次第に要領良く、いつかは乗り越えていく! でもそれは、この世界のすべてが新鮮で、輝いて見えて、純粋に受け止められるからだよ! そしてこの先も同じだ! 色あせることなんてない! なんでかって言われると困るんだけど、これはもう〝人として生きていく才能〟が、あるからとしか言えないんだっ!」

「……あの、もしかして、自画自賛して、私を引き留めようとしてるんですか……?」

「そうだ! 僕は本気だ! 言ってるだろう! 後悔するぞって! こんな堅物な〝僕〟が、一人の人間の女性を好きになったんだ! 簡単な気持ちで、付き合ったりするはずないし、この先、他に好きな相手ができても、浮気なんてしない! っていうか、想像もつかないな!」

「……失礼ですが、どこかで頭でも打ちました? 普段と全然、雰囲気が違うんですけど……」

「そ、それも、事実なんだから、仕方ないだろっ!」

「あぁそうですか。で、そろそろ放してくれませんかね。もう、本気で叫びますから」

「させない!」

 睨み付けられる。けど、僕はもう、怯んでいなかった。

 相手の顔を、まっすぐに見た。背筋を伸ばし、息を吸い込んで、解き放った。


「〝僕〟は君を、幸せにします。そうすることが、できるんです!」


 口にしたのは、誰かの役に立ちたいな。その至上の願い。

 たった一人の誰かに、いつか、贈るべきだった夢。

「だから、行かないでください……お願いします……」

 僕は、ヒトだ。今だけは、人間の形をしている。口は、エサを食べる以外にも、使える。でも、これでもう尽きてしまった。

「……って、……なん、ですか」

「えっ?」

 腕から、彼女が握っていた力が抜けた。昂ぶった熱が冷めた瞬間、ぞっとした。

「幸せって、なんですか? なに、それ?」


 ――あなた、なんの為に、生きてるんですか?


 そう聞こえた。僕はここで、答えを出さねばならなかった。

 亀に入れ変わって、怠惰に、誰かの庇護を得ながらも。愚図で不真面目に生きてしまっても。ニートやってても。分かってしまったことが、ひとつある。

「だ……誰かと一緒に、生きることだよ」

「それだけ? それが幸せ、ですか?」

 僕の答えを聞いて、目前の彼女は、やっぱり今にも死んでしまいそうに見えた。それと同時にギラギラと、凶悪な光も宿していた。

「誰かと一緒に生きていく。それが、幸せなこと?」

「え、えと……他には、苦労を分かちあえたら、いいのかな……って」

「へぇ」

 僕はまた日和はじめた。逆に彼女の方は、なにかもう、憎悪的なオーラを放ち始める。

「わたし、お金で苦労するのは、絶対に嫌なんですよねぇ」

「そ、それは、僕も同感……」

「父親が、クズだったから」

「えっ!」

「働かずに、家で、いつも寝てました。なにもしてないのに、ご飯食べて、遊びに出かけて。でもお金なんてないから、どこからか借金して借りてくるんですよね。だから、母がその分働いて……毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日……仕事仕事仕事仕事ッ!!!」

 僕が映る瞳から、ぽろぽろと、涙がこぼれはじめた。

「わたし、まだ、覚えてるんです」

「……な、なにを覚えてるの、かな……?」

「小学生の時に書いた、作文です。将来の、夢」

「さ、作文? しょ、将来って、えぇと……」

 いきなり言われて戸惑った。

 そういえば、僕は、なにを書いたんだろう。あの頃は、たくさん、無限に夢があった気もする。

「〝サラリーマンになりたい〟」

「……サラリーマン……? OLじゃ、なくて?」

「あの頃、借金のない家に住むお父さんは、大体みんな〝サラリーマン〟だったので」

 彼女はまた、生気が欠けた様子で、淡々と続けた。

「早く、大人になって、仕事につきたかった。お母さんを、家で、ゆっくりさせてあげたかった」

「……叶った?」

「かなわながっだ!」

 とつぜん、うわぁん、って、泣かれた。

「おかあざん、わだしが、高校、いでるどき、に、かろうで、しんぢゃ、で!」

 胸を叩きつけられた。思いっきり、心に来た。

「なのにっ、あの、バカ! クソオヤジっ! まだ、いきでる! しね! 今すぐ、死ねばいい!」

「……ッぎ!」

 全然違っていた。自分で「死にたい」と思うのと。誰かから「死ね」って言われることは、別次元の痛みだった。

「死ねッ! 働いてない奴は、みんな、今すぐ死んじゃえっ! そうすれば、お母さん、死ななかったんだッ!」

「……だよね……」

 膝が冗談みたいに笑う。いっそ一緒になって、泣き崩れてしまいたい。

「……僕もそう思うよ、ホント……。そんなクズな奴らは、まとめて死ねばいい。でも、でもさ、でもね、そりゃダメだよ……だってさぁ」

 僕は彼女を抱きしめた。涙はこぼれなかった。泣き喚く為に、ここに来たつもりはない。


 ――誰かの役に、立ちたいな。


 生まれて初めて、人を、誰かを、愛しいと思った。だからこの女性を、絶対に〝僕〟のところへ、返してやろうと誓った。

「それでも、まだ駄目だよ。そのクズは、まだ、死んじゃいけない」

「どうして!?」

「〝僕〟が、君を幸せにするところを、見せてやって、ないからだ!」


 ――僕は、なんのために、生きている?


 ずっと、そう思っていた。

 自分に諦めがつくと、欲しい物も、叶えたい願いも、すっかり綺麗になくなった。ただ、惰性のままに生きて、あとは壊れていくのだと知りながら、なにもできなかった。なにをやっても失敗するなら、もういっそ、今のままで構わないと諦めきった。

 負が連鎖すると「死にたい」という、なんの生産性もない言葉に変わって付きまとった。

 でもこの時だけは。そんなクズ共が、マイナスの方向に寄り重なって、道を作ろうとしていた。

 僕に、どうしようもない、過ちを犯させようとしている。

「それ……私と、結婚するってことですか?」

「そうだよ。〝僕〟は君と結婚する。そして必ず、幸せにしてみせる」

「……さっきから、幸せ、幸せ、そんなのばっかり連呼して! だからなに? 幸せってなによ!?」

「君がこれまで抱えてきた不幸を、ぜんぶ帳消しにすることだ!」

「ば、バカなの……? でき、る、はず、ない、ないっ、そんなの、この世界にないッ!」

「あるんだよッ! 君の目の前に、そんな滅茶苦茶都合の良い奴が、いるんだよッ!」

 逃げたい。逃げ続けたい。僕に決断なんてできやしない。誰かに責任を負わせて楽がしたい。助けてくれ。そんな、どうしようもない思いが、間違った光明になって、線を繋ぐ。

「〝保証する! なんだったら、専用の契約書を作って、サインだってするさ! そして必ず守り通してみせるぞ! 僕ってのは、そういう奴だからなッ!〟」

 僕は、大嘘つきの、卑怯者だった。

「だから〝僕〟と生きよう」

「……それで、貴方は、なにか得をするんですか?」

「大丈夫。〝僕〟はそういう、損得にはあまり興味がないんだよ。ただ、自分の可能性を広げていきたい思ってるんだ。でもね、最近ちょっと、一人で支えられる範囲に限界が来てる。だから、どうか、よろしくお願いします。君も“僕〟を支えてあげてください。どうか、二人で、仲良く生きてやってください」

 それでも。ヒトとして生まれたからには、一度ぐらい。

「ねぇ……貴方は〝誰なんですか〟? あの人じゃありませんよね?」

「僕は、ただの観客だよ。あいつと、君の不幸が終わるのを望んでる」

 誰かの役に、あいつの為に。授かった二本の足で、立ちあがってみせたかったんだ。


 ※


 むかし、むかしのこと。亀は、一度だけ、こんな風に言った。

「素直に感服した。君は、結婚詐欺師になるべきだ」

「……あー、クズの僕には似合いかも。年に一度、そういうのをやってみようか?」

「よしてくれ」

「怖い顔するなって。冗談だよ」

「冗談でも看過できない事がある」

「わかった。僕が悪かった……。けど、こっちはもう、人間に戻る気はないよ。大体さ、あの時だって、おまえが勝手にキレて、ルールを破ったんじゃないか」

「……そうだったな。本当に、すまなかった……」

「いいよ。さっきので相子ってことにしてくれ」

「わかった。しかし、いいのか、君は」

「なにが?」

「君は、私が無理だと判断したことをやってのけた。あとはもう少し、普段から自信さえ伴えば、必ず良い奴になれる。今からだって遅くはないぞ。人間として、十分にやっていける」

「ないない。あれは偶然うまくいっただけ。続きやしないよ」

「ふむ。まぁ、それもそうだな」

「相変わらず、あっさり言ってくれるなぁ……でも」

 ふと、僕の中に残る、人の部分が継ぎ足した。

「なぁ、良かったら契約を更新しないか」

「ん、どういうことだ?」

「たいしたことじゃないよ。もし、おまえがこの先、人の生き方に疲れたら。その日は僕が一日だけ、肩代わりをするって話さ」

「……なるほど」

 亀は口端を釣りあげて、不敵に笑った。

「それは中々に悪くない話だな、君」

「だろ?」

 そしてこの日から、僕たちの生き方は少しだけ変わった。


 ずいぶんと、昔の夢だった。

 あの日〝虎の威を借りまくるクズ戦法〟にて、亀の彼女を連れ戻した日。久しぶりに、心待ちにするような未来を浮かべた。

 そこに、僕の姿はなかった。仲睦まじい家族の様子を、透明な壁を隔てた向こうから、のんびり、ゆったり、楽しむ生き物がいるだけだ。

「――――」

 子供は一人、女の子がいる。両親に似て真面目な娘だ。夏休みの宿題を、八月がやってくる前に終わらせてしまうと言えば、かつての僕みたいな連中は「そりゃ真面目だなぁ」と納得するのではないだろうか。

「――め、き、ち」

 広々とした家には、それなりの頻度で客が来た。娘が連れてくる友達もいたし、親戚一同の大人たちが、顔を見に寄ったりもする。

 やってくる大人は、誰もが娘を「可愛いね」とほめた。あと最近、この家の奥さんに一月に一度だけ、家にやってくる事が許された、初老の男がいる。

「――かめきち。ねぇ、かめきちっ」

 彼だけは、どうにも困った様子で、いつも縮こまっていた。実の娘から煎れてもらったお茶を、すまなそうにすすり、置かれた仏壇に線香をあげて、長居せず帰っていく。

 この家の大黒柱としては「もう少しぐらい、ゆっくりしてもらっても」と思っているが、奥さんの方は「甘やかすとつけあがるから」と容赦がない。

「かめきち。起きてよ、ねぇったら」

「……うん?」

 〝かめきち〟という、いかにもそれっぽい名前を付けられたのは、その子が四歳の時だ。

 両親は僕のことを、ずっと亀と呼びすてていたが、娘は「名前がないとかヘンだよ」という理屈で、僕に呼び名を与えた。

「もー、今日は朝から、お父さんと入れ変わってるでしょ」

「んぁ……え、あー……よくわかるね」

「わかるよ。かめきちって、だらしないもん。お父さん、こたつで眠ったりしないし」

「面目ない」

 ふわぁ、とのんびり身体を起こす。頭をゆらゆら揺らすと、即座に「ねぐせついてる!」と指摘されてしまった。

「もー、これからでかけるって言ったのに。後ろの髪なおすから、じっとしてて」

 娘は持っていたハンドバックを開いて、小さな櫛を取る。

「あーあ、ほら、シャツの襟も折れてるじゃない。ほんと不精なんだから、かめきちは」

「いいよいいよ、それぐらい」

「良くない。外で誰かに見つかったら、私が恥ずかしいの。一応、私のお父さんって人気ある方なんだから、自覚してよね」

「あー、はいはい。だったら映画もお父さんに連れていってもらいなよ」

「すぐそうやってすねるんだから。子供みたい」

「まぁね。どうせ僕は子供だよ」

「なにそれ、情けないの」

 ぷすぷす怒りながら、娘は僕の身だしなみを整える。からまった髪をとかしてもらいながら、目尻に浮かんだ涙を指でぬぐう。机の上に映画の前売り券が二枚あるのが見えた。

「で、今回はなんだい。……虹色戦隊ナナレンジャー? うん。僕が亀になっている間に、世の女子高生の間には、特撮ヒーローの映画がブームになったのかな?」

「べ、べつにいいでしょ! 好きなんだから! 今回はロボも超格好いいしっ!」

「僕にはそのロボの良さってのが分からないよ……。ていうか、こういうのって、だいたい子供向けで、しかも男の子向けの作品って相場が決まってんじゃないの?」

「浅はか! そういう偏見が良くないっ! 作品の幅だって縮まっちゃうじゃない!」

「……知らんがな」

 亀の一人娘は、いわゆる特撮オタって奴だった。小学生にあがる頃には、男子ですら卒業するはずの仮面リーダーシリーズや、虹色戦隊ナナレンジャーを欠かさず見ている。

 雑誌なり、フィギュアなり、ポスターなり、映画なり。逐一グッズを集め、熱をあげる一人娘に、基本的に生き方が重ならないはずの僕と亀は、同じ心境を得た。

「いい加減にさ、こういうの卒業してもいいんじゃない? あ、痛い痛い痛いよちょっとっ!」

「なにか言ったかな? タダ飯食らい始めて、二十年以上のかめきちくん?」

「すみません。口がすべりました」

「次言ったら、亀の甲羅はいじゃうから」

「怖いこと言わないでよ。ただ、君はせっかく美人なのに、勿体ないって思っただけだよ」

「人の顔と趣味を一致させようとする男って、ほんと、だいっきらい」

「さいで」

 ため息をこぼす。広々とした明るい家で、僕は人としての身支度を終えた。

「はい、オッケー。せっかくカモフラに使ってあげてるんだから感謝してよね。お父さん?」

「はいはい。表向き、僕の方が理解あるように思われるのは解せないな。興味ないのに」

「ぐちぐち言わないの。映画もせめて前半部分だけは寝ずに見ててよね。あとでテストするから」

「はいはい……。あーあ、映画楽しみだなー」

 完全に棒読みの口調である。ちなみに亀にとって、今日はひさしぶりに取った休日で、奥さんの方もさっき女友達とでかけていった。

「じゃあ私、二階の戸じまり確かめてくるから。かめきちは外で待ってて」

「了解」

 娘が足早に階段をのぼっていく。僕も言われた通り、二本の足で廊下を歩き、玄関の方に向かった。水槽の中に残る、大きくて、どっしりした甲羅を背負う亀と目が合った。

「すまないな。最近ちょっと疲れが溜まっていたようだ」

「いいって。そういう契約だろ」

 性格も、生き方も真逆な僕らだったけど。互いの声はまだ通じあった。

「たまにはお父さんをやるのも悪くないよ」

「そうだな。たまにはこうして、一匹のんびりするのも悪くない」

 僕たちに、その生き方は向いてない。

 他を理想とする生き方がある。でも時には息抜きだって必要だ。

 娘の足音が近づいてくる。僕は水槽の中の自分に向かって笑いかけた。

「じゃあ、いってくるよ」

「いってらっしゃい」

 二本の足に靴を履く。上着のポケットに家の鍵が入っていることを確かめて、扉を開ける。

「あぁ、いい天気だな」

 おだやかな陽の光が、晴れた頭上に浮かんでいた。

 今日もまた、それが一日限りの現実を、僕たちに与えてくれる。

                                    (了)


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