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櫻麻トキ  作者: 葉暮銀


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唐突なお願い

 東雲家秘伝の月の涙をぬるま湯で三倍に希釈する。まずは肌に月の涙を慣れさせる必要があるそうだ。


 用意ができたところでアイシスが湯船から出て、浴槽の(へり)に腰をかける。湯浴み着が濡れて身体にピッタリとくっついている。身体の曲線が(あら)わになって俺の欲情を刺激した。


 落ち着け、まずは治療を優先しろ。


 アイシスは背中にかかっている濡れた金髪を頭の上に纏めた。

 傷だらけの背中が否応なく目に入る。

 俺はギリギリと音がするくらい無意識に拳を握っていた。


「ねぇ、本当にやるの? 別に死ぬわけではないから考え直さない?」


「治療はするよ。ここまで皮膚が引き攣っていたら痛みを感じているはずだ。その痛みは間違いなくアイシスの心を(むしば)んでいく」


 それに想像だけど、この痛みは呪縛になっている筈だ。この傷は確実に負けの記憶。ソレイユ帝国第一皇子レオ・ソレイユに勝つ為にはそんな記憶は致命傷になる可能性が高い。


「私、雪月さんに聞いたんだ。この月の涙の価値を……。私そんな事をされてもトキに何も返せないよ……」


 雪月さんも不必要な事を話してくれたよ。まぁヤバいくらいの高額の薬のだもんな。


「雪月さんが大袈裟に言っているだけだから気にしないで。それに別にアイシスから見返りを求めてもいないよ。これは俺が俺の為にやる事なんだ。ただその結果、アイシスの傷が治るって事。わかった?」


 俯いてしまったアイシス。

 俺は気にせずアイシスの背中に月の涙を塗り始める。


 ボコボコした感触に眉を(ひそ)めてしまう。まだ見ぬソレイユ帝国第一皇子レオ・ソレイユに憎悪の炎が燃え上がる。


 俺が月の涙を塗っていると、たまにピクっと動くアイシス。気がつくと首元まで紅く染まっている。


()みたりしている? それとも痛い?」


「だ、大丈夫……。なんか血流が良くなっているみたい。それにトキに触れられるのが恥ずかしいけど、気持ち良いの……」


 アイシスの返事に俺は頭の中で数を数え始めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 気持ち良いなぁ。


 俺はアイシスに背中を向けて湯船に浸かっていた。アイシスは浴槽の(へり)に座って月光浴をしながら俺の肩を揉んでくれている。


 生きながらにして極楽にこれるとは……。


 俺の肩を揉んでいたアイシスが俺の首に腕を回してきた。

 アイシスの吐息が耳に当たる。


「私、頑張って不知夜国まで来て本当に良かった。こんな気持ちを持てたのも、全てトキのおかげよ。ありがとう……。本当にありがとう」


 最後は涙声に代わっていた。


「私、これで思い残す事が無いわ……」


 今までずっと緊張の糸が張り詰めていたのだろうな……。剣魔の儀を勝ち抜いて皇太子になると言っていたが、自分自身を奮い立たせる為に言い聞かせていたのだろう。現実的になればなるほど、無謀な事だと思えるに違いない。

 剣魔の儀の参加を止めて、このまま二人で異国の地に行く選択肢も確かにあるだろう。

 妾の子。俺とアイシスの共通点だ。親の歪んだ環境は子供の環境も歪ませる。

 生まれながらにして歪んだ子供になる未来が決まってしまう。

 結局は俺もアイシスも血縁と家に歪まされたんだよな。


「アイシス、俺はアイシスの希望を全て叶えてやる。逃げたいならそれを助ける。踏み留まって剣魔の儀に出るなら勝ち抜いてやる。どうする? 時間はたっぷりある。ゆっくり考えてくれ」


 不知夜男児の矜持に反するが知ったことか。


 俺の首に回していたアイシスの腕に力が入る。


「ごめんね。ちょっとだけ弱気になっちゃった。あまりにも幸せ過ぎてね。考える時間なんて一秒もいらないわ。剣魔の儀に出るに決まっているでしょ」


 アイシスの手が俺の顎に添えられる。手に軽く力が入り俺の顔がアイシスの顔の前に誘導された。

 引き寄せられるように唇を合わした。しかしアイシスは直ぐに唇を離し俺を見つめる。


「私の希望は全て叶えてくれるって本当?」


「全身全霊を持って叶えてやるよ。俺は嘘は嫌いだからな」


 俺の言葉に妖艶に微笑むアイシス。


「それならトキには世界征服して欲しい。伝説のソレイユ帝国初代皇帝の剣魔帝でもできなかったんだから、物凄い偉業よね」


 世界征服ねぇ……。これまた普通に考えれば荒唐無稽なお願いだ。確かに歴史上世界征服を達成できた人はいない。武力も大切だが、どのような統治機構を選ぶかが重要だな。多くの有能な人材も必要だ。有能な人材を登用できる制度も必要だ。いや産業も必要になるよな。


「ねぇ、返事は?」


 アイシスは弱気になった自分に叱咤したのか。気持ち的に剣魔の儀ですら、あくまで通過点にするつもりだ。遠くの目標を設定する事でより自分を高めるつもりか。

 アイシス自身、世界征服なんて言ったが全く無理と思っているんだろうな……。

 面白いじゃないか。世界をアイシスへの贈り物にしてやるよ。


「世界征服? そんなもんで良いのか? 楽勝だよ。アイシスは皇后になる準備と国の名前を考えとけ。俺はアイシスがいれば無敗無敵さ」


 俺は満足そうな顔をするアイシスと再び唇を交わした。

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