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雨漏り

作者: 扉野ギロ

昼飯を食べ終えようという時だった。

社長から午後一番に近くの現場に雨漏りを見に行ってほしいと声をかけられた。

午後は他の現場を見に行く予定だったのだが、代わりに社長が別件のついでに予定の現場を見に行ってくれるというので、小首を傾げながらも雨漏り調査の依頼へ向かうことにした。


雨漏り調査は、雨漏り箇所と原因が同一線上にあるとは限らないし、最悪原因不明なんてこともある。面倒だからあまりやりたくはないことだった。

とはいえ、家のどこかに穴が空いているという状況が落ち着かないという気持ちはよくわかるし、できる限り解決してあげたいというのは本心だ。


住所を訊くとすぐそこだったので、むしろ原因は建物の劣化の可能性が高いな、などとあまり意味のない予想をしていた。


食後の運動がてら現場へは歩いて向かうことに決めたのだが、事務所を出て一歩目でもうその選択に後悔した。


事務所の外は、その瞬間衣服と肉体との区別を失うほどの蒸し暑さで満ちていた。

そのくせ、体の広い面に赤外線ストーブを近づけられているかのような熱さも感じられる。風も吹いていないし、つまりは最悪の環境だった。

そういう状況は、よくよくサウナという言葉で表現されるが、夏の蒸し暑さは湿度のそれがサウナとは全く違う気がする。


うだる私とは裏腹に、家々は平然と佇んでいる。

黒と煤けた赤色の屋根、点在するブロック塀、風化して全体的に薄い土色をした古い住宅街には昼間だからか、人気がなかった。

そういうところを目的地に向かって淡々と進んでいると、自分の風景の一部になっているかのようで、雑念というか、頭に何も浮かばなくなっていた。



ウェブマップで確認した二階建てのその家は、鉄格子状の門扉の奥に見える玄関口と三州瓦と思われる赤い屋根以外、ブロック塀に阻まれて全体像はよくわからなかった。

それを実際見てみると、もちろん風化は目立っていたが、第一印象に意外と立派だと感じた。


しかし、チャイムを鳴らして出てきた家主はというと、立派な家に住む人の想像とはだいぶ異なっていた。

見た目にだらしない、ぽっちゃりとした女性がそこから出てきて、一瞬面食らった。

年齢はおそらく五十代、すっぴんで髪も整っておらず、薄手のノースリーブワンピースのせいで下着を着けていないのがすぐにわかった。肩から露出した肌は、染みと赤みで荒れているように見えた。


正直、マズいところに来てしまったと感じた。

一瞬過ったそんな私の不安だが、


「どうも。暑いのにごめんなさいね、ありがとうございます」


深々と頭を下げる女性の所作が見た目に反して丁寧だったために、すぐに払拭されていた。


「とにかく、どうぞ」


と促されて、ガラガラと大げさに音が鳴る引き戸の先へ一歩踏み込んだ途端、他人の家特有の嗅ぎ慣れない匂いがした。


「奥の部屋なんですけどね」


案内されるまま、玄関から真横に伸びる縁側を進み、奥の部屋の障子が開けられた。

そこから漂ってきた匂いに、私は思わず鼻を擦った。

率直に臭かったのだ。

だがそれは、育ってきた環境や価値観の違いによるもの、つまるところ、嗅ぎ慣れない他人の家の独特な匂いに神経質になっているだけだと感じていた。


室内は、八畳の畳敷きに床の間、床脇など一揃え格好のついたものだった。

畳は全て薄茶色く変色していて、それから部屋の隅に来客用と思しき座布団がいくつか重なっているだけで、あとは棚に置物があるだけで全体的に物は少なかった。


それとなく天井に雨漏り箇所を探していると、さらに奥の襖を引いて、家主が、


「この部屋なんですけどね」


と私を促した。

家主の脇を通り過ぎ、奥の奥の部屋へ足を踏み入れた瞬間、私は彼女の目も憚らずに手で鼻も口も覆った。

吸い込んではいけないものを吸い込んだ、と瞬時に脳が入ったものを吐き出そうとするのを堪えた。

もし、私が日本人としての厳しいマナーを教育されていなければ、我慢なんてできなかったかもしれない。


手を顔から引き離し、とにかく私は脳が拒絶しようとするものを堪えながら、雨漏り箇所はどこかとあくまで平静を装って質問した。

彼女はあとから部屋に入ってきて、徐ろに照明に明かりを点けたのだが。そこで私は、部屋が暗く周囲がよく見えていないことに気がいかないほど動転していた、と気がついた。


雨漏り箇所はすぐにわかった。

部屋の隅に同心円状の染みがあったのだ。

外周部分がカビで黒く染まって縁取られていて、中心部に関しては全体的にうす赤茶けているという、おおよそツートンカラーの不格好なドーナツ状のものだ。


そこから同一線上に視線を上げると、天井にも似たような染みがあったが、それは畳のものよりも広範囲で不定形な雲のような形に見えた。


私は雨漏りがいつからか尋ねたが、


「気づいたらそうなっていたんです」


と言われただけだった。

なるほど、普段は使わない部屋だったからこの匂いにも気が付かず、今日の今日で連絡してきたのだろうと思った。

思ったまま、普段は使わない部屋なのかと訊くと彼女は、


「あんまりね」


と返すだけ。

私はその返答に少し違和感を覚えた。



天井の染みが広範囲なことから、水は天井から垂れているものと考えられたので、二階の真上の部屋の調査をすることにした。

縁側まで戻った時、もう鼻が詰まっていたことに気がついた。


玄関からまっすぐに行ったところ、視線から隠されるように脇に設けられた階段は、古い家ではありがちな急勾配で、家主は足腰が悪いのか上りづらそうにしていた。


二階に水廻りはなく、階段を上って目の前にある部屋が件の部屋の真上にあたるという。

そしてそこは、物置、だと説明された。

物置なら普段はあまり使わないはずで、それならもしかして、と身構えたが、扉の奥に漂っているのはいわゆる普通のカビと埃の匂い程度だった。

足下が全面カーペット敷になっていたので、珍しいことだと雑談を仕掛けたが、背後にいる彼女は何も答えなかった。


床のどこかに雨漏りの染みがないか確認しようと思ったが、折りたたみベッドやら洋服ダンスのような大物に加え、その他様々なものが雑多に詰め込まれている衣装ケースやらがいくつもあって、ひと目にはわからなかった。

しかし、天井にはそれらしい跡がなかったため、二階の屋根からのものではないと推測した。


部屋の位置関係からして、部屋の出入口正面にある窓かその右手の壁に付けられた窓が怪しいと踏んだ。

そばには荷物が積み重なっていたため、どけて窓を開けていいか確認するも、彼女はこくりと頷くだけだった。


少し苦労して荷物をどかし、ついでにサッシ周りを確認したが水染みは見当たらなかった。

そういった状況から、やはり問題は屋根にあると考えられた。

しかし、どちらの窓の外に並ぶ瓦のどれにも、ヒビや欠けのような痛みはぱっと見で見当たらなかった。


いよいよもって雨漏りの面倒なところが顔を出していた。

屋根にあがらなければならないと考えつつも、まずは雨樋の具合を確かめようと一度外回りを見せてもらうことにした。



玄関を正面に左手に行くと、縁側に面する庭がある。

低木が密集して植えられ、それと柿の木が一本あるだけの狭い庭だった。手入れが行き届いておらず、そこら中雑草が伸びて、低木はそれらに侵食されて様々な葉がはみ出している状態だった。

そんな雑然とした庭とは相反して、踏石の脇には枯れた花と乾いた土が詰め込まれているだけの物悲しげなプランターが置かれていた。


さらには、外壁のモルタルも隅のところで欠けていたり、ヒビが入っていたりと、塀の外から見た立派さとはかけ離れた粗末な状態だった。


そこで雨樋はというと、外れたりこそしていないが、見ただけでずいぶん劣化しているのがわかった。

これならどこかしらにヒビの一つでもあっておかしくないと思い、やりたくはないことだったが、屋根に上がって件の部屋の上がどうなっているのか近くから確認するしかなかった。


たとえば社用の軽トラで来ていれば、脚立と工具箱くらいは間違いなく持ってきていただろう。

単に近場であることにばかり気がいって、慣れないことをしたためにほとんど手ぶらで来ていた自分の愚かさに肩を落とした。



再び二階に上がる許可をもらい、先ほどの部屋の窓から屋根に上がることにした。

命綱など特別な装備もなく屋根にあがるのは危険とは感じたが、慎重に動けば問題はないと思った。

屋根には乾いた砂がこびりついてはいたが、実際、靴底のグリップもしっかりと効いている感覚があって、少し動くくらいなら問題はなかった。

それでも、あまり調子に乗って屋根全体を移動することは避け、件の部屋周辺でのみ調査をすることにした。


庭からでは確認できなかった二階の部屋の角に、ちょうど縦樋が通っていた。

問題があって雨漏りの原因になるとすれば、そこだ。

見てもわからないので、樋を叩いて詰まりがないか調べてみると、どうやら音が鈍かった。

集水桝が詰まっているのかもしれないと考え、よくよく見上げてみると、枯れて変色した雑草の一部が枡の縁に張り付いているのが見えた。


なるほど、そこで枡が溢れて一点集中的に大量の水が件の部屋の部分に当たるのだろうと考えられた。

そこでおおよその位置の瓦を確認してみたが、やはり目立った損傷は見当たらなかった。

であれば、下地に問題があると予想がひらめいた。

一枚瓦を剥がして確認してみると、やはりだった。

何十年も前に敷かれた防水紙が、経年劣化でボロボロになっていた。


つまり雨漏りは、枡から溢れた水が一点集中し、劣化した防水紙が守りきれずに屋内へ水の侵入を許していたからだということだと考えられた。

それら予想と明確な位置を確認するため、改めて一階の天井裏を調査する必要があった。


家主に訊くと、


「奥の押し入れから上がれますので、お願いしますね」


と言われた。



調査とはいっても、私がやることは屋根のどの位置にどの程度痕跡が見られるのか状況を確かめるだけで、あとは職人に依頼して見積もりをお願いして、作業までやってもらう。

雨が降る前に間に合うだろうか、などと仕事のことを考えていたせいで、一階の部屋があの饐えた臭いで充満していることを忘れていた。


半ば慌てて手提げから防塵マスクを取り出して何事もなく身に着けてみせたが、内心背後に立つ家主への失礼になっていないか気にしていた。

それで多少は良くなったかというと、臭いが鼻の奥にこびりついたのか、ずっと不快なその刺激を感じ続けていた。


「どうせ使っていないから、そのまま上がってくださいね」


声を背に襖を開けると、布団が半分くらいの高さのところまで重なっていた。見た目ですぐに、手入れをされた布団でないことがわかった。

私は勝手にそこへ足を乗せることに遠慮はいらないと判断した。


天井裏とを阻む板を押し上げて暗闇の中へ頭を突っ込むと、そこは正しくサウナのそれと同等の蒸し暑さで満ちている。慣れた暑さだ。

しかし、そこに暑さとは別に満ちているものがあった。

たとえ防塵マスクをしていても、鼻が詰まっていても、それでも臭い。


圧倒的な濃度でもって私の体に無理矢理に入り込もうとするそれを、私の体はついにえづいて対抗しようとした。

喉の奥にぴりぴりとした痛みを感じたが、そこでもマナーがそれ以上の粗相を堪えさせた。


とはいえ、長居すれば理性が吹っ飛ぶ。

急いでライトを取り出し、おそらくの位置に光を当てると、ちょうど下から見上げていたその辺りが真っ黒く染まっていた。

そしてそのそばに二匹、ネズミの死骸が転がっているのを見つけた。


古い家の天井裏や床下にそういったものを見つけることは珍しくはない。

ただ、私がそこで見た死骸は、そのどちらにも半開きになった口元に嘔吐の跡、それから尻尾の付け根あたりでヘドロのような糞が乾いていた。

寿命で死んだわけではない、と咄嗟に理解した。

その異様な臭いからも、まさかガスではないかと想像してサアと血の気が引くのを感じ、慌てて天井裏から頭を引っ込めた。


息を止めたまま、そのまま滑り落ちるように押し入れから降りると、ふいに熱が戻ってきて、鼻が効かなくなったせいで、はあ、はあ、と口から漏れる荒い息がよく聴こえた。

頭皮を冷静な温度が伝っているのを感じた。


何のガスが溜まっていたというのか、さっきからずっと感じている匂いは、いわゆる化学物質のそれじゃないことはわかっているはずだ。

私は、私が何に神経質になっているのかわかっていなかった。


目元の汗を湿った腕で拭い、ふと顔を上げると、


「どうでしたか?」


と家主に声をかけられた。

どうだったか、思い出すのは二匹のネズミの無惨な死に様と、嘔吐物から突き出た虫の足だけだった。

かといって、もう天井裏には戻りたくなかった私が、


「ちょうど――」


真上の辺りに痕跡があった、と当てずっぽうを口にしようとした時だった。


――った


小さな音が畳を叩くのを聴いた。

前髪の先で粒になった汗がまつ毛をかすめて襟元に落ちた。


――た……つた、つた、た、た


はあ、はあ、と強調された暑い呼吸が耳の奥に響いていた。

あの染み。

だが、目にその滴は映らない。天井から畳へと流す視線が、一定の間隔で鳴る音を作り出しているかのようだった。

ただ小さな音だけが畳を叩いている。その度に、饐えた飛沫が飛び散っていた。


「ねえ。だって、ここ最近雨が降っていませんものねえ」


私は、会釈のフリをして顔を伏せたまま家主の脇を通り過ぎ、家を出た。



ジリジリと肌を焼く日差し、立ち上る熱気。

肌に張り付いた衣服を引き剥がし、無意識に襟元の匂いを嗅いでいた。

私は、はたと足を止め、しかし振り返るのをやめた。

汗は乾いていた。

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