夏の訪問者たちー母の実家を覗き込むモノー
母の四十九日の法要が滞りなく終わった。 遺品や思い出を整理する中で、ふと、幼い頃に母から聞いた奇妙な話を思い出した。
それはまだ、私が小学生だった頃のことだ。 母の実家の近所に住む人が、こんなことを言っていた。 「お宅の台所の窓をね、何かボロボロの服を着た子供が覗き込んでいたよ」
それを聞いた母は、驚く風でもなく「ふーん、そう」とだけ言って、事も無げに聞き流していた。
当時はまだ「児童虐待」なんて言葉が一般的ではない時代だ。私はてっきり、近所に満足な服も着せてもらえないような放置された子でもいるのかと思い、後で母に尋ねてみた。
「さっきの人の話、近所の子供なのかな?」
すると母は、淡々とこう答えたのだ。
「ああいう話は、昔からあるのよ。夏場になるとね、子供たちや、軍服のようなものを着た人が歩いているって、近所の人によく言われたわ」
最初は泥棒か何かかと思い、見回りを出したり警察に相談したりもしたらしい。けれど、毎年夏になると決まって同じような目撃談が出る。そのうち家族も「そういうものだ」と割り切って、気にするのをやめたのだという。
母の実家は戦時中、何度か機銃掃射を受けたことがあると聞いていた。 しかし、母の記憶の限りでは、その近辺で亡くなった人は一人もいないはずだった。
ならば、戦後何十年が経ってもなお、同じ姿の「彼ら」が目撃されるのはなぜなのか。 家に出入りする酒屋や米屋の配達員までもが「何かいたよ」と口にする。実家の家族には見えず、関係のない第三者にだけ見える、あの訪問者たちは一体何者だったのか。 その場所に何か因縁があるのか、それとも別の理由があるのか。一切の理由はわからないままだった。
平成の初期くらいまでは、まだそんな噂を耳にしていた。 けれど、令和の今となっては、もう誰もそんな話はしない。
家が建て替えられたからか。 近所の住人が入れ替わってしまったからか。 あるいは、区画整理で道路が拡張されたせいなのか。
真相は、今も何もわからない。 そして、当時の事情を知っている人は、もう、どこにもいない。
法事に母方の親族が誰もいなかった。母の兄妹で生きていて、入院してない人はもうだれもいない。
調べて見ると、1944年11月24日~1945年6月10日の記録によると、死者160名、負傷者115名、被災者約4,000名、全半焼883件、全半壊189件。中島飛行機武蔵野製作所の爆撃の通り道だったそうだ。




