罅割れている心
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春の朝日を瞼越しに感じる。どうやら昨晩はカーテンを閉め忘れて寝てしまったようだ。
半覚醒した頭で目を開けてみると、陽光が部屋いっぱいに満ちている。まだ肌寒い早春の空気。その張り詰めた空気を陽光が少しずつ溶かしていく。
春の日差しは残酷だ。壊れた心の罅に暖かな何かを無遠慮に埋めてくる。
悪いけどそんな事は望んでいない。俺はベッドから立ち上がりカーテンを荒々しく閉める。霧散しそうな眠気をかき集め、俺は再び枕に顔を埋めた。
二度寝を望む者にとって覚醒しようとする脳味噌は聞き分けの無い三歳児を相手にするようなものだ。この腕白な三歳児を宥めすかす事に成功しそうな気配を感じた時に、静寂を打ち破る呼び鈴の音が鳴り響いた。
勝利寸前の予期せぬ妨害。ぼんやりとしていた意識が鮮明になっていく。それでも俺は負けずに眠気をかき集める。しかし再び呼び鈴が激しく鳴った。意地になりしばし抵抗を続けたが、遂には呼び鈴が切れ間なく鳴らされる。どうやら不躾な訪問者は諦めるつもりはないらしい。
俺は意味のない敗北感を抱きながらベッドから抜け出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「朝早く悪いわね。緊急の要件よ。この子をちょっとだけ預かって欲しいの」
俺が玄関のドアを開けるなり、早朝の招かざる客である深更未雪は開口一番理解し難い言葉を発した。実に一年ぶりにあった幼馴染みである。
この子と言われた女の子(?)はボロボロの汚れきった服にボサボサの髮、顔も薄汚れている。ただの浮浪者にしか見えない。饐えた臭いが鼻腔を刺激する。
完全に動き出していない脳味噌が言葉の意味を把握する前に未雪から矢継ぎ早に情報を与えられる。
「この子はアイシス・ソレイユ。私の従姉妹よ。それより、ここのお風呂を借りるわね」
俺が口を開くより先にアイシスの手を取って勝手に屋敷に入っていく未雪。
俺の横を通り過ぎる時、一瞬だがアイシスと目が合う。その眼に俺は驚愕し、身体が硬直した。俺はこの眼は知っている……。
思い出したくない記憶。一年前に見た鏡に映った俺の眼と同類。絶望の淵にいる者の闇い眼だ。
すでに未雪とアイシスの姿は見えない。浴室に行ったのだろう。
しばらくして外気の冷たい空気が俺の身体を包む。未雪が玄関の扉を明けっぱなしにしていた。
冷たい空気が俺の心に罅が入っている事を思い返させてくれる。この一年何度となく味わった感情。
玄関脇の鏡には微笑を浮かべている自分が映っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
未雪はアイシスを浴室まで案内してすぐに戻ってきた。今は客間で俺が淹れたお茶を当たり前の顔で啜っている。
未雪はこの不知夜国の六大家の一つである深更家の娘だ。
「それよりどういう事か教えてくれるかな? こんな早朝にいきなり訪ねてくるなんて失礼過ぎないか? それに昨日まで母上の喪中だっんだ。今日は喪が明けたとはいえ、少し無遠慮が過ぎる。おまけに知らない人に屋敷のお風呂を使われるなんて意味がわからないよ」
「それは謝るわ。だけどアイシスの身体がとても冷えきっていたの。ウチはもう湯を落としていたからお湯を張るのに時間がかかるでしょ。櫻麻邸なら温泉が湧いているからいつでも入浴できるから」
謝っている言葉なのに、全く謝っている雰囲気を感じさせない幼馴染み。これはある意味才能ではないだろうか?
反射的に返答をすると損しかしない事は17年の人生で骨の髄まで理解している。苛ついた気持ちを落ち着かせるために目の前の稀有な才能の持ち主の観察を始めた。
見つめていると吸い込まれそうな黒い瞳。その瞳からは以前と変わらない純粋な力を感じた。他人の悪意に晒されたことの無い瞳……。
綺麗な鼻筋にバランスの取れた厚さの唇。唇の色が桜色なのは色白で健康だからだろう。
服の上からもわかる膨らんだ胸に視線がいきそうになるのを必死に堪える。明らかに成長していた。
一年ぶりに会った女の子が女性に変わりかけている事に軽い衝撃を受ける。隔世の感という言葉が頭に浮かんだ。
気持ちを落ち着かせるはずが、動揺してどうする。
頭を冷やせ。未雪には未雪の都合、俺には俺の都合があったのは理解した。自分の都合を引っ込めて相手の都合をどれだけ許容できるのか。それが人の器なんだろうな。まぁその人との関係性にもよるが……。
平静を装いながら目線が落ちないように気をつけながら未雪に返答する。
「それよりあのアイシスって子は……」
「もう気付いていると思うけど、アイシスはソレイユ帝国の皇女ね。現ソレイユ皇帝と私の叔母の娘になるわ」
やっぱりそうか。ソレイユなんて名乗れるのはソレイユ皇帝の直系の血筋だけだもんな……。
どう考えても厄介ごとの匂いしかしないな。