第17話:死神の祝福
その言葉は、気負うことなく自然に発することが出来た。
素直な言葉だから、かもしれない。
一方、彼女の方はというと
「…………」
目を、丸くしている。まるで初めて言葉を交わしたあの朝のように。
今回も気まずげに彼女は視線を逸らした、というより落とした。
しかし。
「!」
彼女の瞳に涙が浮かんでいることに俺は気が付いた。
先週彼女を思い切り泣かせてしまった悪夢が胸を去来する。
「あ、の、榊……その、まずかったならさっきの言葉はスルー……」
していいから、と言うのもあれだが俺は慌ててそんなことを口走っていた。が
「いえ、その……そうではなくて……!」
榊も慌てた様子で涙を拭う。
どこか頬を朱に染めて、今までで1番無敵な笑みを湛え彼女は顔を上げた。
「嬉しい、のです」
「ぇ……」
そんな彼女の笑顔が、俺の頭の中を真っ白に塗りつぶした。
「榊、それって……」
俺がそう尋ねる前に、下方で咆哮が上がる。
見ると狼男がこちらに気付いたようで、今にも跳んできそうな雰囲気だった。
俺は崖下に向き直る。
詳しいことは後で聞くことにしよう。
そのためには、奴を倒すことが先決だ。
すると榊が
「冬馬様」
不意に呼んだので、俺は少しだけ振り返った。
その時。
「!」
唇に触れる、彼女の温度。
それは、まさに不意打ちのキス、だった。
その事実をはっきりと認識する前に、彼女の声が頭の中で響く。
『死神の接吻は本来死を与えるものですが、心から慕う方には意味が変換されます。
貴方に、「絶対勝利の祝福」を――――……』
唇が、そっと離れる。
彼女は、それこそ『勝利の女神』のように微笑んでいた。
高鳴る鼓動が俺に告げる。
今ならきっといけると。
自分に素直になれた時、見えるものがそこにある。
自分は何をしたかったのか。
自分は何をするべきなのか――――……
「俺は、『守るべきものを守りたい』……!」
そう告げた瞬間、右目と、剣に繋がっている鎖が纏う冷気の炎が勢いよく燃え上がった。
ここに来て俺はようやく、自身の第1能力を自覚したのだ。
『守るべきもの』は数え切れない。人、ものの単位では計れない。
だから、俺の日常、俺を構成した世界、その全てを対象とする。
ゆえにこの剣は『氷』。
『保』ことに優れた刃。
狼男がこちらに跳び上がってくる。俺はそれを迎え撃つべく、崖から飛び降りた。
無論、死ぬ気など無い。
重力を助けに、氷の剣で狼男を押し戻す。そのまま落下に任せて地面に叩きつけた。が、奴の体は相変わらず岩のように硬く、剣では傷ひとつ付けられなかった。
しかしよく見ると剣の刃が触れているところから、奴の体に霜が降り始めていた。
狼男は危機を感じたのか、仰向けになったまま腕を振り回す。流石に危なかったので俺は一旦距離を置いた。
狼男がゆらりと立ち上がる。凍り始めた自らの胸部を大きな爪でかきむしっていたが、霜は消えない。無駄だと悟ったのか腕を下げたかと思うと
「……!」
また、赤い文字をその体表に浮かび上がらせた。
* * *
「……まだ何かやらかす気!?」
赤い文字の発光を見た海星は楓を抱えて避難するべく榊の元へと跳んだ。
すると楓がうっすらと瞼を開ける。
「楓様、お気づきになられましたか」
楓はよろりと立ち上がって、崖下を見る。巨大な狼男を見て唖然とし、その顔は悲しみの色に染まる。
「……レイト……」
かの化け物には、かつての優しい騎士の面影など、どこにも残っていなかった。
それどころか、赤い文字はさらにその姿に変化をもたらし始めている。
* * *
それこそ体中に刻まれているらしいその文字は、まるで彼の血のように際限なく、禍々しい光を発する。体表がひび割れたかと思うと、生々しい音を立ててそこから棘のようなものが次々と生えてきた。
奴自身も苦痛を感じているのか、痛々しげな咆哮が空に響く。
そしてその変化が止まったころには、その姿は何とも形容できない異形のものになっていた。
――なんでそんな姿になってまで……。
それを問う間もなく、奴は咆哮を上げながら鋭い爪を向けてこちらへ跳んでくる。動きも先ほどより速い。
間一髪のところでその爪を避けようとしたが
「な」
避ける寸前で、奴の腕の棘が肥大化した。
――刺さる……!
俺は思わず目を瞑った。
* * *
「冬馬!!」
息子の危機を見て楓が悲鳴を上げる。
しかし。
「奥方様、ご安心を。冬馬様の勝ちは揺るぎません」
榊は手で顔を覆ってしまった楓の傍らに寄り、冷静にそう告げた。
「え?」
* * *
奴の棘が肥大化した瞬間、貫かれる痛みを覚悟した。
が、数秒経っても衝撃すら覚えない。
「……?」
目を開けると、奴の棘は俺の脇を掠めただけで奇跡的に刺さっていなかった。
――いや、奇跡じゃない。これは……。
『貴方に、「絶対勝利の祝福」を――……』
「魔除?」
奴が悔しげにもう1度腕を突き出す。
が、やはりそれも何かに弾かれるようにして俺の身体に触れることはなかった。
その隙に、俺は剣を逆手に持ちかえる。
剣の柄から伸びた鎖が奴の腕に絡まった。
「――ッ!!」
奴は忌々しげに鎖から逃れようと腕を引く。
鎖は今にも千切れそうに悲鳴を上げた。
いや、悲鳴というのは間違いだ。
それは『促すように』鳴いている。
「来い……」
俺は呼ぶ。
心の中に飼う、己が望みを叶えるための存在を。
「来い!! 凍馬!!」
その名を呼んだ瞬間、あれだけ太い腕を阻んでいた鎖はいとも簡単に砕けた。
それと同時に辺りに雹のようなものが吹き荒れたかと思うと、目の前に銀色の一角獣が姿を現す。
白い鬣に、銀色の身体を持つそれは、その見た目の優雅さからは想像もつかない力をもって、狼男の巨体を押し戻した。
* * *
「あれが……冬馬の……?」
楓は初めて見る息子の能力に驚きを隠せない。
「魔神獣を扱える方が、他にもいらっしゃったとは……」
その傍らにいる海星もどこか恍惚とそう呟いた。そんな2人の様子を見て、榊はどこか誇らしげな気分になる。
しかし
(この後は……)
榊はある決意を胸に、赤誓鎌を握りなおした。
『凍り』を象徴する圧倒的な冷気を操る獣に触れられて、徐々に凍てついていく黒い狼男。
足元から迫るその冷たさによって、男は無くしかけていた理性を少しずつ取り戻しつつあった。
(……ああ、凍って、いく……)
自らの醜い身体を見下ろして、ただ思った。
(今なら、分かる……)
段々と冷たくなっていく身体の中で、唯一まだ熱を保っている自らの拍動を、男は感じていた。
とうに朽ち果てたと思い込もうとしていた身体は、やはりまだ、『生きて』いたのだ。
(もし執念に駆られていなければ、俺にはまだ別の道があったかもしれない)
そんなことまで思い始めた自身を、彼は可笑しく思った。
(禁呪を身体に刻んだ時点で、『死』は確定していたのに)
目線を少しだけ前にやると、氷の剣を握ったまま、こちらをただ見据える少年の姿が見えた。
『凍り』の魔神獣を内に飼うほどなのだから、その目はさぞ冷ややかなものなのだろうと思いきや、その目には憂いを感じさせる光があった。
そんな目を、彼はよく知っている。
そして、気付く。
「お前、じゃ……ない」
(俺を、殺していいのは…………)
そう思った瞬間、男の目の前は赤い炎で埋め尽くされた。
容赦なく身体を焼きつくす赤き炎。
それでもどこか火葬を思わせる、温かさすら感じさせるその火。
(……それで、いい……)
男は、炎の合間から見えた黒い馬を、最期の瞼に焼き付けた。
* * *
半分凍りかけた狼男の周りを、突然赤い炎が取り囲んだのを見て俺は驚いた。
「なん……だ!?」
最初、榊が赤誓鎌でも使ったのかと思ったが、いつの間にか彼女と母さん、軍服の女性の3人は俺の隣に降りてきていて、全員が全員その光景に目を見開いていたから違うようだ。
「あれは……」
榊が上空を見上げる。
紺色の空に浮かぶ、赤い炎。
その中には、夜の色にも混じらない、漆黒の馬がいた。
「黒騎……!」
その名を母さんが呼ぶと、漆黒の馬は地上に降り立った。するとそれが纏う炎の中からまた何かが出てきた。
「全員、無事のようだね」
そう言って現れたのは、漆黒の鎧を纏う碧眼の男。
魔王だった。
「貴方!」
母さんが魔王に駆け寄る。
……息子の俺が言うのもなんだが、この2人、この上ないほど絵になった。
「どうしてここに?」
「禁呪が発動したのを城が察知してね、緊急事態ということで来たんだ。海星将軍が部下を召喚したのも報告が来ていたし、何かあったんだろうと大騒ぎだったからね」
魔王はそう言いつつ、あの憂いの眼で先ほどまで狼男がいた場所を眺めた。今は跡形すらなく、ただ煤が舞い上がっているだけだった。
そのことにはあえて触れず、彼は視線を銀馬に移した。
「これが冬馬の魔神獣か。なるほど、良い馬だ」
魔王がそう言うと、炎を纏った漆黒の馬が凍馬に近づいた。凍馬は熱が苦手なのか少しばかり迷惑そうに後ろに下がる。
「あらあら。黒騎は嫌われちゃったかしら」
母さんはその光景を見て笑みをこぼす。それで場の雰囲気が少し和やかなものになった。
「それで? 冬馬とはゆっくり話せたのかい?」
魔王が母さんに尋ねる。
母さんは困った顔をした。見ると榊と軍服の女性も苦笑している。
「?」
魔王が首をかしげると
「それが、その……まだ……」
母さんが言いにくそうにしていると、更に魔王は首をかしげた。
「? ……もしかして、今しがた会ったところとか?」
魔王が俺のほうにも視線を合わせて尋ねると、母さんと俺は同時に頷いた。
「参ったな」
魔王は苦笑して、そっと母さんの背中を押した。
母さんはよたよたと俺の前に出る。
どうにもこうにも恥ずかしいようで、彼女は視線を泳がせている。
しかしそれはこちらも同じだ。照れくさいのは仕方がない。
すると気を利かせたのか
「少し報告を聞こう」
魔王が軍服の女性と榊にそう言って、3人は離れていった。
夜の川岸に、2人きりにされる。
「……冬馬」
母さんが俯きつつもそう呼んだ。
「……何? 母さん」
俺がそう呼ぶと、母さんは感極まったように顔を上げ、俺に抱きついた。
「!?」
この突拍子もない行動、義母さんと同じだ。
でも、どこか懐かしい香りがした。
「もう! 心配したんだから! あの馬が出てくる前の瞬間なんて、心臓が止まるかと思ったわ!」
母さんはそうまくし立てた。本当に心配したらしい。どうにも泣いてしまっているようだ。
俺は困って
「ごめん……」
そう謝ったが、
――いや。
言葉を間違えたことに気付く。
「ありがとう」
俺はそう言った。
何せ俺が今ちゃんとここに生きて立っているのは、あの時母さんが防御壁を張って守ってくれたおかげもあるのだ。
それを聞いて母さんは一旦俺を離し、じっと俺を見る。
俺も視線を外さないで、もう1度言った。
「ありがとう、母さん」
その言葉には色んな意味が含まれていた。
守ってくれたこと、それ以前にわざわざ俺を見に来るためにこっちまでやって来てくれたこと、さらに遡れば俺を産んでくれたこととか。
『死』を、間近で見たせいもあるかもしれないが、今なら素直に、全てに感謝することが出来た。
「冬馬……!」
母さんはまた目を潤ませて俺を抱きしめた。
それから何度も俺の名前を呼んでいた。
* * *
そんな2人を遠目に眺めつつ、魔王、神代炎騎は海星からの簡単な報告を受け
「1人で大儀だったな。滞在中、楓が迷惑をかけなかったかい?」
彼女にねぎらいの言葉を掛けた。
「いえ」
海星はただ短くそう答えたが、心の中で『楽しかったですから』、という言葉を付け加えた。
すると榊が
「魔王様……」
どこか複雑な顔をしつつ声を掛けた。
「その……私が申し上げるのもおかしいのですが……ありがとうございました。もしあのままだったら……」
それだけで、炎騎が彼女の心中を推し量るには十分だった。
「もし私がとどめを刺さなかったら、冬馬に『人殺し』をさせていたところだった、ということかな?」
榊は静かに頷いた。しかしまだどこか浮かない顔なのは、結局はその仕事を魔王にさせてしまったという後悔からだろう。炎騎はそんな彼女の頭に優しく手を乗せる。
「しかしもし私が来なかったら、お前がそうするつもりだったんだろう?」
榊は図星をつかれて気まずげに視線を落とした。そんな彼女の様子に苦笑しつつ、炎騎は言う。
「冬馬のことを気遣ってくれるのは本当にありがたいが、私はお前にもそんなことはさせたくないよ」
彼はぽんぽんと優しく彼女の頭を叩いて、手を離した。
「魔王様……」
榊はそんな、優しい魔王を見上げる。
彼はいつもの憂いの眼で、どこか遠くを見て言った。
「それに、レイト・サーベリアは私が始末すべき相手だった」
人は生きていく中で、多くのものを踏みしだく。
上に立つ者ほど、長く生きた者ほど、その数が多くなるのは必然だ。
正々堂々という点では間違いのなかったことだが、かつての魔王選定の儀の際、炎騎が彼のプライドを深く傷つけたのは確かだった。
そしてそれが発端で彼は道を外したのだ。
そんなところまで背負えるほど、当時の炎騎に余裕はなかった。
今もないことを、彼自身よく分かっている。
だから、せめて最期だけは。
最期だけは、彼が看取らなければならなかったのだ。
* * *
しばらくして、魔王達がこっちにやって来た。
「さて、これから事後処理が大変だな」
魔王は辺りの山を見回して言った。
数箇所から煙のようなものが上がっている。これにはあの軍服の女性が苦笑して『すみません』と言っていた。
中には木が無惨に倒れて一部はげ山になっているところもある。今度は榊がなぜか顔を赤らめて俯いていた。
「山のほうはうちの部下を回してますので大丈夫です」
「そうか。するとあとは……」
「あ!」
俺は思いっきり間の抜けた声を出していた。
「合宿場のほう、どうなったんだろ……」
熊が出た、ということで皆建物の中に避難しているとは思うが、俺と榊がいないってことが先生に知られていたらまずいんじゃないだろうか。
が。
「あ、それも大丈夫ですよ皇子様。永輝に暗示の香を持たせときましたから」
軍服の女性が得意げに笑いながら言った。
「暗示?」
「海星さんの暗示のお香は効果的ですからね。今頃職員も含め皆就寝して、明日には山の異変のことも忘れているでしょう」
榊がそう言った。
「それはどうも……」
それも能力の1つなのかなと感心しつつ、俺はなんとなしに礼をした。
「なら一安心だな。さて、私はまた無断でこちらにやって来たからな、長老共が説教携えて待っていることだろう」
魔王は苦笑しつつそう言った。すると
「あら貴方、もう帰ってしまいますの? せっかく家族が揃ったのに……」
母さんは俺と魔王を交互に眺めて残念そうに言った。
「…………」
魔王は困った顔で俺を見た。
――いや、俺のほうを見られても……。
するとその沈黙を破るかのように
「せっかくですからもう少しだけどうですか、魔王様。このメンバーでお茶会でも」
海星さんというらしいその女性は、唐突にそんなことを言い出した。
「お茶会? まあ素敵ね」
母さんが手を合わせて喜ぶ。それを見て魔王は溜め息交じりの笑みを漏らし、
「まあ、少しだけならいいか。どうせ向こうでもあとは就寝するくらいなものだったしね」
そう言った。
「でも海星さん、お茶会となるとお茶とお菓子が要るのでは?」
榊がすかさずそう言うと、海星さんはにやりと笑って
「これよこれ」
左手首の時計を見せた。いや、よく見るとどうにも複雑な造りをしていて、ただの時計とは思えない。
彼女はそれに向かって喋りかけはじめた。
「柴田、そこにいる?」
すると時計らしきものから緊張した男の声が聞こえてきた。
『何ですか海星隊長!? 次の召喚準備ならもう整っていますが!?』
「あ、もう大丈夫よ、1件落着したから」
『え? すると事件は解決ですか? ならもっと早く言ってくださいよ!!』
そんな男の声の後ろでも何やら多くの溜め息が聞こえた。
「ごめんごめん、ついさっきのことだってば。それよりあんた、お茶とお菓子持ってきてくれない? 1番良いお茶っ葉持ってきてよ、魔王様御一家がいらっしゃるんだから」
海星さんはなんとも軽いノリでそう伝える。
『は、はい!?』
そんな2人のやりとりを聞いていた魔王も母さんも、榊まで、皆呆れたように苦笑していた。
俺も時計越しの相手に少しばかり同情した。あんな説明じゃ一体何のことやら分からないだろう。
……けれど数分後、その柴田というらしい兵士がお茶とお菓子を持ってきちんと現れたあたり、俺は感心した。
そんなこんなで、その夜のひと時は、有り得ないくらい奇妙で、楽しい時間となった。