第二幕
次の休日。私は自分の部屋からぼんやりと窓の外を眺めていた。すっかり裸になった木と、白い空が寒々しい。ぶるっと震える背中に、私は窓を離れ、暖炉に手早く火を入れた。
……あれからしばらくは見ることすら怖かった火も、今は暖をとる為にこうして積極的に使えるようになった。
手をかざし冷たかった指先が温まると、図書室で借りた本、そしてノートとペンを取り出す。
温かい暖炉の前を離れがたくて、ちょっとお行儀悪いけど、絨毯に直接座りながら、脚本の構想を練っていく。
その内に、うとうとと眠くなり空想から夢の世界へと落ちてしまった。
「……ノン! リノン!」
大声と、激しい身体の揺れに目を覚ます。薄く開いた視界の向こうには、黒い三白眼が悲痛な表情で私を見下ろしていた。
「……ジェレミー?」
「大丈夫か! なんともないか!?」
「うん……寝ちゃっただけ」
状況がよく分からないまま、寝ぼけ眼でふわあと欠伸をすると、身体がギュウと何かに締めつけられた。
もしかして……私……ジェレミーに抱き締められてる?
慌てて身体を起こそうとするも、ただでさえ寝起きの状態。彼の腕の力にはとても敵わず、情けなくその胸に凭れかかった。
ジェレミーは大きく息を吐くと、さっきとは全く違う弱々しい声で呟く。
「ノックしても呼び掛けても返事がないから……ドアを開けたら床に倒れていて……心臓が潰れそうだった」
その言葉を裏付けるように、彼の胸は壊れそうなくらい早鐘を打っている。
そうか……あの時のことは、ジェレミーの中でもトラウマになっているんだわ。
「……驚かせてごめんなさい」
薪がパチパチとはぜる音に、彼は哀しい声を重ねる。
「いや……こちらこそごめん、勝手に入って」
腕が緩められるも離してくれる訳ではなく、そのまま彼の膝に座らされた。
「今日は……どうして?」
用事があるから会えないと言われていたのに。
「用が早く終わったから……少し顔を見て行こうと思って。……脚本を書いていたの?」
「うん。卒業公演でやるお芝居の」
絨毯に散らばる物の中から、ジェレミーは一冊の本を拾い上げた。
「『華麗なる婚約破棄全集』?」
「ええ。令嬢達の間で今流行っているんですって」
「流行っているって……婚約破棄が? どうして?」
彼の声のトーンがやや低くなる。
「婚約破棄されることによって、新たな幸せを掴むお話だから。うーん……根っこにあるのは、古い風習からの解放と自由恋愛への憧れだと思うわ」
我が国では、貴族から平民まで、幼い頃に親が許嫁を決めて結婚させる家が多い。ところが数年前から、隣国の自由恋愛主義の波が押し寄せ、我が国でも古い風習に逆らい恋愛の自由を主張する若者が増えた。それが婚約破棄物語の流行の背景だろう。
「……子供の頃からずっと一緒にいる相手より、新しい恋愛の方がいいのか?」
「家族みたいな情ではなく、恋愛のときめきを求めるのではないかしら」
「恋愛の先も、ときめきの先も、家族になって情を抱くことには変わらないじゃないか」
「そう……ねえ。たった一時でも、熱い何かを感じたいのでは?」
「一時? それだけの想いでわざわざ婚約破棄を? ……全く分からない」
彼は何故か項垂れると、私を抱く腕にギュッと力をこめた。
ジェレミー……何だか、いつもと違う?
ふと大きな手を見下ろせば、人差し指の先に、細い包帯が巻かれていることに気付く。
それ以外にも、治りかけの傷や、まだ新しい傷痕が沢山。
「これ……どうしたの?」
ジェレミーと会う時はいつも眼鏡を外しているから、今まで全然気付かなかった。
「ああ、剣術でちょっとね」
剣術? 子供の頃から運動神経抜群で、剣術大会で何度も一位になったこともある彼が、今更……怪我? しかも手に、こんなに?
黒い三白眼をじっと探っていると、それは優しく細められる。とくんと胸が高鳴り、慌てて目を逸らすも、傷だらけの指が伸びて私の眼鏡に触れた。
「眼鏡しているの、久々に見た」
「そう……ね。読んだり書く時だけ」
「いつも掛けていればいいのに。よく見えないんだろう?」
「眼鏡をしている令嬢なんてあまりいないから……おかしいわ」
「リノンにはよく似合うのに」
「……ブスって言ったわ、昔」
ジェレミーは目をぱちくりさせると、少し気まずそうに言う。
「あれは……恥ずかしかったから。本当は……」
それきり口をつぐんでしまった。
また……薪の音だけが響く室内。
私の口は勝手に開き、訊いてはいけないことを訊いていた。
「シモーヌ嬢は……ご友人なの? 最近よく……一緒にいる所を見かけるから」
すると彼は、気まずそうな顔で一言だけ答えた。
「……うん。まあね」
その様子にもやもやしたものを感じ、私は更に言葉を重ねる。
「綺麗な方ね」
あまりにも刺々しい言い方に自分でも驚く。今鏡を見たら、ものすごくブスに違いない……いやだな。
「そうだね」と答える彼を不安げに見上げるも、そっぽを向いていた為、私の酷い表情には気付かなかったかもしれない。
あれ……わざと視線を逸らしている?
これ以上訊くなという、彼の意思の表れにも思えた。
『……子供の頃からずっと一緒にいる相手より、新しい恋愛の方がいいのか?』
そんなの……貴方が一番分かっているんじゃないの?
彼女と居る時の自分の顔を、鏡で見てよ。私の時とは全然違うから。
全然……違うんだから。
◇◇◇
眩しい太陽に涙がどんどん溢れてくるものだから、私はとうとう眼鏡を外して、両手の甲で乱暴に目を擦る。
いつから……どうして……彼のことをこんなに好きになってしまったの?
優しかったことに気付いたから?
容姿が整っていることに気付いたから?
ただ……傍に居ると温かいから?
情なのか、愛なのか……。
その区別は分からないけれど、私にとっては、この感情の全てが大切で。火傷の痕さえ、自分と彼を繋ぐ絆なのだと嬉しく思える。
でも彼にとっては、私の存在は愛を阻む重い枷でしかない。この傷がなければ婚約を破棄し、シモーヌ嬢と新しい人生を歩めたのかもしれないのだから。
……いえ。責任感が強い彼のこと。たとえ私に傷がなくても、そんなことは出来なかったわ。この前、『婚約破棄』について話した時も、強い抵抗を示していたもの。
……結婚してしまえば、確かに家族の情は育めるかもしれない。愛する人の記憶も、別れの哀しみも、徐々に薄れていくのかもしれない。
でも……それで本当に幸せになれるの? 心の隅っこで、燃やすことの出来なかった想いが、ずっと燻り続けるのではないかしら。
私は彼に幸せになって欲しい。自分の想いに正直に、愛する人と向き合って欲しい。
離れても、一緒に居られなくても……彼が心から笑っていてくれることが、私の幸せなのだから。
どうしたら重い枷を外してあげられる? どうしたら……そうだ……
私は草の上から身体を起こすと、ノートにペンを走らせた。
◇
三ヶ月後────
演劇部の卒業公演当日、私はジェレミーと共に、最前列に座った。
いつも都合が合えば、私の描くお芝居を積極的に観に来てくれた彼。私から誘ったのは初めてだが、笑顔で応えてくれた。……幼い頃、お城のページを開いたあの時によく似た、わくわくと弾むような笑顔で。
このお芝居を観た後、一体彼はどんな顔をするのかしら……
じわりと熱くなる目を眼鏡で隠すと、静寂の中、そろそろと開く舞台に注目した。