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「呪われた王子」に嫁がされました

作者: 小林翼
掲載日:2026/02/04

その日、リディアーナ・フォン・ヴェルトハイムの人生は音を立てて崩れ落ちた。


王宮の大広間には貴族たちがひしめき合い、華やかなシャンデリアの光が床に敷き詰められた白大理石を照らしていた。本来ならば彼女の婚約披露の場となるはずだった夜会は、予想もしない形で幕を開けることになる。


「リディアーナ・フォン・ヴェルトハイム。本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」


第一王子アルベルトの声が広間に響き渡った。その傍らには、リディアーナの義妹であるセレナが寄り添うように立っている。涙に濡れた瞳で王子を見上げるその姿は、まるで庇護を求める小鳥のようだった。


「兄上、お待ちください!」


声を上げたのは第二王子のレオンハルトだった。しかしアルベルトは弟の制止を無視し、冷たい視線をリディアーナに向けた。


「セレナから全て聞いた。そなたが彼女に対して行ってきた数々の仕打ちを。実の妹に対してあのような残酷な振る舞いをする女を、私は妻として迎えることはできない」

「アルベルト様のおっしゃる通りです! リディアーナ様は私を階段から突き落とそうとしたのです!」


セレナの甲高い声が追い打ちをかけた。リディアーナは唇を噛んだ。真実はその逆だった。セレナが自ら転び、それをリディアーナのせいにしたのだ。しかし、誰がその言葉を信じるだろう。継母に連れられてヴェルトハイム家にやってきたセレナは、その愛らしい容姿と儚げな振る舞いで社交界の寵児となっていた。対してリディアーナは、亡き母から受け継いだ銀灰色の髪と淡い紫の瞳を「不吉」と囁かれ、幼い頃から疎まれてきた。



リディアーナは静かに息を吐いた。弁明しても無駄だということは、とうに分かっていた。この場にいる誰もが、可憐な被害者を演じるセレナの味方なのだから。


「承知いたしました、殿下」


彼女は深く頭を下げた。動揺も、悲しみも、悔しさも、全てを胸の奥に押し込めて。


「ならば良い。そして——」


アルベルトは一拍置いて、残酷な宣告を続けた。


「そなたには隣国エルデンシュタットへ嫁いでもらう。かの国の第三王子、ルシアン・フォン・エルデンシュタットの元へな」


広間にどよめきが走った。エルデンシュタットの第三王子といえば、「呪われた王子」として知られている。生まれながらにして顔の半分を覆う黒い痣を持ち、その痣は呪いによるものだという噂が絶えない。曰く、彼に近づく者は不幸に見舞われる。曰く、彼の母である先王妃は彼を産んですぐに亡くなった。曰く、彼は人の心を持たない化け物である——。


「まあ、なんて可哀想な!」

「あの呪われた王子の元へ?」

「ヴェルトハイム家も落ちたものね」


囁き声があちこちから聞こえてくる。しかしリディアーナは顔色一つ変えなかった。


「謹んでお受けいたします」


その答えに、アルベルトは一瞬だけ眉をひそめた。抵抗も、懇願も、涙もない。まるで天気の話でもするかのような淡々とした受け答えに、彼は拍子抜けしたようだった。



リディアーナが王宮を去る時、誰も彼女を見送る者はいなかった。父であるヴェルトハイム伯爵でさえ、セレナの傍に立ったまま娘に視線を向けようともしなかった。


馬車に乗り込み、王都の灯りが遠ざかっていくのを眺めながら、リディアーナはようやく仮面を外した。しかし流れ出たのは涙ではなく、乾いた笑いだった。


「呪われた王子、か」


窓の外に広がる夜空を見上げる。月明かりに照らされた彼女の淡い紫の瞳が、不思議な光を帯びて揺らめいた。


リディアーナには秘密があった。幼い頃から、彼女には人には見えないものが視えていた。人の身体に絡みつく黒い糸、建物に染みついた過去の残滓、そして——呪い。それは母から受け継いだ力だった。「不吉」と忌み嫌われた銀灰色の髪と紫の瞳は、古い血筋の証。かつてこの大陸に存在したという「視る者」の末裔である証拠だった。


だからこそ、リディアーナは知っていた。セレナの周りに蠢く黒い霧の正体を。あの義妹が纏っているのは、人を惑わす魅了の呪術。そしてアルベルト王子もまた、その術中にはまっているのだということを。


しかし、それを訴えたところで誰が信じるだろう。呪いを視る力など、この時代では迷信として片付けられる。下手をすれば魔女として処刑されかねない。


「エルデンシュタットの呪われた王子……あなたの呪いは、どんなものなのかしら」


期待でも恐怖でもない、純粋な好奇心がリディアーナの胸に灯った。



国境を越え、エルデンシュタット王国に入ったのは、王都を発ってから七日目のことだった。


この国は豊かな森林と鉱山に恵まれ、質実剛健な国民性で知られている。隣国でありながら、リディアーナの祖国ローゼンガルドとは長年緊張関係にあり、彼女の輿入れは両国の和平の象徴という名目がつけられていた。


「リディアーナ・フォン・ヴェルトハイム嬢ですね。お待ちしておりました」


王城の門前で出迎えたのは、銀髪に碧眼の壮年の男性だった。宰相のヴィクトール・シュタインベルクと名乗ったその人物は、想像していたよりもずっと穏やかな物腰だった。


「長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内いたします。ルシアン殿下との謁見は、明日に」

「いいえ」


リディアーナは静かに、しかしきっぱりと首を振った。


「できれば今日中にお会いしたいのです。これから私が仕えることになるお方ですもの。まずはご挨拶を」


ヴィクトールは一瞬驚いたように目を見開いた。それから、どこか感心したような笑みを浮かべる。


「……承知いたしました。では、こちらへ」



ルシアン王子の居室は、王城の北塔にあった。他の王族の住まいからは離れた、まるで隔離されているかのような場所だった。


石造りの廊下を進むにつれ、リディアーナは周囲の空気が変わっていくのを感じた。視界の端に、かすかな黒い靄が見え始める。それは壁に、床に、天井に、染みのようにこびりついていた。


「これは……」


思わず足を止めたリディアーナに、ヴィクトールが訝しげな視線を向ける。


「いかがなさいましたか?」

「いえ、なんでもありません」


首を振って歩を進める。しかし内心では、リディアーナは驚愕していた。これほどまでに濃密な呪いの気配は初めてだった。それも、一種類ではない。幾重にも重なり、絡み合い、この塔全体を覆い尽くしている。


重厚な扉の前でヴィクトールが立ち止まった。


「殿下、ローゼンガルドよりリディアーナ嬢がお見えです」


返事はなかった。宰相は困ったように眉を下げたが、それでもゆっくりと扉を押し開けた。



部屋の中は薄暗かった。厚いカーテンが引かれ、わずかな隙間から差し込む月明かりだけが光源となっている。その中に、一つの人影があった。


窓辺に立つその背中は、想像していたよりもずっと広く、逞しかった。ゆっくりと振り返った顔を見た瞬間、リディアーナは息を呑んだ。


噂通り、彼の顔の右半分は黒い痣に覆われていた。まるで墨を流したかのようにその境界は曖昧で、うごめく影のように見える。しかし左半分には、整った目鼻立ちと深い蒼の瞳があった。


そして何より——。


「視えるのか」


低く、静かな声だった。リディアーナを射抜くその蒼い瞳には、警戒と、わずかな驚きが浮かんでいた。


「私の顔を見ても、悲鳴を上げないのだな」

「悲鳴を上げる理由がございませんもの」


リディアーナは平然と答えた。


「確かに殿下のお顔には痣がおありです。けれどそれは呪いの結果であって、殿下ご自身ではありません。痣を見て怯えるのは、火傷の痕を見て怯えるのと同じこと。愚かなことです」


ルシアンは眉をひそめた。その表情は読み取りづらかったが、どこか戸惑っているようにも見えた。


「変わった女だな」

「よく言われます」


リディアーナは小さく肩をすくめた。そして、一歩前に踏み出す。


「殿下、私は殿下の呪いを視ることができます」


空気が凍りついた。ヴィクトールが息を呑む気配がした。しかしリディアーナは構わず続けた。


「私の目には、殿下を蝕む呪いの正体が視えます。そしてそれは——殿下ご自身がかけたものではない」


ルシアンの瞳が大きく見開かれた。


「どこまで……視えている」

「三重の呪いです。一つは殿下の生命力を吸い取るもの。一つは殿下の周囲に不幸をもたらすもの。そして最後の一つは……」


リディアーナは言葉を切った。三つ目の呪いは、最も古く、最も深く、ルシアンの存在そのものに絡みついていた。それは呪いというよりも、むしろ——。


「封印、ですわね。何かを押さえ込んでいる」


沈黙が落ちた。月明かりが雲間から差し込み、二人の間の空間を白く照らす。


「……なぜだ」


ルシアンの声はかすれていた。


「なぜ、それを私に告げる。その力があるなら、私を脅すこともできるだろう。取引を持ちかけることも。なのになぜ、初対面の私に全てを明かす」


リディアーナは静かに微笑んだ。


「私は生まれてこのかた、見たくもないものを視続けてきました。人の醜さも、呪いの恐ろしさも。そしてそれを誰にも言えず、一人で抱え込んできました」


彼女の淡い紫の瞳が、ルシアンの蒼い瞳をまっすぐに見つめる。


「殿下もきっと、同じでしょう? 誰にも理解されず、一人で背負ってこられた。だから私は、殿下に嘘をつきたくなかったのです」


ルシアンは長い間、リディアーナを見つめていた。その視線には、警戒や敵意ではなく、もっと複雑な感情が渦巻いているように見えた。



それから数週間、リディアーナは王城での生活に馴染んでいった。


ルシアン王子との婚約は正式に発表され、彼女は王子妃候補として扱われることになった。とはいえ、「呪われた王子」の婚約者という立場は決して楽なものではなかった。王城の使用人たちは彼女を遠巻きに見つめ、他の王族は露骨に距離を置いた。


しかし、リディアーナにとってそれは慣れた境遇だった。むしろ、干渉されないほうが都合が良い。彼女には、やるべきことがあったのだから。


「これは……予想以上に複雑ですわね」


北塔の一室で、リディアーナは机に広げた羊皮紙に細かな文字と図形を書き込んでいた。ルシアンを蝕む呪いの構造を解析するための作業だ。


「そう簡単に解けるものなら、とうに解いている」


いつの間にか、部屋の入り口にルシアンが立っていた。彼は相変わらず愛想がなく、必要最低限のことしか話さない。しかし、リディアーナが呪いの研究をすることを止めはしなかった。


「一つ目と二つ目の呪いは、比較的新しいものです。おそらく、殿下がお生まれになってから十年以内にかけられたもの」

「……十年以内、か」


ルシアンの表情がわずかに曇った。


「私が七歳の時、母上が亡くなった。そして同じ年に、父上は新しい王妃を迎えた」


リディアーナは書き込みを続けながら、静かに耳を傾けた。


「継母には連れ子がいた。今の第一王子と第二王子だ。そして私は、北塔に移された」

「その頃から、この痣は?」

「もっと前からだ。生まれた時から、この痣はあった」


ルシアンは窓辺に歩み寄り、外の景色を見つめた。月明かりが彼の横顔を照らす。痣に覆われた右側と、整った左側のコントラストが、まるで二つの世界の境界線のように見えた。


「だが、悪化したのはその頃からだ。痣が広がり、近づく者に災いが降りかかるようになった。使用人が次々と病に倒れ、私の世話係は階段から落ちて亡くなった」

「それは呪いの仕業です。殿下のせいではありません」


リディアーナはきっぱりと言い切った。


「私には視えます。殿下から発せられているのではなく、殿下に向けられた呪いが周囲に害を及ぼしているのだと。誰かが意図的に、殿下を孤立させようとしているのです」


ルシアンは振り返った。その蒼い瞳に、かすかな揺らぎがあった。


「なぜ、そこまでする。お前に何の得がある」

「得?」


リディアーナは小さく笑った。


「私は婚約破棄されて、厄介払いのようにこの国に送られてきました。帰る場所も、守るべき名誉もありません。ならばせめて、自分の力を役立てられる場所で生きたいと思っただけです」


彼女は立ち上がり、ルシアンの前に歩み寄った。


「それに——」


彼女の手が、ルシアンの頬に伸びた。痣のある右頬に、そっと触れる。ルシアンは身を引こうとしたが、リディアーナの静かな視線に縫い止められたように動けなかった。


「呪いの向こう側に、本当のあなたが見えるのです。優しくて、誠実で、ずっと一人で耐えてきた人が」


ルシアンの瞳が揺れた。それは、初めて見せる脆さだった。



月日は流れ、季節が一つ移り変わった。


リディアーナの研究は着実に進んでいた。一つ目の呪い——生命力を吸い取る呪いの解呪には成功した。二つ目の呪い——周囲に災いをもたらす呪いも、あと少しで解除できる見込みが立っていた。


しかし、三つ目の封印だけは、依然として謎に包まれていた。


「この封印は、他の呪いとは性質が違います」


ある夜、リディアーナは発見した事実をルシアンに告げた。


「これは殿下を害するためのものではありません。むしろ……殿下の中にある何かを、守るためのものです」

「守る?」


ルシアンは眉をひそめた。


「私の中に、何がある」

「それはまだ分かりません。けれど、この封印をかけたのは——おそらく、殿下のお母様です」


息を呑む音がした。


「母上、が……?」

「この封印には、強い愛情の波動が残っています。殿下を守ろうとする、切実な願い。それは、呪いをかけた者の悪意とは正反対のものです」


リディアーナは真剣な眼差しでルシアンを見つめた。


「殿下のお母様は、殿下に何かを託されたのではないでしょうか。そしてそれを守るために、自らの命を捧げて封印を施された」


ルシアンは黙り込んだ。その表情には、動揺と、かすかな希望と、そして深い悲しみが入り混じっていた。



調査を進めるうち、リディアーナは王宮の古い記録にたどり着いた。


ルシアンの母、先王妃エレオノーラは、ある血筋の出身だった。それは——。


「視る者……?」


リディアーナは自分の目を疑った。記録によれば、エレオノーラ王妃もまた、リディアーナと同じ古い血筋を引いていたのだ。しかしそれだけではなかった。王妃は単なる「視る者」ではなく、呪いを祓う力を持つ「浄化の巫女」の最後の一人だったという。


そして、彼女が守ろうとしたもの——それは、この大陸に古くから伝わる「聖なる器」の力だった。


「聖なる器を持つ者は、あらゆる呪いを浄化し、大地に祝福をもたらす。しかしその力は諸刃の剣。悪しき者の手に落ちれば、大陸全土を呪いで覆い尽くすこともできる」


リディアーナは記録の続きを読み進めた。


「エレオノーラ王妃は、聖なる器の力を息子に継承させた。しかし、その力を狙う者たちから息子を守るため、王妃は自らの命と引き換えに封印を施した——」


全てが繋がった。


ルシアンを蝕む呪いは、彼の中に眠る聖なる器の力を奪おうとする者たちの仕業だったのだ。そして痣は、呪いと封印がせめぎ合う境界線。母の愛が、かろうじて息子を守り続けている証。



リディアーナが真実を告げると、ルシアンは長い間沈黙した。


「母上は……私を守るために死んだのか」

「はい。そして今も、殿下を守り続けています」


ルシアンの頬を、一筋の涙が伝った。それは、彼女が初めて見る彼の涙だった。


「ずっと、自分のせいだと思っていた」


かすれた声が、絞り出されるように漏れた。


「私が生まれたから、母上は死んだのだと。私が呪われているから、周りの人間が不幸になるのだと。だから誰にも近づかず、一人で——」

「もう、一人ではありません」


リディアーナは彼の手を取った。


「私がいます。殿下の呪いを祓い、お母様の願いを叶える手助けをさせてください」


ルシアンはリディアーナの手を見つめ、そしてゆっくりとその手を握り返した。



数日後、二つ目の呪いの解呪に成功した夜のことだった。


リディアーナが自室に戻ると、そこに待ち伏せている人影があった。


「お久しぶりですわ、お姉様」


セレナだった。


「どうしてここに……」

「あら、驚きました? ローゼンガルドとエルデンシュタットは今や同盟国。行き来するくらい、わけないですわ」


セレナはにこやかに笑った。しかしその周囲には、以前よりもさらに濃い黒い霧が渦巻いていた。


「それにしても驚きましたわ。まさかお姉様が呪われた王子と仲睦まじくなさっているなんて。やっぱり不吉な者同士、惹かれ合うのかしら」

「何の用ですか」

「直接的ですわね。いいでしょう、単刀直入に言いますわ」


セレナの目が、冷たく光った。


「あの王子の中にあるものを、私に渡しなさい」


リディアーナは悟った。セレナ——いや、セレナを操る何者かは、最初からルシアンの力を狙っていたのだと。リディアーナを婚約破棄させてエルデンシュタットに送り込んだのも、全てはこのため。呪いを視る力を利用して、聖なる器への道を開かせるため。


「お断りします」

「強情ですわね。なら、力ずくでいただくまで」


セレナの周囲の黒い霧が膨れ上がり、無数の触手のようにリディアーナに襲いかかった。


「——させない」


その時、部屋の扉が吹き飛んだ。


ルシアンだった。彼の身体から、眩い光が放たれている。痣に覆われた顔の右側からも、その光は溢れ出していた。


「殿下……!」

「下がっていろ、リディアーナ」


ルシアンは一歩前に出た。その光は、セレナの黒い霧を押し返していく。


「これは……聖なる器の力……!」


セレナが悲鳴を上げた。


「嘘よ、封印されているはず!」

「母の封印は、私を守るためのものだ。私が守りたいと願った時——封印は解ける」


ルシアンはリディアーナを振り返った。その蒼い瞳には、もう迷いはなかった。


「お前が教えてくれた。母は私を憎んでいたのではなく、愛していたのだと。その愛を、私は今度こそ受け継ぐ」


光が部屋全体を包み込んだ。セレナに巣食っていた呪術が、まるで朝露が蒸発するように消えていく。そしてセレナ自身も、力を失って床に崩れ落ちた。



全てが終わった後、王城の中庭で、リディアーナとルシアンは並んで夜空を見上げていた。


ルシアンの顔から、痣は消えていた。聖なる器の力が目覚めたことで、長年彼を蝕んでいた呪いは全て浄化されたのだ。


「……不思議な気分だ」


ルシアンはぽつりと言った。


「二十年以上もこの痣と共に生きてきた。それが急になくなると、自分が自分でないような」

「お気持ちは分かります」


リディアーナは静かに微笑んだ。


「私も、誰にも理解されない力と共に生きてきましたから」

「だが、お前がいたから——」


ルシアンは彼女のほうを向いた。月明かりに照らされたその顔は、初めて会った時とは別人のように穏やかだった。


「お前がいたから、私は自分を取り戻せた。母の愛を知ることができた。そして——」


彼の手が、リディアーナの頬にそっと触れた。かつて彼女がそうしたように。


「守りたいと思える人に出会えた」


リディアーナの胸が高鳴った。淡い紫の瞳に、涙が滲む。


「殿下……」

「ルシアンと呼べ。お前は——私の妻になるのだから」

「……はい、ルシアン」


二人の影が、月明かりの中で一つに重なった。



後日、ローゼンガルドでは大きな騒動が起きていた。


セレナを操っていた呪術師の存在が明らかになり、その黒幕が現王妃——つまりセレナの実母だったことが発覚したのだ。王妃は王位継承権を持つルシアンの力を奪い、自らの息子たちに与えようと画策していた。そしてその計画は、リディアーナを利用することで完成するはずだった。


全ての陰謀が暴かれ、王妃は失脚した。アルベルト王子は謀略に加担していたわけではなかったが、魅了の呪術にかかっていたという事実は、彼の権威を大きく傷つけた。


「リディアーナ嬢に謝罪したい」という王子からの使者がエルデンシュタットに来たが、リディアーナはそれを丁重に断った。


「過去のことはもう良いのです」


そう答えて、彼女は微笑んだ。


今の彼女には、帰る場所がある。守るべき人がいる。そして何より——心から愛し、愛される人がいる。


かつて「不吉」と蔑まれた銀灰色の髪が、春風に揺れた。窓の外には、エルデンシュタットの花園が広がっている。その傍らには、穏やかな眼差しで彼女を見つめるルシアンがいた。


「何を考えている?」

「昔のことを思い出していました」


リディアーナは彼の腕に寄り添った。


「婚約破棄された日は、人生の終わりだと思いました。けれど今は——あの日があったから、あなたに出会えたのだと思えます」

「私もだ」


ルシアンは彼女の髪にそっと口づけた。


「お前が来てくれたから、私は闇から抜け出せた。呪われた王子は、お前によって救われたのだ」

「いいえ」


リディアーナは首を横に振った。


「救われたのは私のほうです。初めて、ありのままの私を見てくれる人に出会えた。それがどれほど嬉しかったか」


二人は顔を見合わせ、静かに微笑んだ。




最後まで読んでいただきありがとうございます。

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