11話
酷く汗が流れてしまう、目頭が熱くて肺が痛くて、胸なんて感情が荒れ過ぎて酷く気持ちが悪い。
それでも私は走る、走る、走る。心臓が痛くなっても肺がキリキリ締め付けられても走った。
絶対に脚を止めない。止めたらまた美春を傷つける。だから止まりたくてもダメ。
「ハァ……ッッ、ンッッ、フゥ……フゥ……」
頭の中で何度も"もしも付き合えたら"と思っていても、私は春美を傷つけた私がそれを望んではいけない。
(そんなの嫌!! あのままさよならなんて、本当は望んでなんかいない癖に、どうして逃げるのよ)
心の中の私が不満を言っている。何度も、私を立ち止まらせようとしてる。
脚が痛い、心臓が痛い、肺も痛くて堪らない。なにより心が痛い。
(お願いよ。止まって、立ち止まりなさいよ!!)
正直、願ってしまった。
美春と再会した時。ここで告白をすれば付き合えるんじゃ? って。
そんなの甘過ぎる考えよ。
だって都合が良過ぎるでしょう? 今ここで告白したのだから、過去の事を無かった事にするみたいで私は耐えられない。
思えば、春美に会えなくなってからも酷いことをし続けていた。
仮初でも恋する気持ちを味わい続けていたら、また美春を苦しめた。
でもね『臆病者』って言われた事や『勇気を持てば』って言われた事は許せなかった。
美春が言ったことは間違っていないのにね……。
私は愚かで惨めな好きな人に好きと言う勇気を出せない臆病者。だから私は、独りで生きていかなくちゃいけない。
そう言う結末を、いつの間にか選んでしまったの。
(違う。私はまだ何も選んでない。私は逃げてる途中よ)
分かったら、もう戯言を言うのは止めなさい。苦しむ未来を選んだのは……私なの。
(いや、もう苦しみたくない。悲しい想いは嫌よ。泣くのはもうイヤなの)
走れ、走れ、走りなさい。痛くても辛くても悲しくても。両脚を動かし続け、走りなさい。心の私の声なんて無視して、ずっと遠い未来まで……。
「ン……はぁ、はぁ…………ッッ。ぁ、ぅ、ぁぁぁ……」
その刹那。
じんわりと視界が滲んで、息づかいも酷くなっている事に気が付いた。肺が刺された様に痛くて目元が熱い。
酷い気分だわ、悲しい感情よりも酷い。でもそれで良いの。選んだ未来に、後悔は……無いんだから。
「泣きながら走るなんて、器用ね。雪美」
「……ぇ」
その時。耳に優しい声が聞こえた。
最も聞き覚えのあるその声は、私をそっと包み込んだ。嘘、なんで……どうして貴女の声が聞こえるのよ。
「み、みは……る?」
この瞬間。私の脚は無意識に止まる。その直後……背中に衝撃を感じ、私は無理矢理に前を向かされた。
「やっと、追いついた」
美春の顔は、笑っていた。
怒っていたのに、なんで? 傷つけたのに、どうしてそんな顔が出来るのよ。
やめて。その顔を見るだけで、私は許された気になる。許しを思うのは罪なの、だからその顔をしないで。
「また。私を叩きに来たの……?」
だから突き放す言葉を言った。なるべく睨んで、距離を取るように。
「んーん。違うわ、優しく抱きしめにきたの」
けれど、私の言葉に返したその言葉は私を強く安らかな気持ちにさせた。
「抱きしめ……る?」
その行為になんの意味があるのよ。
美春の気持ちが私には分からない。そう思った瞬間、とても柔らかな感触が私を包む。
今、私は……美春が口にした通り、抱きしめられた。
「……ぁ」
「どう? 気持ちいいでしょ」
その抱擁は、美春が口にした様に、優しいもの。絶対に離さないよう背中に手を回し、涙で濡れた私の顔を優しい目で見つめてくる美春の顔は……悲しげな私の心を徐々に癒していく。
(美春、もっと強く抱いて? お願い)
いけない。私の心が美春に惹き込まれつつあるわ。拒まないと、否定しないと、じゃないとまた私は……美春を傷つけるわ。
「離して」
だから、小さく……それもか細い声で否定した。もっと強い口調で言わなきゃ、きっと美春には伝わらない。
ほら、抱擁がほんの少し強くなった……。どんどん離れられなくなってくる。その前に……離れなきゃ。
「離したら、また離れていっちゃうでしょ?」
「……」
「雪美の身体は離れたくないって言ってるよ。だって、少しも抵抗していないもの」
「ち、違うわ。直ぐにでも抵抗なんて出来るんだからッッ」
少し力を入れれば、こんな抱擁なんて直ぐに。直ぐに抜けられ、抜けられ……る。
「なん……で? どうして? 身体が……言うことを聞いてくれないの?」
少しも身体に力が入らない。美春の抱擁を受け入れるように、彼女の方へ寄り添っている。吸い寄せられる様に私の手も美春の背中に回った。
理解し難い魔力の様なチカラが私の身体を支配してる。抗えない、どんなに美春から離れようとしても……。
「い、や……」
私の身体と心は私の意思を無視して、美春を求めてる。この匂いも温もりも、ぜんぶぜんぶ全部……堪能するように。
ダメ、離れないと。直ぐに離れないと……私はどんどん美春から離れられなくなっちゃう。もう振ったの、サヨナラするって決めたのに。
「いや、いや、いやッッ。離れて、離れてよ、離してッッ」
その否定の言葉は……あまりにも小さい。きっと美春にしか聞こえていない。少しも抵抗せずにただ言葉を言うだけ。
もっと嫌がらないと、もっと本気で抵抗しないと美春は離してくれない。
「どうして。なんで追いかけて来るの? 酷いことしたのに、振ったのに。なんで? どうして……私を諦めてくれないの」
痛い、なにもされていないのに、痛いよ。ねぇ、私……苦しんでいるのよ? だから離してよ。ずっと抱いて、私を……もう私の気持ちを癒してこないで。
「雪美の事が好きだから、此処に来たのよ」
ーーッッ。
美春の言葉は私の心まで掴んだ。好き、なんて今は言わないで欲しかった。許された気になるじゃない。
「雪美は本当に私と離れ離れになりたいの? やっと会えたのに……これで一生サヨナラでいいの?」
何を言うのよ、それで良いに決まってる。私がソレを決めたんだから、美春が邪魔をする事じゃない。
そもそも私からサヨナラを切り出したのよ。だから追い掛けてこなく良かったのよ。
「良いに……きまってるじゃない」
「ほんとうに?」
あぁ、ダメ。歯切れが悪すぎて伝わらない。ちゃんと伝えにいと、美春に伝わるまで……ちゃんと!!
「良いって言ってるでしょ。もうお別れって私は言ったじゃない。だから、もう追い掛けてこないで」
「雪美はそれで良いの?」
「だ、だから良いに決まってるじゃない。何度も言わせないで!!」
口が……重たい、気を抜けば噛んでしまう。言う度に息が切れて、心が痛くなっていく。
辛い、苦しい、悲しい、どうしてよ……なんでこんな気持ちにならなきゃいけないの。
「雪美はそれで幸せになれる?」
「そ、そうよ。これで幸せになれるのよ」
「私はそう思わない。雪美が幸せになるには、私と付き合うしかないよ」
やめて、もう止めてよ。しつこいよ、私がしている事を止めないで。いい加減に伝わってよ、私は美春を振ってるのよ? 諦めてよ……普通は諦めるじゃない。
なのに美春はどうして、そんな事が言えるの? どうしてわかり切ってるみたいに言えるの。
「美春は私のことを絶対に振りたくなんて思って無いんじゃない?」
何処までも、美春は私の気持ちを否定する。私の中で強い困惑と混乱が起きて、寄り添い続ける美春の温もりに、私は……どうにかなってしまった。
「うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいっっ!!」
今まで出した事が無いくらいの大声をあげ。私は言わないと決めていた言葉を言ってしまった。
「もう止めてよッッ。これ以上私の大好きな人に……ッッ。嘘をつかせないで!!」
その言葉を涙ながら掠れた声で話してしまった。完全に取り乱した……と言うより、私の心にある何かが弾けてしまった。
直後に私は我に返り、口を押さえた。もう、手遅れ……無意識に出てしまった言葉は美春の耳に届いてる。
良くそんな言葉が言えたものよね。私がソレを口にする権利なんて無いのに。
すごく薄っぺらい言葉、無意識ながら遅過ぎる"告白紛いの言葉"を発した後、私は呆れた。
……きっと万が一の可能性を信じていたんだと思う。まだ美春が私の事を好きなままでいる事に希望を持って、私は言ってしまったんだわ。
美春。
貴女を傷つけた私の今の気持ちを聞いて、貴女はどう思ったの。私への気持ちは変わっていない? こんな私の事をまだ大好きなままなの?
今の気持ち、私に聞かせてよ。
「知ってる」
「……え」
美春は私の事を全て見透かした様なその眼で見つめ、静かに応えた。聞いただけで胸が高鳴った。
しって……る? ど、どういうこと? 私が求めていた答えとは掛け離れているわ。
そんな私を知ってか知らずか、優しく私の後頭部に触れて、静かに撫でてくる。
「ぅ……」
無意識に目を細めてしまう程、心地良い。気がついたら私は美春に寄り添っていて、あれだけ美春を振ろうとしていた私は消え掛けていた。
直後、この行為で美春の気持ちが伝わってくる。
(自分を偽るのなら偽り通したかったのに)
私は嘘がつけない人だと、今分かった。ずっと、美春から遠ざかろうとしたのに……私はソレを許さなかった。
そんな想いからか、私は美春の胸に耳を当てていた。
トクンッ、トクン……と高鳴る鼓動。これは美春の鼓動? スゴく、早い。
伝わるわよ、美春の想いが。口に出してなくても、仕草で私の事を大好きなんだって分かる。
(泣かせちゃったのに、沢山傷つけたのに。それでも好きでいてくれるなんて)
愛が深すぎるわよ。でも、私はそんな美春の愛の深さが大好き。
だからなのかしら? 美春の事を振ろうとしている私が、唐突に馬鹿らしくなってきた。
(こんなに愛情表現してくる人を振るのなんて、無理だったんだわ)
良いのかしら。
私が許せないって思った事なのに、こんな簡単に心変わりしてしまって。静かに思い悩んでいた時。美春は私の耳に静かに息を吹き掛けるように。
「ずっと前から、雪美は私の事好きって分かってたから」
「……」
優しく話してくれた。擽ったい、けど心地いいと感じるのは何故? 分からない、分からないけれど、私は妙な声を出してしまった。
「そんな雪美だから。私を大切にしたくて振ったんだって、さっき分かったの」
「……」
その中で、申し訳なさそうに美春が話した時。また、僅かに罪悪感が生まれつつあった。けれど、それを拭うように美春は続けて語る。
「臆病だなんて言ってごめんなさい。雪美は立派よ」
「違う、私はそんな人じゃないわ」
「んーん、そんな事ある。私の方が臆病だった。互いにずっと好きでいたいが為に、知らずに気持ちを押し付けていたんだもの」
美春が気にする必要なんて無いのに。貴女こそ臆病じゃないわ。こんな私の事を見捨てなかった優しい人よ。
「きっと私は好意を向けられなくなるのを恐れているのね」
「美春……」
「知らずに雪美の事を傷付けるくらい、好きになって欲しくて必死だった」
「止めて。そんな事言わないで」
美春が謝る事はないわ。そう言おうとした時、私の唇に優しく人差し指を当てた。
また、私をドキドキさせてくる。どうしよう、身体が火照ってきた。
「謝り合いはここまでにしよ。私、何がなんでも雪美と付き合いたいの」
「……」
そんな時、美春が言ったのは、私の火照りを更に熱くさせる言葉。私は私が許せないって思っていたのに。
……やっぱり付き合いたい。でも、それで良いの? まだ私の問題は消えてはいないのに。
「雪美。さっき貴女に言った言葉をもう一度言うわ。勇気を出して。それだけで雪美は幸せになれるから」
「ゆ、勇気……を」
あの日出すことの出来なかった勇気を、いまここで。
「此処にあいつ等はいない。だから、雪美なら言える」
「美春」
貴女の気持ち、私には大きすぎて熱すぎるわ。けれど、ソレには必ず応えなきゃいけない。
だって、こんなにも信頼してくれているんだもの。
(まだ怖い。此処にアイツ等はいないけど、勝手にあの記憶が蘇る)
否定、否定、否定。
言われたのは否定の言葉、私はアイツ等の言葉の呪縛から……自力で抜け出さないといけない。
「だから、これはあの時のやり直し」
「や、やり直し? ぅぁ……」
美春は私の顎を優しく持ち、くいっと上に上げた後。
「雪美の事が世界中の誰よりも大好き。だから、私と付き合って」
あの時と一言一句変わらない愛の告白を私に告げた。




