リナとクロス
森は昼を越えてもなお、涼しい影を地面に落とし続けていた。
薄暗い小道の奥、空気はわずかに湿り気を帯び、葉擦れの音が耳を撫でていく。
リナはそこで一人、弓を手にして立っていた。
その瞳は静かに、だが底の見えない深さで一点を見据えていた。
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(蓮に……あの竜に、私は負けた)
狩猟祭の日の記憶は、鮮明すぎて時々嫌になるほどだ。
数だけなら、あの時もそれなりに追い上げていた。
でも最後の最後、蓮の竜――リィが一気に討伐を加速させる様子を見たとき、
自分の心臓は正直に恐怖で跳ね上がっていた。
その跳ねで、呼吸が乱れた。
わずかに矢の放物線が逸れ、数匹の獲物を取り逃がした。
それが、決定的だった。
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「……そんなもの」
リナは静かに息を吐いた。
薄い唇を閉じ、呼吸を整える。
(もう同じ轍は踏まない)
足をゆっくりと開き、腰を落とす。
呼吸を止めた。心臓の音がやけに大きく響く。
弓を引いた瞬間、視界がわずかに狭まる。
次の瞬間――
矢は空を裂き、五十メートルほど先に結わえた革製の標的を正確に貫いた。
そのわずかな振動が矢を伝い、手に戻ってくる。
リナは手を開いてそれを受け止めるようにして、ゆっくりと指を閉じた。
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「……次」
小さく呟く。
すぐさま次の矢をつがえ、構える。
同じ動作をもう何百回繰り返したか分からない。
だがまだ足りない。まだ自分の呼吸は乱れ、視界は揺れる。
――蓮の肩にいた竜の、小さな頭がふいに脳裏に浮かんだ。
(あの竜は……どうしてあんなに自然に戦えるの)
その問いは矢になった。
再び放たれた矢は、今度は木陰の奥、小さな岩に突き立つ革袋を正確に割った。
袋の中の水がわずかに飛び散り、日差しを受けて一瞬光る。
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リナは少しだけ肩を揺らした。
震えているのは呼吸だけじゃない。
(怖い)
また同じことになるんじゃないか。
蓮に、あの竜に、周囲の誰もが息を呑むあのコンビに、
自分は再び置いていかれるんじゃないか。
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「……」
小さく瞳を閉じた。
そのまま、弓を下ろす。
息を止めて、そして吐いた。
頭の中に浮かんだ蓮の顔を、わずかに自分の中で撫でるように消し去った。
(でもそれでも……私は……)
目を開くと、視界は先ほどより少しだけ澄んで見えた。
リナは再び矢を取り、弓を引いた。
細く白い指先はわずかに血をにじませている。
でも、その血が今は少しだけ誇らしかった。
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「……必ず、勝つ」
森の奥で誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
矢を放つ。
その音はまるで鼓動のようで、次の瞬間には標的が小さく破裂していた。
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その様子を、離れた場所から複数のプレイヤーが見つめていた。
「……やっべぇ……あれリナだろ?」
「あの矢……狩猟祭のときより速くね?」
「いやあれはもう手出せねぇよ。PKするにしてもリナだけは最後にしようぜ……」
「お前最初から狙う気なのが怖ぇよ……」
見物人の声は、森の深い木々に吸い込まれていった。
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リナは何も気にしていないように、ただ黙々と矢を撃ち続けていた。
その目は月の光よりもずっと冷たく、でも同時に熱を帯びていた。
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街の中心からやや外れた石造りの建物は、昼を過ぎてもなお薄暗いままだった。
厚い石壁に閉ざされた内部は、外の喧騒とは違う温度を持っている。
湿った空気と、たまに揺れるランプの炎だけがそこに確かに存在を主張していた。
ここは、ブラッククロウのギルド本部。
長い長いテーブルの上には、運営から届いたホログラムの立体マップが広がっていた。
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その中央で脚を組んでいるのはクロス。
漆黒の短髪を無造作に撫で、口元に笑みを浮かべながら、視線をホログラムの上で泳がせていた。
「……面白いな」
低く呟くと、周囲に並ぶギルドの幹部たちが緊張に小さく身じろいだ。
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マップには、明日からPK解禁になるイベントフィールドの地形が詳細に映っている。
森、谷、湖畔、丘――
その中に散りばめられるように幻獣モンスターのシルエットが赤く点滅していた。
「これを見ろよ。ここも……ここも……全部幻獣狩りの高効率ポイントだ」
クロスは無造作に指を滑らせる。
その軌道に沿って赤い光が何本も繋がっていく。
「そして――ここを俺たちが先に押さえたら、
他の連中はどうすると思う?」
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沈黙が落ちた。
誰もが分かっている。
幻獣素材は、ただの装備更新なんてレベルじゃない。
武器の芯に竜骨を通す。
防具の基幹に幻獣羽を仕込む。
それを魔精石で研磨したら……
普通のプレイヤーじゃ一撃で沈む武具になる。
街に戻れば、他ギルドに先んじて攻城戦でも主導権を握れる。
商圏も税率も、全部自分たちのものになる。
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「……だから俺たちが先に潰す。
素材を拾う前にPKで追い返す。何回もだ。」
クロスの声はひどく静かだった。
けれどその静けさが、逆に背筋をぞくりとさせる。
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「……PKで揉めるのは想定済みです。
でも……PKばっかりやってたら逆に俺らの討伐数も落ちるんじゃ……?」
幹部の一人が小さく問いかける。
クロスは一瞬その男を見た。
笑った。
「討伐ペースは落ちねぇよ」
「え……?」
「お前らの手を止めるのは敵が強いからじゃない。
“狩場を守る必要がある”からだ。
でも俺たちは逆だ――潰したらすぐ移動する。
狩場は無限に替えがきくが、PKされた奴の心は替えがきかねぇ。」
その理屈に、周囲の幹部たちは何人かが喉を鳴らした。
「PKされた連中は大体心が折れる。もう一度同じ狩場に来るやつなんて、
そう多くはねぇ。次第に俺たちの周りは無人になる。
……そしたらお前ら、好きなだけ幻獣を刈れるって寸法だ。」
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幹部たちの中に、少しずつ息を詰めた音が広がっていった。
その中で、一人の若い団員が小さく拳を握りしめる。
「俺……絶対今回で装備揃えます。
借金も、全部これで返したいんスよ……」
「ふっ」
クロスはその顔をちらと見た。
「いい心意気だ」
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また別の男が、テーブルの上のマップに手を置く。
「俺……このイベント終わったらプロポーズするつもりです。
でもこんなボロ装備じゃ胸張れねぇ。
だから……何でもします。どんな汚い手でも。」
「ははっ」
クロスは楽しそうに笑った。
「その調子だよ。俺はそれを後押しするだけだ。」
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さらに別の幹部が、声を落として言った。
「……でも、リナと蓮。
あいつらだけはちょっと別格じゃないですか?」
「怖気づいたか?」
「いや……むしろ潰したいです。
あいつらみたいなのが上にい続けると、
いつまで経っても俺らは同じ場所だ。
幻獣素材で追いつきてぇんスよ!」
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クロスは口元を歪める。
その歪みは、冷たい笑みだった。
「なら簡単だろ。PKはお前らのためだ。
リナだろうが蓮だろうが、全部ぶっ潰せ。
そしたら次の戦争で俺たちのギルドは笑ってる。」
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その言葉に、部屋の温度が一気に上がった。
ランプの火がわずかに揺れ、その影が壁に奇妙な模様を描く。
「やるぞ!!」
「潰してやる!!」
「俺らの装備は次の次元に行くんだ!!」
黒い声がいくつも重なった。
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クロスは全員の目をゆっくり見渡した。
そこに映るのは、恐怖ではなかった。
飢えた野獣のような渇き。
自分が前に出ることで何かを変えたいという欲望。
その視線を、クロスはゆっくりと飲み込んだ。
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「いい顔だ。
……次に街に戻る時は、お前ら、英雄になってろよ?」
静かな声に、幹部たちは同時に拳を突き上げた。
「「オオオオオ!!!」」
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やがて人が散り、部屋にクロスだけが残った。
テーブルの上のホログラムはまだ淡く光り、
イベントフィールドの赤い光点を静かに瞬かせていた。
クロスはその一点を見つめ、細く笑った。
「……絶対に潰す。
リナも、蓮も――全部俺の踏み台だ。」