静寂の森と、忍び寄る気配
高評価お待ちしてます。がんばります。
小川の水音が心地よい。
俺はいつものようにルーシェの森へ足を運んでいた。
街から森までの道のりは、歩いて十五分ほど。
このルートももうすっかり慣れたもので、途中に自生する《ワイルドハーブ》や《月光キノコ》の群生地も頭に入っている。
「今日は川沿いの方に行くか。釣り餌も多めに買ってあるしな」
森の入り口を過ぎると、辺りはひんやりとした空気に包まれた。
太陽の光は木々の葉に遮られ、地面には揺れる木漏れ日が散っている。
時折吹く風にざわっと枝葉が鳴り、その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、仕事の疲れがじわりと溶けていく。
現実では味わえなかった感覚だ。
パソコンの前で凝り固まった肩や腰が、この森を歩いていると柔らかくほどけていく気がする。
フェアリードラゴンも肩の上で心地よさそうに尻尾を揺らしている。
「なぁ、いい匂いだろ?」
「キュー♪」
小さな竜は鼻先をぴくぴくさせ、嬉しそうに俺の頬に頭をすり寄せた。
***
川辺に着くと、俺は釣竿を取り出して腰を下ろした。
ゲームなのにリアル同様の重さと質感が再現されていて、これを指で弾く感触が妙に楽しい。
餌を付け、水面へそっと投げ込む。
小さな波紋が広がり、浮きがふわりと落ち着いた。
「……はぁ……」
思わず息を吐く。
この時間がたまらない。
現実では、上司に呼ばれたら資料の進捗を説明し、部下には細かくスケジュールを調整し、終わったと思ったら別の会議……。
息つく暇もなかった。
だがここでは、浮きが揺れるのをぼんやり眺めているだけでいい。
「キュ?」
「お前もやってみるか?」
冗談で竿をフェアリードラゴンの鼻先に向けると、小竜は首を傾げて軽く咥えようとした。
「あ、ダメだってば。餌飲むなよ」
「キュ?」
とぼけた顔をして見上げてくるフェアリードラゴンに、つい笑ってしまう。
***
そうしてしばらく釣りを楽しみ、数匹の川魚を釣り上げた頃。
俺はバッグを開き、釣果を確認する。
「《スイレンフィッシュ》3匹、《青斑ハゼ》が2匹か。今日はなかなかだな」
これらは料理スキルがあれば焼き魚や煮込みにできる。
残念ながら俺はまだ料理スキルを持っていないので、酒場へ持ち込んで調理を頼む予定だった。
そのとき――
ふと、森の奥から風が抜ける音がした。
ただの風にしては、どこか生温い。
木々の葉がわずかに震え、先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずりが途絶えた。
「……?」
俺は釣竿を置いて立ち上がり、周囲を見渡す。
森は相変わらず静かだ。
だが、どこか違和感がある。
フェアリードラゴンも肩の上でピクリと動きを止め、目を細めて森の奥を凝視している。
「どうした?」
俺が尋ねると、小竜はわずかに唸り声を上げて、翼を小さく広げた。
明らかに、何かを警戒している。
(まさか、また中型モンスターでも近くにいるのか……?)
思わずログを確認する。
だが周囲にモンスターの反応は出ていない。
このゲームには、ある程度距離内にモンスターがいると警告マークが出る機能がある。
それが出ていないのに、この緊張感。
フェアリードラゴンは小さな鼻先をくんくん動かし、次いで俺の耳元で短く鳴いた。
「キュッ」
「……わかった。少し場所を変えよう」
俺はそっと釣竿を畳み、バッグを背負い直した。
森の小道を川に沿って戻る途中も、フェアリードラゴンは時折振り返るようにして、森の奥を気にしていた。
葉のざわめきが先ほどより大きい。
森そのものが、何かをひそひそ話しているような錯覚さえ覚えた。
***
しばらく歩き、以前に茸を採った辺りまで来ると、ようやくフェアリードラゴンは肩の上で落ち着きを取り戻した。
「……お疲れ。怖かったか?」
「キュー」
撫でてやると、竜は気持ちよさそうに目を細める。
「でも、なんだったんだろうな。プレイヤーがボス狩りしてたのか、それとも……」
嫌な予感が、胸の奥で小さく疼いた。
(まだこの森の奥には、俺が知らない強い奴がいるのかもな)
もっとレベルが上がって、フェアリードラゴンがもう少し大きくなったら。
そのときは、二人で一緒に森の最深部に行ってみよう。
「それまではのんびり過ごそうな」
「キュー!」
小竜は元気よく尻尾を立てて答えた。
俺とフェアリードラゴンは、その後も森を散策していた。
さっきの川辺は少し気味が悪かったが、少し離れた場所は相変わらず穏やかだった。
辺りには《ルミナスフラワー》が群生しており、淡く光る花弁がそよ風に揺れる様は幻想的で、思わず見入ってしまう。
「この景色、いいな……。リアルじゃ絶対見られない」
フェアリードラゴンも小さく翼を広げて、地面に降りると花の匂いを嗅ぎ始めた。
時折花弁に鼻先を突っ込んでくしゃみをする様子が可愛くて、つい笑ってしまう。
俺は森の大きな木の根元に腰を下ろし、地面に敷いた草の上で一息ついた。
いつの間にかログインから四時間が経っていた。
体の感覚が軽く、本当に森で過ごしたように心が安らいでいる。
「そろそろ、街に戻るか……」
そう呟き、バッグから干し肉を取り出してフェアリードラゴンに差し出した。
「ほら、食うか?」
「キュ!」
小竜は嬉しそうにぱくっと食いつき、尻尾をぶんぶん振る。
小さな歯で一生懸命噛む様子がたまらなく癒される。
だが――。
その幸福な時間を、唐突に破る音が森の奥から聞こえた。
ミシ……ミシ……
枝を踏みしめる鈍い音。
それだけではない。
太い幹が擦れ合うような、ごりっとした音がゆっくりと近づいてくる。
「……!」
フェアリードラゴンが干し肉を飲み込むのも忘れたように、首を上げて森の奥を睨んだ。
背中の小さな棘が逆立ち、尻尾が硬直している。
「おい……何だ?」
俺は咄嗟に立ち上がり、周囲を見回した。
相変わらずログには何も表示されない。
だが、このゲームは近距離に入らないと警告が出ない場合もある。
特に大型モンスターには、視界に捉えて初めてログが更新される仕様があると聞いていた。
ごうっ、と湿った風が吹いた。
森全体が一瞬ひんやりと沈黙する。
そして。
ガサ……ガサ……。
草むらが、道の向こうで大きく揺れた。
俺は心臓がどくんと跳ねるのを感じた。
木々の間から、見覚えのない巨大な影が一瞬だけ覗いた。
(で、でかい……熊……?)
咄嗟に脳裏に浮かんだのは、街の掲示板で見たスクリーンショット。
この森には低確率で《グリードベア》というボスモンスターが現れる。
通常は森の少し奥、プレイヤーが数人で組んで狩りに行く場所にだけ出ると聞いていたが――。
「……嘘だろ、こんなところで?」
フェアリードラゴンが低く唸った。
肩に戻ってきて、俺の首筋に沿って小さな爪をぎゅっと立てる。
これまで見たことのない警戒音だった。
「お、おい、待て。戦わなくていいから……。ここは逃げ――」
その時。
森の奥で、がしん、と大木が揺れるような音が響いた。
そして。
グォォォォォォォッ!!
腹の底を震わせるような唸り声が、森の空気を割った。
「……っ!」
全身の毛穴が一斉に開いた気がした。
呼吸が浅くなり、手のひらに嫌な汗が滲む。
フェアリードラゴンは翼を広げて俺の前に降り立ち、小さく唸りながら森の奥を凝視する。
(あれが……ボスか? まだ完全には見えてないけど……)
辺りの鳥の声は完全に途絶え、木々は小さく震えていた。
森そのものが、恐怖して息を潜めているような錯覚すら覚える。
浮かれた気持ちは完全に吹き飛び、俺は乾いた唇を噛んだ。
「……行くしか、ないのか?」
逃げるなら今だ。
でも、森の道を背にして走ると、あの巨体に視認されて追われる可能性が高い。
フェアリードラゴンが護衛しようとして飛び出したら、それこそ戦闘は避けられない。
「……もう少しだけ、ここで……」
小さく呟くと、フェアリードラゴンは頷くようにちらりとこちらを見た。
その瞳は、少しも怯えていなかった。
(……頼りになるな、お前)
俺は再び息を整え、森の奥をじっと見つめた。
そこには、今にも姿を現しそうな、得体の知れない気配が蠢いていた。