最終幕
『婚約破棄で貴方にお別れを』
舞台は卒業パーティー。
伯爵令息が美しい準男爵令嬢を腕に抱え、婚約者の伯爵令嬢へ高らかに婚約破棄を宣言するシーンから始まる。
『ベロニカ・クレメント嬢! 今、お前をこの場で婚約破棄する!』
ベロニカは口の端に笑みを浮かべながら、冷静に言う。
『……何故でしょうか? 理由を教えていただけますか?』
『はっ! 理由などわざわざ訊かなくても、分かっているだろう。このマルティナ嬢に対する数々の嫌がらせ。私が知らないとでも思ったか!』
『……嫌がらせとは?』
『彼女を下級貴族と罵り、日頃から下女のように扱っていた。夜会前には美しい彼女の髪をわざと切り、ドレスに細工をして皆の前で辱しめ……とうとう先日は、熱した鏝を彼女の顔に近付け脅したそうだな? お前の顔も醜くしてやると』
『それは全て、マルティナ嬢からお聞きになったのですか?』
『……彼女はお前の仕業だとは一切言わずに、笑顔で耐え続けていた。私が異変に気付き、勝手に調査していたのだ。証拠なら此処に』
ベロニカの前に、分厚い調査書が放り投げられる。
『あら……こんなものがあったら、私はもう言い逃れは出来ませんね』
不気味に笑うベロニカを令息は睨みつける。
『お前には……責任もあったし、同情もしていた。見た目など、美しさなど関係ない。夫婦の情を交わし家庭を築くことは出来るはずだと。だが……顔が醜いだけでなく、心も醜いお前には、愛どころか情すらも抱くことなど無理だろう』
『……酷いお言葉。子供の頃、私の顔に誤ってティーポットの熱湯をかけたのは貴方ですのに』
ベロニカが顔の半分を覆っていたベールを外すと、そこに醜い火傷痕が現れる。久々に見るその顔に、令息はたじろぎ言葉を失った。そこにベロニカは畳み掛ける。
『“美しさなど関係ない”? ……嘘つき。学園一……いいえ、社交界一美しいマルティナ嬢を選ばれた貴方様がどの口で? 婚約者に隠れて情を交わし、夜会にはご自分で選ばれたドレスまで贈る。嫌がらせの一つや二つ、してみたくなったって当然でしょう?』
『……私はマルティナの美しい容姿を愛したのではなく、内面を愛したのだ。お前にはない、美しい心根をな』
『では……私が彼女の顔に本当に焼き鏝を当てていたとしても、貴方は彼女を愛し続けたのですね?』
『当たり前だろう。彼女程に美しい女性とは一生巡り逢えない。私の愛も情のひとかけらさえも……マルティナ嬢、全て君のものだ』
令息は熱のこもった目でマルティナ嬢を見つめる。
『そう……それを聞いて安心しましたわ』
ベロニカはおもむろに調査書を拾い上げると、パラパラと捲る。
『……これだけ酷いことをしてしまったのですもの。婚約破棄の慰謝料と、マルティナ嬢への慰謝料を相殺しましょう。あ……貴方が私に負わせた火傷の慰謝料もね』
そして最高に醜い笑顔を浮かべ、別れの言葉を言い放つ。
『どうぞお幸せに』
背筋を伸ばし、一人会場を出たベロニカは馬車の中でついに崩れ落ちた。その背を撫でる優しい侍女の手に、彼女は本音を吐露する。
『私……全部持っていけたかしら。あの人の責任も、罪悪感も……何もかも、一つ残さず』
『ええ……お見事でございましたよ。お嬢様』
ボロボロと涙を流す侍女の隣で、上手く泣くことも出来ないベロニカ嬢。
『どうか……幸せになって』
その震える手には、哀れな調査書が握り締められている。
愛する婚約者を解放する為、最後まで悪女を演じきったベロニカ嬢。
救いのない、切ない物語が幕を閉じた。
◇
客席に誰も居なくなっても、私達はまだ座り続けていた。恐る恐るジェレミーを見れば、口を堅く結び、暗い幕を見続けている。
……彼は今、何を考えているのだろう。
不安になり、私はわざと軽い調子で切り出した。
「婚約破棄は、破棄された令嬢のハッピーエンドがお約束なんだけど……テンプレートを取り入れながらも、あえて切ない悲恋物語にしてみたの。演劇部の友人も、新鮮でいいかもしれないって。でも……拍手は少なかったわね。みんなやっぱり、ハッピーエンドが好きなのかしら」
ジェレミーはやっと顔をこちらへ向けると、私とは反対に、丁寧に言葉を置いていく。
「……そんなことないよ。 余韻の残るいい話だった。それに……この話は悲恋ではなく、本当はハッピーエンドだろう? 婚約者を責任と罪悪感から解放することで、自分も罪悪感から解放される。それがヒロインの幸せだったのだから。……新しい誰かと結ばれるラストばかりが、ハッピーエンドとは限らない」
彼は……私の描きたかったことを、伝えたかったことを全て真っ直ぐに受け取ってくれていた。そして……
「このヒロインは、リノン……君だろう? 僕を責任と罪悪感から解放したいと。そう伝えたくて描いたのだろう?」
黒瑪瑙のように美しい三白眼に見つめられ、私は息を呑む。
「ええ……そうよ。きっと口では上手く言えないから……私の一番得意な方法で伝えたかったの」
「……僕が君と結婚するのは、責任と罪悪感だけだと? そう思っているのか?」
「この間貴方が言ったように……情は抱いてくれていると思うわ。だけど、それじゃ幸せになれない。だって貴方には……想い人がいるでしょう?」
「想い……人?」
ジェレミーはきょとんと首を傾げる。
もしかして……自分の気持ちに気付いていないの?
「胸に訊いてみれば分かるわ。自分が誰を愛しているのか」
彼は胸に手を当てるも、更に大きく首を傾げ、ぽつりと呟いた。
「……リノンしか居ないけど」
…………え?
「僕の中には、子供の頃からずっとリノンしかいないよ」
予想だにしなかった答えに、私は慌てる。
「ダメよ……ダメよ、ジェレミー。それはただの情なの。傍にいると胸が熱くなったり……ときめく人が他にいるでしょう? それが愛なの。それが貴方の想い人なのよ」
「だから……それが君だってば」
ジェレミーはムッと口を尖らせる。そして、頬を信じられない程に赤く染めながら続けた。
「情か愛かときめきかは分からないけど、この胸にはいつもリノンしかいない。僕の感情は……なんだっけ。ああ、僕の感情のひとかけらさえも、リノン、全部君のものだ」
お芝居と同じ台詞で私の手を握る彼に、思考が追い付かない。
「……シモーヌ嬢は?」
「え?」
「私と一緒にいる時よりも、ずっと幸せそうな顔で笑っているのに。シモーヌ嬢の話をすると気まずそうに目を逸らすし。特別な感情があるからじゃないの?」
言ってしまった……また目が熱くなり、私は下を向く。
「……うん。確かに特別な感情……というか事情があった。君には知られたくなかったから、気まずい態度になったのかも」
……やっぱり。
鼻がツンとして、重力に逆らいきれなくなった涙が零れてしまう。スカートを握り締め、ぐすんと情けなく啜るしかない。眼鏡だし……鼻水も垂れちゃいそうだし……きっととんでもなくブスね。
「はい」
彼は私の手を取ると、一冊の本を置いた。
「本当は明日、君の屋敷で渡したかったんだけど」
「……なあに?」
「開いてみて」
パラリと捲ったそこには、私が書いた童話が印刷されていた。子供の頃から、ずっとコツコツ書き留めていた、大切な物語達。
「君の童話集。子爵夫人に頼んで、こっそり持ち出してもらって印刷したんだ。シモーヌ嬢の家は昔から製本事業を営んでいるからね。色々と相談して協力してもらっていたんだ。これを渡した時の君の反応を想像したら、楽しみで仕方なくて」
そう……なの? それで……
ぐちゃぐちゃの顔でぽかんと見上げる私を、彼は楽しそうに促す。
「さあ、ほら、もっと先を開いて」
呪いでお城に閉じ込められてしまった王子様を、勇敢なお姫様が救うお気に入りのお話。パラパラ捲れば、クライマックスのシーンが現れ……その隣のページ一面に、影絵みたいなお城の切り絵があった。
「これ……」
「僕が作った挿し絵。不器用だから、あんまりよく見ないで」
そう笑いながら、ジェレミーは傷だらけの手をひらひらと動かした。
これを作る為に……あんな手に……
ページを捲る度に、沢山の手作りの挿し絵が現れる。よく見れば、ところどころ糊がはみ出したまま乾いていたり、切り目がガタガタだったり……
だけど、こんなに美しくて温かい絵を、私は今までに見たことがなかった。
「ありが……とう」
涙やら鼻水やらが本に落ちる前に、ジェレミーがハンカチで拭ってくれていた。
そして……ずっと欲しかったあの笑顔を……ふわりと幸せそうな笑顔を私に向けてくれている。
「一日早くなっちゃったけど……誕生日おめでとう、リノン」
「……どうして? 本当に? 本当に私でいいの?」
嬉しいのと、まだ信じられないのと。混乱して上手く言葉にならない。
「当たり前じゃないか。リノンは僕の初恋なんだから」
「初恋……?」
「うん。ふわふわして小さくて。栗鼠みたいに丸い栗色の目が、透き通った眼鏡の奥でキラキラ光るんだから……あんな可愛い子、好きにならない訳ないじゃないか」
「嘘よ……だって挨拶もしてくれなかったし、ブスって言ったわ」
「挨拶なんか出来なかったんだよ。可愛くて緊張しすぎて……恥ずかしくて。勝手に口が動いて正反対のことを言ってた。すごく後悔したけど」
ジェレミーは子供みたいな仕草で、照れくさそうに鼻をこする。
「本にボールをぶつけたのは?」
「ぶつける気はなかったんだ。僕がいるのに本ばかり読んでいるからヤキモチ焼いて……ボールを蹴って気を引こうとしたら、本にぶつかってしまったんだ。ごめんね」
九年越しの可愛い謝罪に、私は何だか可笑しくなる。だけど彼の声は、次第に苦しげなものに変わっていった。
「あの時は……君に大嫌いだと……結婚したくないと言われて……本なんか全部この世からなくなってしまえばいいと。それで……あんな酷いことを」
肩を震わせるジェレミー。私は大切な本を傍らに置き、その傷だらけの手をそっと包み込んだ。
「大切な形見の本だったのに……君の綺麗な手に火傷まで負わせて……それなのに、僕は最低の人間なんだ」
「最低?」
彼は私の右手を握り、親指でその火傷痕を優しく撫でる。
「君が成長してどんどん綺麗になっていく度に、不安で仕方なくて。だけどこの傷があれば、君は決して僕の元を離れていかないと。この傷が僕達を繋ぐ絆なのだと。そんな最低なことを考えてしまっていた。そんな自分が許せなくて……君の前で素直に感情を見せたり、上手く笑うことが出来なくなってしまったんだ。……本当にごめん」
……なんだ……そうだったのかあ……
ふふっと笑い出す私に、ジェレミーは驚いた目を向ける。
「……リノン?」
「私も同じなのよ、ジェレミー。貴方と繋がる絆なんだと考えたら、この傷が嬉しくて……愛しくて。たとえ貴方がシモーヌ嬢を愛していても……お別れして離ればなれになっても、この傷があれば生きていけるっ」
言い終わらない内に、私は彼の広い胸に抱き締められていた。
「リノン……リノン……」
手の甲から手首、そして腕まで。火傷痕に優しい唇が落とされる。やがて、あの時の火よりも熱い両手で頬を挟まれ、もっともっと熱い視線が交わされた。目を瞑り、彼に全てを委ねようとした時……
閉じていた舞台の幕が、遠慮がちに開いた。
「あのう……そろそろ客席の掃除をしたいんですけど」
幕の隙間からは、ベロニカやマルティナ、伯爵令息に大道具や小道具まで。演劇部の部員達がひょっこり顔を出し、ニヤニヤしながらこちらを覗いていた。
いつの間にか、私達が見せ物になっていたわ……
ジェレミーは私を見て、困ったように……でもちょっぴり楽しそうに眉を下げる。
まだ熱いその手は、しっかりと繋がれたまま────
後日友人から聞いた所、あの舞台は大成功だったらしい。もちろん賛否両論はあったが、今までの卒業公演で、一番心に残る舞台だったという感想が多く寄せられた。
◇◇◇
卒業した私達は無事に結婚し、伯爵邸で暮らしている。
今では彼が可愛いと言ってくれる眼鏡を堂々とかけ、好きな本を沢山読み、好きな小説を沢山書いていた。
初夏の暖かな休日。
ボールをぶつけられた想い出の木陰に二人で座り、一緒にあの童話集を開く。見るごとに違った味わいがあり、私の文章を輝かせてくれる……彼の手作りの挿し絵は本当に素敵だ。
重ねた手でページを開いては見つめ合い、陽だまりみたいな言葉と、甘いキスを交わす。
そう……もし今ここで終わるなら、とてもハッピーエンドらしいハッピーエンドね。でも……
長く続く道の先、私達のラストは、果たして本当にハッピーエンドだろうか?
ほんの少し視点を変えれば、幸せの裏には、私の知り得ぬ幾つもの哀しみがあるかもしれない。
私の人生の舞台で共演してくれた全ての人が、主役の私の為にスッキリ綺麗に捌けてくれるなんてことは、現実にはあり得ないから。
自分の人生は、所詮自分だけの強引で身勝手な物語なのだ。
それでも……貴方と演じた不器用な日々を、舞台の幕が閉じる瞬間に愛しいと感じるならば。
それはやはり、私にとって最高のハッピーエンドだったと、そう思えてしまうのだろう。
あ……
思考も感情のひとかけらさえも。
私の全ては燃え上がり、貴方の唇へ熔けていった。
ありがとうございました。