博愛座のキミへ
席が空いた。すかさず腰を下ろす。眠気がにじんだ。まぬけな顔を教科書で半分隠して、愛華はふわああと、大口を開けた。
京浜急行線のぼり、朝九時半。平日にしてはやけに混んでいる。
九時始まりの一時限目はもとより、十時半始まりの二時限目も、愛華は講義を取っていない。今日が前期試験でなければ、こんな早い電車には乗らない。
上大岡駅から立ちっぱなしだった数十分が足にこたえている。今日はヒールをはくべきではなかったかもしれない。愛華は教科書を膝に置き、まっすぐ視線をなげる。
むこうの窓に、優先席のステッカーが見えた。『博愛座』と簡体字で小さく表示がある。
「ボォ・アイ・ツゥオ」
中国語の発音になおして、にんまりする。
──中国語、思ったよりできるじゃん。
愛華の『愛』と、博子の『博』。自分と友達の名前に使う文字だから、読みかたを知っていた。ちなみに『座』の読みはテキトー!
──過去問、もらっておくべきだったかな。
弱気でまじめな考えがよぎった自分を、愛華は笑う。それでは、高校生のときみたいだ。もう、一番なんて目指さなくていいのに。
大学一年生の必修の第二外国語なんて、イラストだらけの薄っぺらな本を前期に一冊、後期に一冊やるだけ。試験の成績は重要視されない。出席さえしていれば、A評価は堅い。
先輩がこぞってそう言うのだから、きっと間違いはないのだ。心配なんて、要らない。
電車は京急蒲田駅に滑りこんでいく。次の品川駅で降りる。いまさら教科書を読んでいたことが恥ずかしくなって、ごそごそとバッグにしまう。着信を確かめ、ひまつぶしに博子へメールを打ちはじめる。
『今日、キッチンオトボケに行かない? ひさしぶりにカレーライス食べたい!』
指を動かしているうち、隣の席が空いた。端っこの席。詰めようとして、思いとどまる。
視界に入るギプスの左足。松葉杖の四十路くらいの男性がいまにも座ろうとする。彼の腕を、介添えだろうか、眼鏡の青年が支えた。
「……ありがとうございます」
どういたしまして、応じる声は小さい。無愛想だ。笑顔もない。ほぼ、くちびるだけが動いた。会釈をした拍子に長めの髪が両脇から眼鏡にかかる。くるりときびすを返した彼は、閉じたばかりのドアによりかかると、無関心を装うように薄いテキストを開いた。
──あのひと、席譲ったよね?
暗いふんいきの眼鏡男子には見覚えがあった。たぶん、隣に座っていたひとだと思う。
第一印象は『あすなろ白書』の木村拓哉。野暮ったく大きな黒縁眼鏡、冴えない服装。それでいて、造作は整っているし、背は高い。……って博子に言って通じるかな。『あすなろ白書』とか、完璧に親世代だよね。
愛華はメールを打ちながら、幾度か眼鏡男子に目線をやった。と、彼はすぐ次の駅で降りるそぶりをみせた。そっか、次で降りるなら席も譲るよね。博子から返信が来る。
『いいよー、試験終わったら速攻行こう』
眼鏡男子を観察しているうちに、彼が開いていたテキストが自分のものと同じ中国語の教科書だと気づいた。思わぬ共通点に、興味を引かれる。降りていく横顔を見送って、構内アナウンスに飛びあがった。
品川! 乗り込んでくる客をかき分けかき分け、やっとのことでホームに降り立つ。
だが、すでに眼鏡男子は人混みにまぎれたか、どこにも見えなくなっていた。
品川駅でJR山手線へ乗り換える。鉄腕アトムに急かされて駅を出て、歩くこと十五分。あたりが学生だらけになっていく。愛華が通うのは、都内でも有数のマンモス大学である。
時間ぎりぎりだ。寄り道せずに構内に入る。試験期間中とあって、いつもより人が多い。
掲示板で試験場の変更がないか再確認し、いつもとは違う教室にむかう。
二〇三号室のドアを開くと、窓際の後ろの席からショートカットのボーイッシュな女性が笑顔で手を振ってくれる。博子だ。その斜め前には博子の彼氏、慶二も居る。
挨拶を交わして博子の隣に座る。これで、いつもの位置。ペンケースを取り出すと同時に、雑談する間もなく試験官が入ってきた。
──危なかった! 明日の二限はもう一本前の電車にしたほうがいいかもなあ。
考えながら、試験官の説明を聞く。試験時間と、筆記具の説明。学生証の机上提示位置、解答用紙の提出方法、開始三十分後には退席可能であること。すでに聞き慣れた説明の途中だった。教室前方のドアが勢いよく開いた。
飛び込んできた背の高い人影に、愛華の口から、ぽろりとつぶやきがこぼれた。
「眼鏡男子……」
「誰それ」
博子が低く問う。答えることばを、愛華だって持っていない。ただ、かぶりを振る。
試験官の叱責を受けながら、眼鏡男子はうろうろと空席を探し、こちらへやってくる。窓際の列の空席は、慶二の隣だけだ。眼鏡男子もそれに気づいた。足早に慶二の隣、つまり愛華の左斜め前に腰掛けると、急いで学生証と筆記用具を用意した。
試験用紙が配られる。チャイムが鳴る。一斉にシャープペンシルの先が机を叩く。京急のなかで見た単語や例文ばかりが出題されている。愛華は忘れないうちにと、覚えているところから勢いよく空欄を埋めていく。
開始から三十分はあっと言う間だった。
試験官がこれ以降、退室してもよろしいと声がけをした、まさにそのときだった。
慶二の肩がびくりと跳ねた。試験官の声に驚いたらしい。手許から消しゴムが飛びたったのを、愛華は見た。落ちた消しゴムは、遙かむこう、廊下側の学生の足元に転がっていき、見えなくなった。
「……莫迦」
博子がごくごく小さくぼやいた。
どこにいったかもわからないが、試験官に声がけして拾ってもらうべきだろうか。逡巡した愛華に、博子はいいよ、と身振りで示す。
試験にむきなおって、愛華は瞠目した。
眼鏡男子が、さりげないしぐさで慶二のほうへ何かを押しやった。──消しゴムだ。
えっ? 驚いて、慶二がふりむこうとする。気にするなと言うのだろう。前をむいたまま、そろえた指先を小さく振って、眼鏡男子はふたたび右手にペンをとった。
慶二はうなずいて、消しゴムを取り、使ってはそうっとふたりのまんなかへ戻すという動きを、試験終了まで繰り返した。
「すっげ助かった。昼飯おごる」
礼のあと、そう告げた慶二に、眼鏡男子は首を横に振った。
「たいしたことしたわけじゃない」
固辞されてなおも誘おうとするのを引き留めて、博子がいたずらっぽく視線をむける。
「一、二度目は断っても、三度目には受け取るのが礼儀、だよね?」
言われて、観念したらしい。眼鏡男子は鉄の無表情を崩した。
──ん、なんか聞き捨てならないような?
「えっ、博子ぉ。あたしとのお昼はっ?」
あたしと、と、自分を指さす愛華に、博子はにっこりと笑った。
「さあさ、みなさん。愛華ご希望のキッチンオトボケへと参りましょうか?」
「五〇〇円で喰べられる」が売り文句のその食堂は、本部キャンパスと文学部キャンパスとの間にひっそりとある。サークルに店の常連がいて、その先輩につれてこられたのが、愛華たちのキッチンオトボケ初体験だった。
愛すべきは、皿のふちからこぼれんばかりのカツカレー大盛六五〇円だと、慶二は力説する。先達に倣って同じものを頼んだ眼鏡男子は盛りつけに目をうたがったようだったが、観念したらしく行儀よく手を合わせた。
「いただきます」
彼のことばを皮切りに、めいめい食事をはじめる。どまんなかにスプーンを入れ、カツカレーを思う存分味わいだした慶二を置いて、博子が顔をあげた。
「名前。キミの名前、聞いてなかった」
スプーンをくわえたまま動きをとめ、眼鏡男子はしばらくもごもごした後、口を開いた。
「恵。恵純義」
そのひとことに、慶二が食いついた。
「恵って、苗字? すげえ、珍しい! 俺ね、斉藤慶二。俺の彼女の山田博子、んで、友達の井上愛華」
カレーのついたスプーンをふりまわして紹介した慶二に、博子は眉をひそめてため息をつく。フォローするようにあとを繋いだ。
「三人とも同じサークルなのよ。『なべの会』って知ってる?」
ああ、と眼鏡男子──恵は眉を開いた。
「知ってる。九月の新聞に載ってたよね。野草を食べる会だったっけ」
「よくご存じで。どう? 会員は随時募集中! 活動は少なく、兼部も可能!」
おどけた博子に、慶二もカレーライスをほおばりながらうなずく。愛華は、口をはさむ気になれずに黙々と匙を運んでいた。
恵が同じサークルに入ったら、どうなることか。先輩はこぞって、仲良し四人組だからと、愛華と恵の仲を取り持とうとするだろう。
食事の手がとまった。スプーンをきつく握りしめて、うつむく。
──ヤだよ、こんな地味なヤツ。あたし、努力したのに!
かつん、ヒールを床に下ろす。憧れだったのだ、この音が似合う自分になることが。
愛華が黙っているあいだも、話は繰りかえされる。慶二はしつこいくらいに勧誘する。
気のせいだろうか、愛華はその一瞬、恵の視線を感じた。
「…………?」
恵は慶二の猛攻に弱ったようだった。だが、表情は硬い。すげなく言う。
「悪いけど、サークルには入らないようにしてるんだ。僕、集団行動が苦手で。遅刻魔だし、すぐにみんなとはぐれてしまうんだ」
「入らないように、って、いまもフリー?」
恵はまじめな顔つきで首肯した。
「迷惑かけるだけだから」
場が冷えた。そう、かあ? 慶二があいまいに濁して、博子が上手に引き取った。
「ま、無理には誘わないし、気が変わったらいつでもおいでよ。大歓迎だから」
気さくな口調にほっとしたらしい。恵は表情をゆるめ、微笑みとともに礼を言った。
昼休み明けも試験は続く。店を出て、みんなでキャンパスへ帰ろうとしたときだった。
恵が突然、立ちどまった。その背後で、歩行者信号が青になった。
「ごめん! 僕、文キャンに用があったんだった。先に行ってて」
早口にまくしたてる。今日はありがとう! 言いながら交差点を渡りはじめる彼に、慶二はあっけにとられたようだった。だが、サークル勧誘がカラぶったのもあって、もう興味もないと言った風情で、背を向けた。一気に不機嫌になったのが、歩きぶりでわかる。博子はあわててそのあとを追っていく。愛華も、それに倣う、つもりだった。
信号機のメロディが青信号の点滅を告げる。愛華は足をとめ、ふりかえっていた。
恵は文学部キャンパスになんて、向かっていなかった。キッチンオトボケと交差点をはさんではすむかいにある寺の階段へ、小走りに近づいていく。視線のむかう方向を先まわりして、愛華は声をもらした。
老婆が居た。恵は見る間に老婆に声をかけ、抱えた大荷物を受け取り、寺の階段をいっしょにゆっくりとのぼりはじめた。
時間の進みが、ぐっと遅れる。一歩、また、一歩。ほんの数十段が、気が遠くなるくらいの距離に見えた。
──三限、間に合うかな。
「愛華! 行くよ」
博子の声に我に返る。愛華は答えて、むきなおる。駆けよると、博子は目をすがめて愛華の肩越しにむこうをみやった。
博子も、気がついたのかと思った。
「……何か、あった?」
尋ねてみる。だが、博子は肩をすくめるばかりだった。
「んー。知り合いに似てるなぁ、って。ああ、でも、別人だったっぽいや」
博子の応えに、愛華は気持ちを切り替えた。恵のことなんて、あんな地味で鈍くさいヤツのことなんて、気にするべきじゃない。
幾分早めた足は、しかし、重かった。
じめじめと暑い夜には、糊のぱりっとしたシーツの感触が恋しくなる。ベッドシーツを掛け替えはじめたところで、床のうえで携帯電話がぶるぶると震えた。長い。着信か。
携帯を頬でおさえて応じると、いつになくハイテンションな声が耳元に響いた。
「愛華ぁ。デートしないッ?」
博子か? ふだんのクールさが嘘のように、舌っ足らずに甘えてくる。着信表示を確かめて、愛華は適当に応じる。
「いいよー、いついく?」
さては呑んでるな。深夜の電話は出た者負けだ。愛華は諦めて、潔く相手をしてやる。
博子の声が聞こえる瞬間だけ、バラエティ番組らしきテレビの雑音が聞こえる。慶二と宅飲み? 耳をすますと、かすかにいびきらしきものも紛れているようだ。
「んとねえ、週末ぅ。ね、富士急行きたい! あの、なんとかっていう新しいの!」
「わかったわかった。じゃあ、土曜日ね」
「うん! 土曜日ー」
切れた。あまりの身勝手さに笑って、携帯電話を肩から滑り落とす。ベッドに落下した携帯電話に添い寝するように、うつぶせる。
酔っ払いの戯言だ。明日には忘れている。
考えが甘かったと知ったのは、金曜日の夜更けになってからだった。
──明日、新宿駅に七時半でいいよね?
本気だったのか! 博子からのメールに、愛華はうたたねから跳ね起きた。
──せめて八時で!
返信して、明日のコーディネートを考える。寝る間を惜しんだだけあって、翌日の装いは自己評価の高い仕上がりになった。
それなのに。
愛華はむすっとして柵に寄りかかる。新型ローラーコースターへの列は、長かった。
「博子ならまず『絶望要塞』かと思ったのに。なんで『高飛車』なの?」
「だって、ほら。慶二があのとおりだし」
小学生のように大声ではしゃいでいる慶二に博子は肩をすくめる。そちらを見やった愛華は、別の意味でもため息をついた。
慶二の相手をしてやっているのは、なんと恵だ。博子が声をかけたのだと言う。いつのまに遊びに出るほど仲良くなったモノやら。
──これ、ますますよくない雲ゆきだよね。
それでも、ダブルデートの構図を愛華が避けたからだろう。恵と慶二、博子と愛華の組み合わせは自然にできあがっていた。
新型コースターは特殊な構造だ。前列と後列に四席ずつ横並びに席が設けられており、レールと座席とは直角に交わる。
四人組ならば、横一列に並ばされる。
……はずだった。
三つ前の組が乗り込んだ。直前に並んでいた四人家族は当然、後列になる。それが、やっとわかったのだろう。下の男の子がぐずった。やっと身長制限をくぐり抜けたぐらいの背丈、もしかしたら発育の良い子で、小学校低学年だったのかもしれない。
「前が良い! なんで前の席じゃないの?」
泣きそうな顔で地団駄をふみ、わめきちらす。駄々をこねる我が子に手を焼いたか、初めは叱った母親も、段々に適当にあしらうだけ、父親は我慢しろと短く言うだけになる。
うるさいとは感じたが、大人でさえ辟易する待ち時間だ。長いこと待って待って、後列では納得いかないことだってあるだろう。
思った愛華の視界の隅で、彼が動いた。
恵だ。何も言わずに愛華の手首をつかみ、近くへ引き寄せる。慶二に何事か耳打つや否や、さっと親子の前に進んで、声をかけた。
「よかったら、席替わりましょうか?」
──えッ?
「いいんですか?」
騒ぎ続ける子をよほどもてあましていたのだろう。母親が渡りに船とばかりの顔をした。恵は愛華を目で示して、手短に言う。
「僕らふたりとそちらふたりの入れ替わりでよければ。替わるなら、いまのうちですし」
申し出てしまった恵に、反駁することばを愛華は思いつかなかった。肩越しに博子をふりかえる。だが、博子は慶二のことばに耳を貸していて、こちらのことは見ていない。
──何よ、どうして恵となんか!
むくれたまま、親子ふたりと席を替わる。恵は眼鏡を外して、荷物にしまった。そんな恵の腕をふりはらって、自分からコースターの座席に乗り込む。隣に腰掛けて、恵が言ったことばは火に油を注ぐようだった。
「ふたりっきりも、いいんじゃないかな」
「どこが?」
自分でもキンキンした声だと思った。恵は気にせぬ風に笑って続けた。
「僕たちのことじゃなくて。斎藤くんたち」
まるで異性と意識されていないのも、カンに障る。コースターが登り出す。つんとしていた愛華もついにふりむいた。
「その言いかた、ちょっと失礼じゃない? ……っ、て、ひゃあああああぁぁッ」
垂直よりも、なお酷かった。加速したコースターに振りまわされて、色気も何もあったものではない悲鳴が喉から滑り出る。手許のグリップを握りしめた愛華の手の甲に、恵の手が重なる。あたたかい手に、安堵する。
急降下や急上昇がいったんおさまって、手を離す。一瞬の休息。
「──もし、ね。もし、仲間に入れてもらえるんなら、僕のことも呼び捨てにしてほしい。僕だけ『くん』付けはよそよそしいよ」
「……恵?」
「そっちか!」
からっと笑う恵に、愛華は見とれた。眼鏡がないと、端正な顔立ちがいっそうひきたつ。
「あたしのことも、愛華でいいよ」
「キミは『愛華さん』って感じだからなあ」
コースターがとまるたび、話を重ねる。
いつのまにか、笑っていた。
ひと足先に地上へ降り立ち、博子たちがコースターに振りまわされるのを見上げる。
「さっきね」
愛華は手でひさしをつくりながら、恵を見ずに口をひらく。
「すごいと思った。あたし、思っててもできなかった。どうしたらいいのかなって、子ども、うるさいなって見てるだけだった」
恵は、すぐには何も言わなかった。沈黙に、愛華はふりかえる。ことばを探していたのだろう。ホームに戻った博子たちがふらふらと、でもうれしそうに歩いてくるのを見守りながら、恵は短く応える。
「みんながうれしいと、うれしいんだ」
そう告げる横顔から、愛華は目が離せなくなっていた。
新学期の大学生協の書店は、教科書を買い求める学生であふれかえる。
愛華もそのひとりだった。数冊のテキストを抱え、やっとのことで人の列から抜けだす。端へよって中身を確認しようとして、目が見慣れた男子学生を見つけ出していた。
熱心に棚を物色している。何が置いてあるのか。近づくと、仕切りの文字が読み取れた。
「映画評論?」
思わず口に出して読んだ愛華に、男子学生──恵は、ゆったりと目を向けた。
「愛華さん、映画は観るほう?」
「……連れて、行かれるほう?」
恵は人懐っこく微笑んだ。こんな笑顔だってできるんだ。自然にくちびるが笑みを刻む。
「恵、最近は何観たの。どれが面白い?」
手許の雑誌を書架に戻して、むきなおる。
「『こっぴどい猫』。モト冬樹の還暦祝いに作られた恋愛群像劇で、小夜って小悪魔が人間関係をひっかきまわす」
「観たい。早稲田松竹? まだやってる?」
恵は首を振る。だが、一瞬悩むそぶりをみせる。
「──日程は決まってないけど、今度、横浜のシネマ・ジャックに来るらしいんだ。愛華さん、上大岡だし、上映開始されたら、」
きゅるるるるるるる……
お腹を押さえた愛華に、恵は軽く吹きだす。
「キッチンオトボケに行こうか」
「そ、だね。コレ、会計してくる」
うなずく恵を置いて、レジへ向かう。熱くなる頬を手の甲で冷やして、ふりかえる。
「──あれ?」
サークルの先輩と恵が話している。会計を済ませて戻ると、ふたりはぴたりと口を閉ざした。愛華は恵の袖を引いた。
「恵。キッチンオトボケ行くんでしょ?」
「お、いいじゃん! 俺も昼まだだしィ」
「センパイ、恵とお知り合いなんですか?」
「ううん、いま『お知り合い』みたいな?」
正直に言って、軽い調子にむっとした。そこへ、恵の冷えた声が落ちた。
「ごめん、愛華さん。本キャンに忘れ物したみたいだ。取ってくるから、先行ってて」
「忘れ物くらい、いっしょについてくよ」
ヤだ、置いていかないで。視線で訴えかけたつもりだったのに、恵は目をそらす。
「お腹空いてるなら、先に食べていなよ」
言い捨てられる。先輩のにやにやした笑いを目にして、一瞬にして意図を悟った。
「──空いてない。お腹なんて、ぜんっぜん、空いてないから!」
叫ぶように言い残して、愛華は踵を返した。生協の建物を抜け出し、坂を駆けおりる。
そうして、思いついて博子に電話をかけた。
「はいはーい。どしたの、愛華」
耳に届いた声に、涙が出そうだった。立ち止まる。電話を握りしめる。
「博子、ごはん食べた?」
「文キャンのカフェに行くとこ。いっしょするー? 中央図書館? 迎えにいこうか」
まもなく合流した博子に、愛華は感極まって、背伸びをしてしがみついた。
「あらあら。今日は甘えんぼさんだことー」
博子が背を抱いてくれる。人肌のあたたかさのせいで、ほんとうに涙がこぼれていた。
さすがの博子も、息を呑んだのがわかる。隣にいた慶二が何か言おうとする。それを、博子はてのひらの動きだけでぴたりと制した。
頭をなでられる。声を出したら、ぜんぶ崩れそうだった。だから、愛華は何も言わない。
「愛華。ほら、ごはん食べに行こう。お腹減ってるとね、変なことばっか考えちゃう」
うなずく。本部キャンパスをつっきって、このまま文学部キャンパスへ。背をうながされて歩き出し、まもなくのことだ。
脇の校舎から、恵が近づいてきたのは。
校舎の裏手には生協がある。中の廊下を抜けてきたのだろう。いつもどおりの平坦な表情に、思っていたよりもずっと落胆する。
恵は愛華に気がつかない。博子が愛華に次いで、彼の存在を認識した。
愛華は足を止めた。ふいに動きをとめた人影に目をひかれたか、恵がふりかえる。
視線が交差する。徐々に大きく見開かれる双眸。アスファルトに足がはりついたように、呼吸すら止まってしまったように、彼は微動だにしない。涙のあとを、幾度もたどって、恵は視線で愛華の頬をなぞる。
これで、満足のはずだった。自分がいったい何をしたのか、思い知ればいい。思っていたのに、驚かれたことがいまは逆に、刺さる。
博子が気遣うように背をなでる。ひどい顔をしているのはきっと、愛華のほうだ。顔をそむけて、視界に入った足元に目がとまる。
大人っぽいヒールパンプスを買ったのは、入学の一週間前だった。鏡も写真も嫌い。ガリ勉で、すっぴん眼鏡、ひっつめお下げの遊びを知らないつまらない女。愛華は、かわいらしい名前に似合わない自分が大嫌いだった。
大学デビュー、してやろうと思った。
髪を切って、染めた。コンタクトレンズに変え、化粧を覚えた。ファッション誌も読みあさった。そして、終着点がパンプスだった。あたしはここにいると、高らかに周囲に知らしめて歩くための悪魔的にうつくしい靴!
愛華はヒールのつまさきに力をこめた。くつずれになりそうな痛みが走る。膝をのばして、胸を張る。顎をひいて、キッと前をむく。
踏みだす。博子を置いて、慶二を忘れて。わざと高く踵を鳴らす。大股にいくと、風がかろやかに後押ししてくれる。
しばらくひとりで歩いてふりかえると、三人三様にこちらをみていた。ややあって追いかけてくる博子は、うしろを気にする。慶二が恵を誘おうとする。慌てて戻って、頭をはたく。腕を引いて、こちらへとつれてくる。
「なぁんで叩くんだよ! 恵は? なんで誘わないの、あそこにいたじゃん」
鈍感な慶二。そこがかわいいのだと、博子はいつも言う。聞くたび、愛華にはそのかわいさがよくわからなかった。
「……ほんと、男ってヤツは鈍いんだから」
ぼやく博子に、いまは苦い笑いをもらし、愛華は小さく同意した。
一度は晴れた気持ちも、夜になると落ち込んだ。朝になってもまぶたの腫れはいっこうに引かず、みっともないこと、このうえない。
昼にむかう京急電車は、のぼりとは言え、だいぶ空いている。ラッシュ時をのぞき、優良市民には避けられがちな優先席は、楽に座れることが多い。
腰をおろして、ぼんやりと博愛座の文字を見つめて、愛華はやっと理解した。
階段を昇れずにいた老婆を助けて、遅刻ぎりぎりに試験にすべりこむ。ジェットコースターの先頭と最後尾をかわる。こうるさい通行人のために道を空ける。見知らぬ先輩にさえ愛華を任せて立ち去ろうとする。
──そっか、あたし、譲られたんだ。
席を譲っていたのだ、恵はずっと。
電車の座席と同じだなんて、人間以下の扱いだ。両手で顔を覆う。肩を小刻みに揺らす。
ひとり笑う愛華を横目に、隣の乗客が席を立った。気が触れたとでも思われたのだろう。席を詰める気にもならずにいると、見覚えのある青年が目の端に映った。彼は座ろうとしたサラリーマンを肩で押しのけ、愛華の隣へ腰をおろす。
愛華は笑い止み、そろりと手を外した。
サラリーマンの漏らした悪態をものともせずに堂々と座ったのは、恵だった。
「昨日は、ごめん」
前を向いたまま放たれた謝罪に、愛華は冷たく切りかえす。
「……何の話?」
「愛華さんが嫌がることをして、ごめん」
わかってない。恵は、全然わかってない。
「あたしはッ!」
周囲の視線が集まる。気づいて、愛華は声のトーンを一段下げた。努めて穏やかに言う。
「あたしは、恵のモノ? 違うよね。ほいほい譲られて、黙ってるとでも思ってた?」
ゆっくりとした口調だが、語気は鋭い。恵はうつむいて、目を伏せた。指を組む。
「僕が、僕の居場所をだれかに明け渡して、気にするひとがいるだなんて、考えたこともなかった。かえって喜ばれると思っていた」
愛華は一瞬、虚を突かれた。
「……バカじゃないの?」
「バカだよ。地味で鈍くさくて迷惑ばっかりかける。愛華さんといるには相応しくない」
「恵だからいっしょにごはん食べたいのに」
言いようにあんまり驚いて、ぽろりとこぼれたことばに、恵はふりむいた。見つめ合う形になって、愛華は急にどぎまぎする。
「──譲って、後悔した。惜しかった。へらへら笑って譲るべきじゃなかったんだって」
「そんなの、あたりまえじゃん!」
断言した愛華に、恵は力の抜けた微笑みをもらす。ささやくように言う。
「愛華さんの隣にいる権利を僕にください」
こころが跳ねた。鈍感な恵。頬が笑いそうになるのを押し隠して、愛華は首をかしげる。
「別に、いいけど……」
「言ったね? 譲らないよ。もう、ここはだれにも譲らない」
言い切った恵に胸が熱くなる。気づかないふりは、いつまで続ければ良いんだろう。
電車は蒲田駅に着く。すぐ近くのドアから杖をついた老人とその妻らしき女性が乗りこんできた。愛華の視線に、恵も目を移した。
自然に、声をかけていた。
「あのっ! ここ、どうぞ」
出てきた声は、思ったよりも大きかった。
妻がちょっと驚いたように笑い、会釈する。夫に小さく声をかけ、こちらへとうながす。
恵が先に席を立ち、ふりかえって愛華の手を取った。ふたりでむこうがわのドアへ歩きながら、しっかりと手を握りなおす。
恵の手は、とてもあたたかく頼もしかった。