3 決意
アイローラ家とオルランド家の庭を仕切る扉が、無慈悲にバタンと閉じる。
ディアスの後ろ姿は、垣根と闇にかき消されてしまった。
冷たい夜風が、ルーナを現実へと引き戻す。
「どうしてなの……?」
渇いた声が喉の奥からこぼれ出た。
昨日の今日で、なにがあったというのか。
思い当ることがない。
(ということは、昨日より前のことが原因?)
プロポーズしてくれたその瞬間の出来事から、過去をさかのぼって思い出してみる。
(そういえばわたくし、あんな素敵な求婚の言葉に、きちんとお返事できなかったわ)
両親への報告だって、すべてディアスが主導でしてくれた。ルーナは彼の隣でふにゃふにゃ笑っていただけである。
(いつもパーティーへ出かけるときも、誘ってくれたのはディアス)
自分からどこへ行きたいと言ったことはない。彼に誘われるまま、導かれて参加していた。
(パーティー中だって、踊ろうと言われて踊り、食べようと言われて食べていただけだわ)
すべての行動は完全に彼に任せ、自分はなにも考えずにのほほんと過ごしていた。
(他の男性からのダンスの誘いだって、断ってくれたのはディアスだった)
自分ではなにもしていない。
(そもそも、デビュタントのエスコートだって、わたくしからお願いすべきだったのでは?)
何事もすべてが、ディアスの厚意に甘んじて自分は楽をしていたのだ。
(きっとわたくしが受け身すぎたせいで、嫌気がさしてしまったのよ!)
今日だってそうだ。
部屋で彼の帰りを待っていただけ。
もっと、庭に降りるとか、玄関口へ出て労うとか、婚約者らしい振る舞いはできたはずなのに。
(ああ、わたくしのバカ、バカ、おおまぬけ!)
大切な人を、ちゃんと大切にできてなかったのだ。きっと与えてくれる愛に満足して自惚れていたのだろう。
(なんて傲慢なの。嫌われても当然だわ)
ディアスのことは大好きなのだ。
ただ、恥ずかしくてうまく気持ちを言葉に出来なかっただけで。
しかし彼からすれば、どんなに心を尽くしても、まるで響かない女性のように思えただろう。
(でも、婚約破棄なんて嫌)
どうすればいいだろう。
やはりこちらから動くべきだ。
(もしもまだ許してくれるなら――)
ルーナは決意と共に、ナイトドレスをぎゅっと握り締めた。
★ ☆ ★
時は丸一日さかのぼる。
ディアス=オルランドは、天にも昇る心地でいた。
すでに時刻は深夜、自宅で開かれているパーティーはそろそろお開きといった時間だったが、ディアスは仲の良い友人たちに囲まれて、次々に酒を勧められていた。
真っ赤なグラスワインを、ぐいっと一気にあおり、熱い息を吐く。
「やっっっっっっっとだ!」
腹の底から叫べば、周囲の熱気も高まった。
「とうとう初恋を成就させたか」
「何十年間の片想い、お疲れさん!」
「いつになっても告白しないから、もう一生幼馴染みのままでいいのかと思ってたぜ」
友人たちの軽口に、ディアスは唇を尖らせる。
「仕方ないだろう! ルーナは恥ずかしがり屋なんだ。強引に距離なんか詰めたら、怖がって逃げられてしまう」
ディアスは、物心ついたときからずっとルーナのことが女の子として好きだった。
だがルーナの方はそうではなく、仲良しの遊び相手としてディアスを見ていた。
それが十歳を少し超えた頃、繊細な変化が起こったのだ。
その日をディアスは今でもよく覚えている。
いつものようにタウンハウスの庭で遊んでいたときだった。ふとした拍子、ディアスがルーナの手を握った。
すると、彼女は突然頬を赤らめて視線をそらしたのだ。
(ルーナが俺を意識している)
悟った瞬間、身体中の血が滾るような心地がした。
そのまま華奢な身体を抱きしめ、薄紅色に染まる首筋に熱い唇を押しつけたい――そんな暴力的な倒錯に襲われた。
(だが、そんなことしたら!)
驚かれるどころではない。
引かれるだろう。
いや、けだもののようだと恐れられ、避けられるに違いない。
(そんなのは、だめだ)
彼女に嫌われたら、ディアスは生きていけない。
身勝手な欲望を押しつけるような真似は絶対にしてはいけない。
彼女を傷つけたくもない。
(じっくりと時間をかけて、距離を詰めて、信頼を得て、絵本に描かれるようなプロポーズをして、彼女の望む結婚式を挙げて、幸せな家庭を築く――)
緩やかに、柔らかく、優しく、確実にルーナを囲い込む計画を立てて、やっとここまできた。
「もう少しだ。あとちょっとの我慢でルーナが手に入る」
だいぶ酔いが回ってきたせいで、いつもなら口にしない願望がぽろりとあふれてしまう。
同じく酔った友人たちは、忍び笑いをこぼした。
「なに言ってるんだよ、もう遠慮はいらないだろう? 婚約者なんだし」
「今夜にでも、バルコニーから忍び込めよ」
調子に乗って艶事をそそのかしてくる友人らを、ディアスはきっとにらみつける。
「馬鹿言うな! 長年の努力を水の泡にするつもりか。ルーナは純粋なんだ。結婚式を挙げるその日まで、手なんか出せるはずがない。軽蔑されたら俺は終わりだ!」
「マジかよ」
「おい、賭けようぜ。ディアスが本気で式まで我慢できるか」
「言ってろ」
十年以上耐えたのだ。今さら数ヶ月待つくらいなんでもない。
そのときディアスはたしかにそう思ったのだ。
だが、あえなくその決意は崩れ去る――。