第14話:合宿の夜
欧風貴族のような気品溢れる美女と、黒い眼帯の凛々しい女性が郊外の寂れた銭湯に現れ出したのは、5日前のことである。
「はー、今日も良いお湯だったわ。おじさん、苺ミルク2本くださいな」
湯気立っていそうな美しい髪をタオルで拭きながら、楓はここ数日恒例となっている台詞を売店の店員兼番台の男に言う。
「はいよ。いつもありがとねー」
男は古い銭湯には場違いにも程がある、見目麗しい女性達に目を細めた。日曜だというのに客はこの2人しかいない。今時こんな商売、赤字もいいところだが、こんなお客が迷い込んできてくれるなら、今までやって来た甲斐もあったものだと男はしみじみ思っていた。
楓は苺ミルクの瓶を1つ、傍らにいる海星に渡し自分はその場で蓋を開けると、腰に手をあてて『ぐいっ』とそれを飲み始める。
実に清々しい、いい飲みっぷりだった。
(……楓様って……どうして王妃なんてやってるんだろう……)
そんな様子を傍目に海星はここ数週間で何度目かのことを思った。
すっかり飲みきってから、楓はそんな視線を投げている海星に気付く。
「あらキャシー、飲まないの? 飲まないと大きくなれないわよー」
……と言いつつ、海星のほうが楓より幾分も背は高い。
つまり背のことを言っているのではないのだと海星は察して、苦笑する。
「最近楓様、ひと際オヤジ入ってませんか……?」
ついオフのノリで海星は言った。
「ふふふ、今だけよ」
そう言った楓はひらりと傍にあった竹網の椅子に腰掛ける。
海星もその隣に座った。
「来週にはもう帰らなきゃいけないのよね……」
楓が名残惜しそうに、古びた銭湯の、湯の匂いが漂う空間を眺めた。
例の事件があったため、滞在期間を約1週間削ることになったのだ。
「魔王様にも連絡を入れましたからね。あまり長居して万が一のことがあっては困りますから……」
そう苦笑しつつ、海星は胸の内の悔しさを拭い去れないでいた。
そもそも彼女達がこの寂れた田舎の銭湯で湯浴みしているのも、野犬に襲われた例の事件が発端だったりする。
もともと市街地の高級ビジネスホテルを借りていたのだが、あの後どうもそこも勘付かれたらしく、妙な気配を感じたので急遽居を替えてみたわけだ。
その新しい居というのが街から随分と離れたところにある小さな宿舎で、値段はホテルと比べると格段に安い。が、風呂の設備が各部屋になかったため、近くの銭湯に来ているというわけだ。
(……せめて滞在予定期間いっぱいは、守ってあげたかった)
人間界に来てから子供のように始終楽しそうにしている楓を見ていると、仕事ではいろんなものを割り切っているつもりの海星でも、そんな気にさせられてしまった。
「でも最後に、もう1度だけ冬馬を見てから帰るわね」
楓はそう言った。
そもそもこの地を新たな滞在地に選んだのはそのためである。
「水曜からでしたね、合宿でこちらに来るというのは」
来週の水曜から、かの皇子が通う高校の1年生がこの近くの山に合宿に来るというのは、以前から入手していた情報である。
ここで息子を待とうという計画だ。
「ええ。合宿ってどういう感じなのかしら。楽しそうね」
「……恐れながら楓様、今の私たちの状況、十分『合宿』っぽいですよ?」
海星がそう言うと、楓がはっとなって、それから2人で笑い出した。
* * *
バス独特の、あの妙な臭いと揺れに若干気分を悪くしつつ、俺は窓からできるだけ遠くの景色を眺めようと努めていた。が
…………俺の馬鹿。意気地なし。
心の中はもやもやでいっぱいで、山中の緑溢れる景色を楽しむことなどできなかった。
というのも、月曜、火曜と猶予があったにも関わらず、俺は安曇野さんに告白の返事をすることが出来ず、合宿初日を迎えてしまったわけである。
「……はあ」
大きく溜め息をつく。
すると隣に座って棒状のチョコレート菓子をほおばっていたいっちゃんが
「なんだ、元気ねえな。食うか?」
袋ごとその菓子を差し出してきた。
ありがたくもらっておく。
「……合宿中ってさ、女子と話す機会あると思う?」
外袋を開けつつ俺はいっちゃんに尋ねた。
「え! なんだお前、ほんとにするのか? 告白」
「……その辺はあれだけど、他にも言わなきゃいけないことがあって」
「……? どうだろうなあ。基本班毎に動くし、宿でも女子の棟には立ち入り禁止だろ? するとあれだ、実行委員が企画した肝試しの時くらいじゃね?」
ああ、そういえば今晩そんな催しが企画されてたっけ。
「男女一緒にやるのか?」
「ああ。ここだけの話だがな、男子がくじを引いて、その番号と同じ出席番号の女子と肝試しに行くってことになってる」
実行委員の一員であるいっちゃんが言うのだから間違いはないだろう。
「……いっちゃん、そのくじって細工できる?」
俺が尋ねるといっちゃんはにやりと笑った。
「お前も大胆になったな。……まあ、出来なくはないぜ」
ここは少しばかり親友の力を借りてみることにした。
バスから降りて、荷物を宿の部屋に置いた後。
しょっぱなからの山登りはやはりきつかった。
途中の平地での飯盒炊爨。メニューは王道のカレーライス。
カレーに入れる野菜を切っていたのだが、どうにもこうにも向かい側に見えるご飯を炊いているらしい榊と安曇野さんのほうに目がいって、俺はどこか上の空だった。するといつの間にか隣に國生が来ていて
「上代君、あんまりよそ見してると手切るよ?」
手際よくジャガイモの皮をむき出した。
「……そりゃあ、どうも」
俺は少しばかりふてくされてジャガイモに専念する。
「……で? 今日決着つけるつもり?」
奴はそう訊いてきた。
「……ああ。安曇野さんにちゃんと返事してから、榊に言うつもりだ」
「……そう。まあ、邪魔されないように気をつけてね」
「邪魔するのはお前くらいだろ」
「だといいけどね」
國生は意味ありげに、しかし明らかに苦笑いしていた。
「……なあ、前の水曜日、榊と何話してたんだ?」
「へえ、見てたの?」
お互い、ジャガイモから目を離さず、言葉だけで会話する。
「いや、ちょっとだけ……」
「2度目の告白しただけだよ。返事はちゃんともらってないけど」
奴はさらっとそう言った。
「な!?」
俺はつい叫ぶ。
周りにいたうちの班のやつらがこっちを見たが、俺は苦笑して誤魔化した。それからまたくるりと首を返して
「2度目だ!?」
俺は奴を驚愕と羨望と怒りの念をこめて睨んだ。
「そう、2度目。しーちゃん言ってなかったんだ? 俺が2回も告ったこと」
國生は相変わらずへらりと笑っている。腹の底では何を思っているのかわからないが、いつも通りだ。
「……そういうことは、普通言わないだろ……」
俺はふてくされてそう言ったが、少しだけショックだった。
「まあ、ね。俺今日のくじ、しーちゃんとペアになれるよう細工してもらうから。せいぜいそっちも頑張ってね」
「な」
いや、確かに俺はいっちゃんに安曇野さんとペアになれるよう仕組んでもらったけど榊を奴と組ませるなんてそんなのはっ………
「それは強欲ってもんだよね」
奴は笑った。
――ん、な!?
「ちょっと待てよ、お前さっき……」
俺の心のうちを……
「俺の能力は『把握すること』だから。多少の読心術はできるよ」
う、嘘だろーーーー!?
「……だから、俺は反則だったのかもしれないな」
「?」
國生はどことなく自嘲気味に笑って、後ろにさがった。
* * *
合宿での風呂の時間というのは慌しいものである。人数が人数なので回転を速くしなければならず、各クラスの持ち時間は30分、湯に浸かれるのはせいぜい20分だった。
「あうー、せっかく良いお風呂なのにちょっとしか入れないなんて残念〜〜」
露天風呂のいい眺めを満喫、とは決して言えないほどの防犯上高い竹垣に覆われた、それでも『外にあるお風呂』という贅沢な気分を味わいつつ、里香はそう呟いた。
「まだ明日がありますよ」
榊は彼女をなだめるようにそう言ったが、実のところ彼女はこういった大衆浴場が苦手だったりする。
同年代の他の女性のプロポーションと、自身のそれをどうしても比較し、うなだれることが多いからだ。
(……明日ぐらいは部屋に備え付けのシャワールームを使っても……)
などと考えていると
「……?」
遠くで何か赤いものが光ったような気がした。
彼女の視力は特に集中させれば人間離れしたものになる。赤い光は今日登ったばかりの山中にあった。
凝視すると、その点は1つではなかった。
2つで1組の赤い光。
それが幾多もある。
(……あれ、は……)
何か良からぬ予感を感じ、彼女は浴槽を出る。
「あれ、日出さん、もう出るのー?」
後ろで朝子が声を掛けた。
「すみません、先に部屋に戻りますね」
彼女はそう返して瞬く間に浴場から消えた。
彼女が女湯の暖簾を出て、少し早足に板張りの廊下を歩いていると、前方に國生永輝の姿が見えた。
「や、湯上り美人さん。髪も乾かさないでどうしたの?」
榊はその言動は無視して彼に詰め寄った。
「貴方、以前『合宿中何か起こる』と言いましたよね!? あれのことですか!?」
榊がそう言って指差す先には、山があった。
「山? 何か見えるの? 俺視力そんなに良くないんだけど」
「はぐらかさないで下さい」
榊がそう言うと永輝はやれやれと眉をひそめた。
「あの数だとしーちゃんの鎌を使っても対処しきれないよ? あれでも少しは前もって潰しといてあげたんだけどね」
永輝はやれやれとそう言った。
「前もって……?」
そこで榊は気がついた。先週の木曜、金曜と彼は学校を休んでどこへ行っていたのか。
「あ、今俺のこと、ちょっとだけ見直した?」
永輝はにやりと笑う。
「……とにかくなんとかするべきです! この後外に出る企画があるでしょう。冬馬様が心配です」
「あと王妃様もね」
「!?」
榊は目を見開いた。
「ここにいらっしゃるのですか、奥方様が……!?」
「うん。3番隊の女将軍さんもちゃんと付いてたけど」
「どうして前もって言っておいてくれないのですか貴方は!! 肝心なときに!!」
榊はいつもの冷静さを忘れて永輝に怒鳴った。
「落ち着いてよ、しーちゃん。俺だって考えたんだよ。相手は結構な術者だよ? 街中で暴れられたら大変なことになるのはもう知ってるでしょ?」
彼女もそれは先日のライオンの1件で理解しているつもりだった。
「だからさ、仕留めるなら街外れのほうがいいと思ったわけ。あいつらも昼間には出てこなかったから、夜に動くつもりだ。多分狙いは王妃様と皇子様の両方だよ」
「……それだけ分かっていながらどうして先週ここに来たとき仕留めておいてくれなかったのですか」
榊は穿った意見を言った。
「え……」
ここに来て初めて、榊は彼の余裕の笑みが崩れた瞬間を目撃した。
「……俺は親父と違って軍人でもなんでもないんだし、 1人であの数倒せっていうのが無理なんだってば!」
永輝はそんな負け惜しみを漏らした。榊は初めてこの男に勝ったような気がして少しだけ得意な気分になる。
「……最初からそう言えばいいのです。今更器の小ささを隠す必要などないでしょう」
唸る永輝は最後に捨て台詞を吐いた。
「しーちゃんこそ胸小さいんだからせめて心を広く持ってよね」
「っ!!」
……その瞬間、榊が赤誓鎌でも構えそうな眼光を放ち、永輝は殺気に身構えたが
「あれ? 國生君に日出さん。そんなとこで何してるの?」
風呂から出てきたらしい例の仲良し3人娘達がやって来たので榊はわざとらしく愛想笑いを返し、永輝に向き直って思いきり睨んでから、足早に去っていった。
* * *
そして待ちに待った、それでも出来ればどこか避けたいそのイベントは開催された。
場所は宿場のすぐ裏の林で、今日登った山に繋がっている。ほどよく薄暗くて、肝試しにはぴったりのスポットなようだ。
司会の生徒がマイクを持って元気に説明する。
「はい、今からクラスごとに男子生徒諸君にくじを引いてもらいます。くじに書いてある出席番号の女子と組んでください。人数が揃わないクラスは……」
ということで俺はいっちゃんからあらかじめもらっておいた出席番号1のくじを袖に隠して、くじを引いた振りをした。なんとなく罪悪感はあるがこの際そんなことは構っていられない。出席番号順に並んでいる女子の所に行って、先頭にいる彼女に声を掛けた。
「あ、安曇野さん」
「上代君……?」
安曇野さんは驚いたように俺を見た。
「よろしく」
俺はどことなくぎこちなさを覚えながらも他の男子に倣って挨拶する。ちらりと横を見るとやっぱり國生は榊の横にいた。
「こ、こちらこそよろしくね」
安曇野さんが軽く会釈する。
――なんとか、穏便に……。
そう心の中で唱えつつ、緊張の面持ちで順番がくるのを待つことになった。
* * *
生徒による肝試しが始まったちょうどその頃、林の茂みの中にその2人はいた。
「楓様、わざわざこんなところから覗かなくても……」
海星は傍らで体操座りをしている王妃に言った。
「気分よ気分。何ならむしろここを通る生徒さん達を驚かせるというのもありね」
そんな茶目っ気溢れる楓に海星は溜め息をつきつつ、周りに注意を配っていた。
この付近に何かが潜んでいるのは分かっている。けれど彼女もこう考えたのだ。このまま逃げ帰るよりかは、迎え撃って悩みの種を断ち切ってしまうべきだと。
(……それに、楓様と私のせっかくの旅行気分を台無しにした落とし前、つけてもらわないと気がすまないわ)
それも本音である。
* * *
ついに順番が回ってきて、コースを歩き出す。経路は至って簡単だった。まっすぐ道を進んで、少し先にあるお地蔵様のところで右に曲がり、折り返すだけのもの。
「なんか暗くてちょっと不気味だね」
安曇野さんは苦笑しながらそう言った。
「前のお化け屋敷よりかはマシだけど」
俺がそう返すと、そのときのことを思い出したのか安曇野さんはさらに苦笑する。
実行委員による脅かしもひと段落した折り返し地点、俺は意を決して切り出すことにした。
「あの、さ、安曇野さん」
緊張が声に伝わったのか、安曇野さんもどこかそんな面持ちで応えた。
「な、何?」
心の中で、一息ついてから、俺は言う。
「この前の、返事なんだけど……」
思わず視線を落とす。目を見て言うべきかとも思ったけれど、やっぱり彼女の期待と不安が混じったような目を見て言うのは無理そうだ。
「その……ごめん。俺、好きな子がいて……」
言った。
言ったぞ、俺。
けれど顔を上げられない。彼女の次の言葉を待つしかなかった。
そして。
「……うん。ありがとう。上代君、わざわざ伝えるためにこうやって機会作ってくれたんだよね」
彼女は思ったより平気そうな感じで、そう言った。
俺は少しばかり安心して顔を上げる。
「……やっぱりばれてた?」
俺は苦笑する。すると安曇野さんも笑ってくれた。
「少しね。……上代君の好きな人って、やっぱり日出さん?」
「!?」
――な、なんで安曇野さんが知ってるんだ!?
顔に出たのか更に安曇野さんは可笑しそうに笑って
「なんとなく、見てたら分かっちゃった。その……私が言うのも変だけど、頑張ってね」
そう言ってくれた。
安曇野さんがこんな子で良かったと、俺は本当にほっとしていた。
「うん。ありがとう」
これでずっとつかえていた問題が、1つ解決したことになる。
* * *
それを『たまたま』目撃していた楓と海星の2人。
「……いつの間にか、大変なことになっていたのね……」
少しばかり放心状態の楓を見て、海星はくすりと笑う。
「まあ、お年頃ですからね。ご子息が急に大人びて、ショックだったりしますか?」
「いいえ! そんなことはないわよ! それより榊ちゃんはどこかしら。冬馬を応援しないと……」
と、そんな時。
耳障りな咆哮と、茂みが揺れる音がして、黒い影が近くで立ち上がった。
「楓様!」
海星は殺気を感じ、とっさに楓を抱え横に飛び退く。
* * *
「!?」
咆哮と茂みの音とさらに人の声が突然聞こえたことに俺は身構えた。安曇野さんも驚いたようで、俺の影に隠れる。
すると目の前に、長い髪の女性を抱える人影が現れた。
そしてそのさらに先には、目だけが不気味に赤く光る、黒く大きな熊がいた。