ひと時の月になって
憧れていた空の中に、僕はいる。
飛んでいた。
僕は鳥になっていた。
初めて目にする海は、空に等しい青さでとびきり綺麗です。
お母さんが話していた通りだと納得しますが、急に怖くなりました。
なぜなら、これほど広くては帰り道が分かりません。
早く帰らないとお母さんが心配します。
夢でも見ているのかなぁと混乱するものの、帰らなきゃと強く思いました。
けれど、僕はどの山も森も町も村にも見覚えがありません。
それは仕方のないこと。
僕は身体が弱くて外で遊ぶことも少なく、村から出たこともないのです。
その分、お母さんがたくさんお話をしてくれました。
僕の住む村の名前は何だったろう。
確か。確か。
僕はあちらこちらで人の話し声に耳を傾けました。
木の枝や、民家の屋根、馬の背中など様々な所で羽根を休めます。
違う。違う。
知らない言葉ばかりです。
このままお母さんに会えなかったらどうしよう。
悲しくて泣いてしまいそうになった時、覚えのある名前を聞きつけました。
「その村に帰りたいんだ。少しの距離でも乗せて欲しい」
ずいぶんとくたびれた格好の旅人がいました。
服は埃だらけで、汚れたまま。伸び放題の髪はぼさぼさで、顔の半分を隠すほどです。
さらに足を引きずっているので、とても目立ちました。
旅人に声を掛けられたのは、荷馬車を引く男です。
男は嫌悪感をあらわにし、逃げるように去りました。
旅人は肩を落としながらもひたすら歩きます。
諦めず、通りがかる農夫や商人に声を掛けますが結果は一緒でした。
すっかり夜になると野宿をし、朝になれば昨日がまた繰り返されました。
僕はそんな旅人の後を付いていきます。
ようやく見つけた希望だけれど、旅人を見ているのは辛いばかりでした。
でも、旅人に優しくしてくれる人が現れれば嬉しさに舞い上がります。
ある夜、旅人は森にある修道院で休むことにしました。
一瞬だって目が離せないくらい旅人のことが心配ですら、僕はこっそり天井の陰に隠れます。
世話をしてくれた僧は、旅人の身を清めてくれました。
髪を短く切りそろえ、身体を拭き、衣服を与えます。
足の怪我も手当てしてくれましたが、治る見込みはないそうです。
心優しい僧に、旅人はぽつりぽつりと話し始めます。
旅人は元々農夫で、妻と子供を持つ父親でした。
領主様の為に兵士として戦場で働いていましたが、敵に捕まり牢に閉じ込められていたのです。
やがて働くことを強いられ、従うほかありません。
もはや歳月を数えることすらままならず、解放された時は自由であることを疑いました。
これまで働いた分だと渡されたのは小袋に入ったお金。
それで麦酒とパンを手に入れると、やっと実感が湧き、家族の元へ帰れるんだと悟れました。
産まれて間もない我が子と愛する妻と別れて、五年もの時が流れていました。
目指す故郷への道は容易くありません。
盗賊に襲われ、人に騙されては瞬く間に無一文になりました。
仕事を見つけては細々とお金を貯めながら、少しずつ、少しずつ帰ってきたのです。
僧は旅人の肩をそっと撫でて抱き寄せます。
神のご加護を、と祈ってくれました。
旅人は言います。
「忘れかけていた神を、今宵思い出せました」
と。
それからの旅路は驚くほど順調でした。
旅人を一目見ただけで気味悪がって逃げる人はいません。
むしろ、整った姿をぼうっと見つめてきます。
僕は自分がほめられた様な得意に気分になりました。
良かったね、良かったね。
話すことができない代わりに一杯鳴きましたが、伝わったでしょうか。
旅人を見守るようになって、二度目の満月を迎えようとしています。
陽が沈むと寒さが増すようで、旅人はしきりに身体をさするようになりました。
鳥になった僕には寒さも温かさも分かりません。
ある晩、旅人は農夫に頼み、馬屋に泊めてもらいました。
家に入れてくれればいいのにと思いますが、旅人は満足そうに藁を布団にして眠ります。
僕はもうすっかり旅人を見守る月のようでした。
だから、いち早く怪しい物音に気付きます。
馬屋から外へ出ると、なんと棒を持った農夫が忍び足でこちらへ向かってくるのです。
僕はあたふたと旅人の元へ戻り、必死に鳴きました。
月明かりを浴びた大きな影がにゅっ、と屋内に差し込みます。
泡を食ったのは僕だけでなく、農夫も同じでした。
きっと旅人を起こそうとする僕に驚いたのでしょう。
僕はもう夢中なって旅人の顔にぶつかりました。
飛び起きた旅人は、振り下ろされる棒から身を転がして逃れます。
足が不自由なのですぐには起き上がれません。
僕がなんとかしないと!
なおも襲いかかろうとする農夫の視界をふさごうと試みます。
その間に旅人は立ち上がり、体当たりして農夫を気絶させました。
農夫はうわごとのようにお金、お金と言っています。
支度を素早く整えた旅人は、ひたと暗闇に目を凝らします。
月明かりを頼りに探していたのは僕でした。
農夫に叩かれていた僕は地面に落とされ、翼が思うように動かせなかったのです。
旅人はすくうように僕を手にのせると外へ出て、森の中へ入っていきました。
「助けてくれてありがとう」
旅人が吐く息の白さで、彼の顔はよく見えません。
「ずっと傍にいてくれたよね」
朝が来るまで僕に語りかけてくれました。
いつからか。
晴れ渡った空を見上げれば決まって見える黄色い小鳥。
瑞々しい青空を彩る小鳥は、旅人の目を楽しませていました。
弱い心が勝る夜、慰めてくれたのは愛らしい鳴き声。
それを子守唄にすると、決まって夢の中で家族に会えました。
知らぬ間に僕は、旅人の心を癒せていたというのです。
「ひょっとして君は、俺の知り合いなのかな」
旅人は様々な名前で僕を呼びます。
そのどれにも鳴き声を上げないので、旅人は笑ったようでした。
「おかしいな。死んでまで俺の身を案じてくれる君は一体誰なんだろう」
僕は思い出しました。
お母さんがよく聞かせてくれた神様のお話を。
人は死ぬと、鳥の姿になって空の果てにある楽園を目指すのです。
翼を持つ鳥は楽園のありかを知る高貴な存在。
お母さんは言っていました。
鳥になった人は楽園に旅立つ前、大切な人に会いに行くのです。
だからその時はちゃんと気付いて、笑顔でお別れをしましょうね、と。
お母さんが鳥になっても、僕が鳥になっても必ず笑顔で。
僕が会いたいのはお母さんです。
全ての霧が晴れ、夢のような今が確かな現実へと戻りました。
心は不思議と穏やかです。
お母さんのことを思えば胸は痛いけれど、約束は守らないといけません。
それに悲しいばかりではないのです。
なぜなら、楽園へ行けばまだ見ぬお父さんに会うことができます。
そうしたら二人でお母さんを見守っていけますから楽しみです。
仲良くなった僕と旅人は残りの旅路を協力し合いました。
迷路のような森の出口を、空から探すのが僕の役目。
旅人の肩や頭は僕にとっての椅子でした。
「ありがとう。ここまでたどり着けたのは君のおかげだよ」
旅人は自分の肩を見ながらそう言うと、きょろきょろと辺りを見渡します。
その場で一回りしてから空を仰ぎ、ため息を零しました。
「もう行ってしまったのか」
そう囁くと、旅人はまっすぐ前を見据えて歩き出しました。
僕はずっと旅人の肩にいます。
どうやら僕の姿はもう、旅人の目に映らないようです。
陽が暮れかけるまで旅人はもう何も喋りませんでした。
川を渡り、丘を越え、山のふもとにある小さな村に辿り着きます。
見覚えのある大きな木に、赤い屋根の家。
僕の気持ちは駆け出し、赤い家を目指して飛びました。
ところが、夕陽に彩られた世界は突然白い光に飲みこまれたのです。
あまりの眩しさに目を閉じますが、翼は動かし続けます。
けれどもう、何も見えないし、聞こえてきません。
おかしい。
お母さんに会えないまま楽園に行ってしまうのでしょうか。
そして。
気が遠くなるほど長く、はたまた束の間だったのか分りませんが。
「アルト」
久しぶりに名前を呼ばれた気がします。
立て続けに何度も呼び続けるので、返事をしなくちゃと焦りました。
声を上げようとしたら柔らかくて、温かな腕の中に僕は包まれていました。
お母さんのにおいと、声に、身体中の熱がよみがえります。
僕の顔には温かな涙が次々と舞い落ちてきました。
その時、扉を叩く音が上がったのです。
お母さんはようやくお医者様が来て下さったと喜び、玄関に向かいます。
一人残された僕は自分を観察しました。
五本の指があって、肌色の手があった。首もあるし、髪の毛も、足もある。
どう見たって、鳥ではありません。
夢? どっちが?
悩んでいると、お母さんの泣き声が聞こえてきました。
僕はいうことをきかない身体を動かし、玄関をのぞきます。
お母さんは訪ねてきた男の人にしがみついていました。
お医者様ではありません。
だって僕はその男の人を知っていますから。
じっと見ていると男が僕に気付きました。
男は足をひきずりながら近づいてきます。
綿に包まれたようなふわふわとした心地で、僕は呼んでいました。
「おとうさん」
男は頷くと、その大きくて広い胸の中へ僕を引き寄せました。
お父さんは楽園でのんびり暮らしているはずなのに。
ここはやっぱり夢でしょうか。
それともここが、空の果てにある楽園なのでしょうか。
ふいに視界をかすめるものがありました。
お父さんの胸元を飾ったそれは、黄色い羽根でした。
僕がそっと手に取ると、傷だらけの手がそっと重ねられます。
「お父さんの宝物なんだよ」