第一幕
そうね……舞台はもちろん、人が沢山集まっている場所がいいわ。園遊会、夜会……ああ、時期的に卒業パーティーがピッタリじゃない。
生徒達が懐かしい思い出話に花を咲かせ、盛り上がってきた頃、貴方は美しい彼女の腰を抱いて中央へ颯爽と出る。そして地味な私へ向かってこう言うの。
『リノン・ハーディ嬢! 貴女を婚約破棄する!』
……って。
……ダメ。これじゃ弱いわ。まず、“貴女”じゃ
なくて、“お前”ね。
“貴女”に斜線を引き、小さく“お前”と書き直す。
あと……そうよ、理由もちゃんと言ってもらわなきゃ。テンプレート的なのだと……
『シモーヌ嬢に対する悪行の数々、私が知らないとでも思っているのか!? なんたら~かんたら~』
ってヤツよね。でも……なんたらかんたらの部分が思い付かないわ。
そもそも私は、シモーヌ嬢とはなんの接点もないし。
うーん……
仲間外れ、ワインをかける、ドレスを破る、足を踏む、階段から突き落とす……のは絶対無理! 犯罪!
……はあ。どれもハードルが高いなあ。悪行って大変。
私はペンをノートに転がすと、草の上に寝そべり、青い空を見上げた。
寄り添い伸びる二つの雲と、少し離れてぽつりと浮かぶ一つの雲。風に流され、すいすい距離が開いていく。
あの雲はいいなあ……気持ち良くお別れ出来て。
離れた隙間に覗いた太陽。眩しすぎて、ごしっと目を拭った。
◇◇◇
……なんで怒ってるの?
こちらを睨む黒い三白眼が怖くて、母のスカートに隠れた幼い日の出逢いを、私は昨日のことのように思い出す。
あれは九年前の、春の麗らかな園遊会。
君達は大人になったら結婚するんだよ、と引き合わされたのが、その三白眼の伯爵令息ジェレミーだった。
挨拶もせず、高い所から私をギロリと見下ろすその目が怖くて怖くて。
ずっと母にくっついていたかったのに、「遊んでいらっしゃい」と押し出されてしまう。
仕方なしに彼の方へ向かうも、取り巻きらしき小さな令息達が三白眼を取り囲んでいて、余計に怖い。
「……あのう」
「ブス」
これが最初に交わした会話だった。
結婚の意味もまだよく分かっていない子供だったけど、とりあえず、彼と性格が合わないということだけは分かった。
私は逃げるように立ち去り、離れた木陰で持ってきた本を開いた。
次に会ったのは、枯れ葉が舞う秋の園遊会。
グラスを手に語り合う大人達から少し離れた場所で、三白眼と取り巻き達がボールで遊んでいた。
伯爵邸の東屋では、小さな令嬢達が大人しくお人形遊びをしていたけれど、私はもうそこに混ざる歳でもない。
今日も持ってきてよかった……と、好きな本を手に木陰に腰を下ろした。
ボン!!
何が起こったか分からず呆然とする。強い衝撃と共に、開こうと手にしていた本は、遥か向こうの芝生へ飛ばされていた。その後をコロコロと転がるボールを拾い上げたのは、あの三白眼。
ぽかんとする私と目が合うと、彼は言った。
「……ブス」
これが二度目の会話? だった。
その次に会ったのは、今にも雪が降り出しそうな白い冬の日。
父の招待で、三白眼一家が、我が子爵家にやって来てしまったのだ。
私は挨拶と食事だけ済ませると、「一緒に遊びなさい」と言われる前に、そそくさと自分の部屋へ逃げる。
一番お気に入りの本を本棚から取ると、ソファーに座り開いた。ページを捲るたびに、お城やお姫様が立体的に浮かび上がる仕掛けに、私は忽ち夢中になっていく。
「……おい」
なんか聞こえた?
「おい!!」
振り向くと、いつの間にか三白眼が立っていた。驚きすぎて何も言えず固まる私に、彼は睨みながらぼそっと言った。
「……遊んでやるよ」
あそ……ぶ? あそぶって、あそぶことだよね?
言葉と表情が合わなすぎて混乱する。私は恐ろしくて、首を振りながら「……いい」とだけ返した。
「それ、何だ?」
彼は私の本を指差す。
「……ほん」
「僕にも見せろ」
咄嗟に頭に過ったのは、彼にボールをぶつけられ、綺麗な表紙に傷が付いてしまったあの本のこと。
私は彼が本に手を伸ばす前に、素早く畳み背中に隠した。
「……いや」
私の態度に、彼の三白眼がつり上がる。
「……見せろ!」
「いや!」
同い年なのに体格差があるものだから、簡単に腕を引っ張られ、背中と背もたれの隙間に落ちた本を取り上げられてしまう。
「返して!」
取り返そうと試みるも、彼は素早く身を躱し、本をパラパラと捲り出す。
「へえ……」
立体的なお城のページに気を取られている隙に、私は背伸びして本に手をかけた。
やった! 届いた! けど……
驚き本を振り払う彼と、本を掴んだままバランスを崩す私。真逆の方向に引っ張られた本は耐えきれず、ビリッと鈍い音がして、お城が真ん中から裂けてしまった。
あ……
目がカッと熱くなって、涙がボロボロと溢れる。視界は霞み、彼も、破れた本も、もう何も見えなかった。見えないままに、激しい気持ちをぶつける。
「だから……だからいやだったのに! 大好きな本を傷付ける人なんか嫌い! あなたなんか大嫌い! 『けっこん』なんてしたくない!」
「……こっちだって、お前みたいなブスと『けっこん』なんてしたくない! 本ばかり読んでる女なんて、つまらなくて大嫌いだ!」
そう言うと彼は、破れた本を手にどこかへ向かう。
……え?
涙の向こうに、赤く揺れる何かが見える。目を擦り、飛び込んできた光景に私は声にならない悲鳴を上げた。
走り出し、何も考えずに赤いそこに手を突っ込む。あまりの熱さに、何も掴めないまま手を引っ込めてしまう。それなのにまだ、手と腕が熱い。
遠のく意識の中に見たのは、水浸しの絨毯と、散らばった花。そして暖炉の中で悲しく燃えていく、祖母の形見の本だった。
落ち着いた頃に、私はやっと、あの時の状況を理解した。
彼が暖炉に本を投げ入れ、私がそれを取ろうとしたが、服の袖に火が燃え移ってしまったこと。彼がすぐに花瓶の水を掛けた為大事には至らず、動かすのには支障ないが、火傷痕は残ってしまったこと。
そして……彼が泣きながら、何度も私に「ごめんなさい」と謝っていたこと。
両家は話し合った結果、子供同士の些細な喧嘩と事故であったことを理解し、変わらず許嫁として付き合っていくと決めた。
……それはきっと、私の傷の責任を、彼に取らせるという意味でもあったのだろう。
それからの彼は優しかった。自分から進んで話し掛けてくることはなかったが、こちらの話には穏やかに応じてくれる。
恐いと思っていた三白眼は、よく見れば、本当はとても優しかったことに気付いた。
そして……いつも私の手を気遣ってくれた。
私はそんな彼の前で、本を読むことは出来なくなった。
一年……二年…………年月を重ねるごとに、彼の背は伸び、少年から逞しい青年へと成長していく。私もあの後少しだけ背が伸び、固く編んでいた地味な焦げ茶の髪を下ろす。子供同士の関わりは、次第に男女の交流へと変わっていった。
ジェレミーは今日も学園の門の前に立ち、馬車から降りる私を、紳士らしくエスコートしてくれる。
私の右手に触れるその大きな手は、いつも柔らかい羽のように優しい。
もうちっとも痛くないのに……なんだか切なくて、胸がチリチリする。こうして優しくされる度に、彼の手の方が、よっぽど傷付いているように感じるから。
今思えば、お城のページを開いた彼は、弾むような笑顔を浮かべていた。
もしあの時、いいよって言って一緒に本を開いていたら……今頃こんな風に、無理して笑ってもらわないで済んだかな。
……罪悪感を抱かせることはなかったかな。
◇
「リノン! 学園祭のお芝居もすごく好評だったわ。卒業公演の脚本もお願いね」
「嬉しいわ。次はどんなのにする?」
「婚約破棄モノがいいかなあ。令嬢達の間で、今すっごく人気なのよ。理不尽な理由で婚約破棄された可哀想な令嬢……そしてその可哀想な令嬢を、華麗に奪い去る新たな令息。一方非情な元婚約者には神の天罰が……! ラストはスッキリ華麗なハッピーエンド。ね、素敵でしょ?」
「確かに華やかで舞台映えしそうね。調べて書いてみるわ」
読書が好きだった私は、今小説を書くことに夢中だ。
演劇部に所属する友人から依頼を受けて、こうして度々脚本を書かせてもらっている。
婚約破棄……かあ。
図書館で流行りの本を色々探してみよう。
何冊か読み、気になる本を借りて鞄に入れた時には、日が傾き始めていた。急いで帰ろうと廊下を歩いていた時、窓から見えた男女の姿に息が止まった。
癖の強いふわふわの黒髪と、黒瑪瑙みたいな三白眼。スラッと伸びたあの長身は、間違いなく私の許嫁……婚約者のジェレミーだ。
その向かいに立っているのは、学園一の美人と噂されるシモーヌ嬢。なびく風すらも喜んでいそうな艶やかな金髪に、優しい蜂蜜色の瞳。
夕陽が染める二人は、地面に伸びるその影までも美しく……お似合いだった。
私にはいつもどこか硬い笑顔を向けるジェレミーは、今、彼女を見てふわりと幸せそうに微笑んでいる。
本物の笑顔って……偽物と全然違うんだな。
そんなことを考えていると、シモーヌ嬢と目が合いそうになり、慌ててその場にしゃがみ込む。心臓がばくばくと暴れ……そしてキリキリと苦しかった。
半年前くらい前からだろうか。親しげに寄り添っている姿をよく目撃されている二人。婚約しているはずの私達は、毎朝のエスコートの時にしか会わないというのに。
『あの方、ジェレミー様とは全然釣り合わないわよね』
『シモーヌ嬢の方がよっぽどお似合い』
囁かれる陰口にはもう慣れたけど……実際にああして見てしまうと、やっぱり動揺してしまう。
単なる噂だと流すには、ため息が出るほど二人の空間が素敵すぎたから。
五ヶ月後の結婚を控え、彼は今どんな気持ちでいるのだろう。
義務、責任、罪悪感……
彼は本当に可哀想だ。
私は服の袖を捲り、手から腕に続くひきつれた火傷痕に触れる。
見た目なんてどうでもいいのにな。ペンさえ持てれば、私はそれで充分だ。
どうせこの先、ジェレミー以外の誰かを好きにはならないし、好きになってもらうこともないのだから。