5
リタルの目の前で、今、故郷が燃えていた。
山火事などではない。
火災の発生源はスマラグド――否。
結局、この男だったのだ。
「……あんたの仕業ね、サマエル!」
自宅で、ソフィアが睨むその先には、
「……仕業?」
流れる金髪。背には二対の白い羽。不思議な光を放つ金の瞳をメガネをかけて隠している。
「先に手を出したのはそちらでしょう、ソフィア」
リチウムと瓜二つの容姿をした天使、ファーレンの姿があった。
「だから私から隠れ、このような山奥でひっそりこそこそ暮らしていたのでしょう?」
玄関で腕を組んで、にっこりとソフィアに微笑みかける。
「笑わせないでほしいね」
奴と対峙したまま、ソフィアの体は鮮やかな黄緑色に発光していた。
彼女の魔力は『魔眼』。
空間を操作し、他者の視覚に働きかける魔力である。
ソフィアは今、自身の魔力を駆使して、ファーレンと、その後ろに控えている炎を背負った魔人の周りの空間を遮断していた。こうする事でファーレン達をこの場に足止めし、同時に魔力攻撃を防いでいるのである。
……しかし。今度は如何なる魔人を生み出したかと思えば。
魔人の爆発的な魔力を感知した時には既に、二階の窓から見下ろした村は真っ赤に染まり、周辺の森も最早、アイオーンである彼女の魔力を持ってしても手の着けようもない程だった。
……いや、急げばまだ打つ手はあったかもしれない。
玄関を出ようとした彼女の前に立ちはだかったのが、ファーレンと、その後ろを付いてくる炎の魔人が●●●でなかったなら。
「あんたから隠れる? 自意識過剰も大概にしとけっつの。あたしぁ、あたしの意思でこの村に移り住んだだけだ。あんたの存在なんざ欠片も頭になかったさ」
空間を遮断した事であちらの攻撃は完全に封じているのだが、それでも光り輝くエメラルドの瞳は、油断なくファーレンの動向を捉えていた。
「それより一体どういうつもりだい? あたしに用があるのなら直接あたしに仕掛ければいいだろ。相変わらず回りくどい手使うね。その様子じゃあんた、天使になっても性根の腐り具合は相変わらずだって事なんだろうけど」
「そちらも相変わらずの口の悪さで。懐かしいですよ」
打つ手がないはずのファーレンは、しかし優美な笑みを崩さない。
「先ほども申したはず。先に手を出したのは貴女の方です、ソフィア。今回私はそのお返しをしようとお邪魔しただけです」
「お返しだ?」
「ええ」
ファーレンは指先でメガネをくいっと上げ、不思議な色彩を放つ瞳に宿る殺気の色を隠す。
「貴女はダヴィと共に、私の一番大切なモノを奪い、隠してしまいました」
「…………しつっこい男だねあんたも」
舌打ちするソフィア。
既に用件は判っていたという風だ。
「不思議な事に……人界時間でいうと十一年前から、でしょうか。あれほどの魔力を秘めたモノがどこを探しても見つからないのですよ、ソフィア。そこで私は視覚と共に感覚までも麻痺させてしまう貴女の魔力を思い出し、人界の警察機関を通じてこれまでずっと貴女の行方を探してきました」
「そりゃご苦労なこって」
「ええ。苦労しましたよ。何しろ人界の管理者代理である貴女が、目くらましのつもりか人に成りすまし、人として人界に生きていた。しかも名を変えて」
「言っただろ。あたしぁあたしの好きに生きてるだけだ。あたしがどう生きようがあんたには関係ない」
「ええ。どう生きていただいても構いません。が、これだけは教えてほしい」
メガネの奥でギラリと輝く金の瞳。
「いい加減。私の大切なモノを返していただけませんか」
膨れ上がる殺気。しかしソフィアはその様子を鼻で笑う。
「はて。ありゃ、いつからあんたのモノになったんだい? サマエル」
「いい加減サマエルはやめてください。今はヘル・ファーレンという名があるのです。姿も違うでしょう?」
やれやれと首を左右に振ると、ファーレンは背中の純白の翼を羽ばたかせてみせた。ファーレンの周囲に風が巻き起こったはずだが、空間を遮断しているため、こちら側には届かない。
「本当、見事に化けたもんだね。あの禍々しさがまるでない。天使そのものだよ。そりゃトピアの趣味かい?」
「ええ。美しいでしょう。私も気に入っています。それに、この姿の方が動きやすいのですよ。私の探し物は人界にあるようでしたから」
腰に手を当て、盛大にため息を吐くソフィア。
昔からサマエルは頭がキレる。いつか感づくだろうとは思ってはいたがこうも早い時期に来るとは。
しかもトピアと手を組み、天使に化けるとは恐れ入った。さすがのダヴィもこれでは気づけないだろう。
ソフィアの様子にくすりと笑むファーレン。表情は柔和だが隠し通せぬ程の膨大な殺気は相変わらずソフィアに向けられている。
「このまま村の被害を最小限に抑えるつもりでしょうが」
……しかもしっかりバレている。
「なんだ。気づいてたのかい」
「さすがに、貴女のクセのある魔力は覚えていますよ。しかも、村を囲う程、濃厚な魔力です。気づかないはずがないでしょう」
空間操作の属性でもないくせに、魔力感知能力が高いとはどういう造りをしているんだか。
……まぁ、視力を失った分、そちらが発達したという結果なのだろう。
「とち狂ったあんたでも、生みの親の魔力位は覚えていたか。嬉しいねぇ」
「貴女には感謝していますよ。ソフィア。ですから、猶予を与えているのです」
「……猶予だ?」
ソフィアの顔から、この時初めて笑みが消えた。
「貴女が素直に応じるとは思っていません。ですから、取引をと思いまして」
「…………………………取引、ねぇ。そりゃ、人様のダンナを魔人化させた後でやるものなのかい」
エメラルドに光る瞳は対峙した時からずっと、ファーレンのみを視界に入れ続けている。
一度たりとも、ファーレンの背後に潜んでいる魔人を映しはしなかった。
……否。
映せないだけかもしれなかった。
「ばれてましたか、さすが」
乾いた拍手が室内に響いた。
ソフィアの怒りを身に受けて、さらに楽しげに応じるファーレン。
ソフィアの反応が嬉しくてしょうがないといった風だ。
「しかし、驚きましたよ。仮にも貴女の夫と名乗る方がこんなに無防備な方だったとは。拍子抜けでした。いえ、森の中で仕事帰りの彼にお会いした時に貴女について尋ねてみたのですが、彼、嬉々として貴女の事を話してくださいましてね。なんと、ご自宅まで案内してくださると言うから驚きです。お礼にと『炎帝』を渡しましたところ、あいつが喜ぶ、と嬉しそうに受け取ってくださいました。どうやら彼、人間にとってあんな危険な魔石を、誰かにプレゼントするおつもりだったようです」
「…………そんなにあたしを怒らせたいのかい、サマエル」
「これでも取引のつもりなんですよ、私としては。不出来な息子で申し訳ありませんが、お付き合いいただけませんかね」
「……………………嫌だと言っても」
「ええ、聞いてくださるまで何度でも言いますし、この状況も続きます」
表情を歪ませるソフィア。
早く片を付けてしまわなければ、子供達が帰ってきてしまうではないか。
それだけはなんとしても避けたい。
ファーレンと対峙しながら、ソフィアは必死で子供達の気配を探っていた。
ソフィアの焦りを、怒りと受け取ったファーレンはますます上機嫌にエチケットブラシを取り出し、白い衣服に掛け始めた。
潔癖症も相変わらずなようだ。
「状況がお分かりいただけたようなので本題に移らせていただきますが。早速、私の大切なモノの居場所を教えていただけませんかね? 応じてくだされば、すぐにでもこの場で魔人を消滅させてみせますよ」
「…………嫌だね」
ソフィアの言葉に、ブラシを持つ手がその動きを止める。
「おや。貴女らしくない。村を見捨てるおつもりで?」
「取引とはよく言ったもんだ。トピアに見張られてるあんたに、『炎帝』は傷ひとつつけられない。つけられるはずがない。故にあんたにゃ、テレートスは殺せない。あたしがあのコの居場所を教えた所で火事はこのまま。あんたは望む情報を手に入れたが最後、テレートスをこの村に放すつもりだろ」
ソフィアの答えに、ブラシをしまうと満足そうに頷くファーレン。
「まぁ、母たる者、子のつくお茶目な嘘ぐらいは見抜けて当然ですよね」
「………………」
「今も、村人達を炎から護るために一人一人空間遮断していってるんでしょう。マルチジョブ――しかも遠隔操作とは。さすがですね」
「…………なんだ。バレてんのかい」
「まぁ、応じないであろう事は予想がついていたので、二の案を練ってきました」
「……二の案だって?」
「ええ。実は、もっと手っ取り早い方法があったのですが……」
「手っ取り早いって…………、……!」
ガクンと細身を大きく震わせて、ソフィアの動きが停止する。
その胸に深々と突き刺さったのは、禍々しい形状の穂先をした赤槍だった。
「……ばか、な……空間は遮断していた、はず……!」
「おや。貴女ともあろう方がお忘れですか? これは例の、ククミスを突いた槍ですよ」
見上げたファーレンの姿に、ソフィアは驚愕する。
金色の髪は幾千匹の蛇のようにうねり、純白だった羽は十二枚に裂け、黒く変色していく。
「……サマエル……!」
「もうお分かりですよね? この穂先には、あの忌々しい『無』が付着している。アイオーンである貴女の魔力をも無に帰す。サマエルと呼ばれていた頃、私が所有していた最強の武器です」
神々しい程の笑みを浮かべて、赤槍を胸から引き抜くファーレン。
「………………るほど……落ちぶれたもんだね、あたしも」
ゆっくりと膝を着き、ソフィアの細身は床に沈む。
体から流れる鮮血が、じわじわと暖色のカーペットを染め上げる。
「貴女が消えれば、貴女の魔力も消失する。貴女方が隠している私の大切なモノも自ずと見つかるでしょう。……どうです? 手っ取り早いでしょう?」
「………………っ」
言い返そうと口を開くも、喉から夥しい量の血液が出、声にならない。
そんなソフィアを愉快そうに眺めていたファーレンがゆっくりと槍を構えた。
「息の根が止まるのを待っていられる程、私も気が長くありません。それに貴女は私の生みの親ですし、一応感謝の念も持ち合わせています。愛する家族が苦しむ姿をこれ以上目にするのは辛いでしょう。すぐに楽にしてあげま……」
「…………だめぇ……!」
ファーレンの背後から、甲高い声が響いた。
ソフィアが硬直する。
「……おかーさんをいじめないで!」
戸口に立っていたのは、長い黒髪の小さな女の子だった。
ソフィア譲りの大きな黒瞳は恐怖と涙で溢れている。
「これはこれは……」
ファーレンは極上の笑みを漏らした。
「…………リタル……こっちにおいで……っ」
血を吐きながらソフィアがなんとか声を上げる。
「だって、こいつ……! おかーさんをいじめる!」
「……いいこだから……はやく……!!」
母親の精一杯の叫びに、リタルと呼ばれた女の子は転がるように母親の元へ走った。
「――母さん……!?」
その直後、戸口に立った黒髪の少年も慌てて母親と妹に駆け寄る。
ソフィアの体を支える子供たちの視線を受け、ファーレンはさらに金の瞳を輝かせた。
「二人もお子さんがいらしたんですね……へぇ。もう気配を感知する力も残っていないのですか。アイオーンともあろうお方が、ずいぶんとまぁあっけないものですねぇ」
天使の衣を着た魔族の放つ禍々しい気に震え、それでも母の元を離れない子供達。
抑えきれない感情をメガネを掛け直す事でなんとか制し、怯える子供達にファーレンはニィと笑んでみせた。
「……そうですね。私もいまや天使の身。あまり非道な真似はしたくはない。僅かな時を家族水入らずで過ごさせてあげてもいいかもしれません」
「……なん、だって……っ?」
「遠慮しなくてもいいですよソフィア。魔石の破壊は子供達が焼け死んだ後で、ゆっくりと。『炎帝』の魔人を始末するついでに、灰の中を掻き出せばいいだけの事ですから」
「………………っ」
言うと、ファーレンは手にしていた赤槍で魔人に纏わりついていたソフィアの魔力を断ち切った。
開放された魔人は炎を背負ったまま、子供達に向かって突進する。
耳を劈く魔人の咆哮。
――それは、泣き叫んでいるようにも聞こえた。
ソフィアは最期の力を振り絞って子供達に覆いかぶさった。
子供達の悲鳴にかぶさるように、黒い十二枚の翼で暗雲広がる空に羽ばたき飛び去っていく白い衣の魔族の笑い声が村に響き渡った――
『……そっか……』
炎に包まれるスマラグドを、一人眺める背中。
村と同じように炎に照らされ赤く染まる、母と同じ黄緑色の髪。小さなその背を、クレープは言葉もかけずにただ見ている。
『なんだ、そっか……そういうこと』
その口調は、意外にも静かで、落ち着ききっていた。
『道理でグノーシスで会った時、初対面のはずなのにすっごいいけ好かない野郎だなと思った……』
(……リタル?)
『あんたに仕組まれてそうなったのかわかんないけど、……結局全部繋がってた訳ね』
振り返った、炎に照らされたその表情は――穏やかなものだった。
(……ダイジョブ? アンタ)
『何がよ』
(何って……泣き虫が、泣いてないから……)
『バッカじゃないの』
(……って、誰がバカよ)
クレープの憮然とした表情に苦笑して、リタルは再び燃えゆく故郷をそのエメラルドの瞳に映す。
『…………いつまでも、見ないふりのガキのまんまじゃいられないのよ』
そのまましばらく、リタルは滅び行く故郷を無言で眺めていた。
目に焼き付けた。
二度と蘇る事のない幸せと、母の愛情を心に刻むために。